第6章:「キャンプの綻び」── パート6
激しい雨が、神崎猛のフードに容赦なく叩きつけられていた。
眼下の泥の中に横たわる、トビーの冷たくなった屍。その額から流れる鮮血は、雨水に薄められながら泥水へと溶け込んでいく。
神崎は、その死体を見つめながら、何の感情の揺らぎも感じていない自分を自覚していた。
極北の凍土、あるいは酸素すら希薄な高山。神崎が踏破してきた過酷な大自然において、死とは単なる「脱落」の同義語に過ぎなかった。動かなくなった肉体は、嵐で折れたダグラスファーの巨木や、地面に落ちて腐りゆく落葉と同じく、自然の循環に還るだけの物質だ。そこには哀悼も怒りもなく、ただ「排除された弱者」という厳然たる結果があるだけだった。
神崎にとって今問題なのは、このトビーの「肉塊」が、自分が築き上げたこの「帝国」にどれほどの損害をもたらすか、というその一点だけだった。
(シカゴの心臓外科医……)
神崎の脳内に、トビーをこのアカデミーへ放り込んできた、あの真面目そうな父親の顔が浮かんだ。
もし、トビーの不審死(指導死)が公になれば、あの裕福な医師は、一線級の弁護士軍団を雇い、あらゆる手段を使ってこの山奥に捜査のメスを入れさせるだろう。マスコミは色めき立ち、KPL-TVのような記者団どもが、カメラを抱えて自分の過去の「体罰の噂」をほじくり返す。
世界的な冒険家・神崎猛。その輝かしい名声は一瞬にして地に堕ち、彼は「若者を暴力でなぶり殺したサディスト」として、全米の晒し台に上げられる。アカデミーは即座に閉鎖され、彼の著書や講演、これまでの遠征を支えてくれたスポンサーたちも、一斉に彼から手を引くだろう。
(この程度のひ弱なガキの死のために、俺のすべてを失ってたまるか)
神崎は、極地の死線すらも意志の力で踏み越えてきた。一人の有象無象の少年の脆い肉体に、自らの栄光を泥まみれにさせるわけにはいかなかった。
「ビリー。立て」
神崎の声は、暴風雨の中でも驚くほど低く、安定していた。
「ボス……」
泥まみれの膝をつき、子供のように泣きじゃくっていたビリーが、縋るような目で彼を見上げた。
「トビーは死んでいない」
神崎は、フードの奥から、鋭い猛禽類のような視線をビリーに突き刺した。
「彼は今夜、カスケードの暴風雨と闇のなか、過酷な訓練に耐えかねて、宿舎から単独で脱走したのだ。行方不明だよ」
「え……? でも、トビーはここに……」
「トビー・ジェンキンスという愚鈍な少年は、自ら檻を破り、夜の深い森に迷い込んで遭難した。……それが『事実』だ」
神崎の姑息な作り話が、ビリーの混乱した脳内に染み渡っていく。
「お前がトビーを殺したわけではない。彼は自分の弱さゆえに、自ら死を招いた。お前がこのアカデミーを守りたいのなら、そして自分の将来を守りたいのなら、俺の言う通りにしろ」
ビリーの瞳から、恐怖が徐々に消え、代わりに急速な安堵感が戻ってきた。ビリーは神崎のこの超越者のような冷静さに、救いを見出したのだ。
「脱走……した。そうです、あいつは、トビーは勝手に逃げ出して、勝手に野垂れ死んだんだ……!」
ビリーは狂ったように何度も頷き、鼻水と涙にまみれた顔で神崎のコートの裾を掴んだ。
「ボス、助けてください。僕、警察に行きたくない。あいつの親にも会いたくない。僕は、あなたの言った通りにします。何だってやります、ボス……!」
「よし。まずはコーチたちを呼べ。この死体を、南の尾根にある古い使われていない資材小屋へと運ぶ。嵐が去るまでそこに隠し、今後の遺体の処理と、警察(保安官)への『捜索願』の手続きを進める」
神崎は、トビーの薄いシャツに染み込んだ血を見つめた。
警察には『トビーが脱走した』と、しかるべき時を置いてから届け出る。まずは我々自身で夜を徹して捜索していたという事実を繕うのだ。その後に警察の捜索隊によって遺体が発見されたとしても、それは『嵐のなか無謀な脱走を謀り、暗闇で足を滑らせて転落し、頭部を強打した事故』として処理されるはずだ。日頃から神崎を「若者の更生を支えてくれる教育者」と慕う地元の保安官なら、そのストーリーを疑うことなく受理するだろう。
神崎は、再び腕を組んで、嵐の原生林を見上げた。
これまでに、もっと過酷な自然界の脅威を切り抜けてきたのだ。この程度の危機的状況、自らの冷静さとビリーたちの口を塞げば、容易に処理できる。
だが、神崎はまだ知らなかった。
自分が仕組んだこの「単独脱走」という完璧なでっち上げのすぐ裏側で、すでにケイトのカメラのレンズがアカデミーのゲートに向けられていること。そして、この嵐の谷底には、クリスによって先だって隠滅されたサラの遺体がすでに埋められており、神崎の隠蔽工作そのものが、神崎を「連続殺人犯」へと仕立て上げるための、最凶の罠の最重要のパーツになるということを。
神崎は踵を返し、泥を踏み締めながら、嵐の闇の中へと静かに歩み去っていった。




