第6章:「キャンプの綻び」── パート5
嵐の咆哮が、カスケードの森全体を激しく揺さぶっていた。
バケツをひっくり返したような豪雨が、崖の粘土質の土を泥流へと変え、視界を完全に白く塗りつぶしている。
「走れ! 遅れるな!」
ビリーは暴風に負けじと喉を潰さんばかりに叫んだ。だが、その声は激しい雨の音に掻き消されそうになっていた。
列の最後尾を走るトビーの姿は、すでに限界を遥かに超えていた。丸太を担いだ腕は力なく垂れ下がり、泥水に足をすべらせて何度も膝をついていた。彼の喉の奥からは、もはや喘鳴すら聞こえない。ただ、肺が完全に酸素を拒絶し、無意味に口を激しく開閉させているだけだった。
「ヒュ……ッ……ヒュ……」
不意に、トビーが丸太を取り落とした。丸太が泥の斜面を不吉な音を立てて転がり落ちていく。
トビーは両手で自らの喉を掻きむしり、その場に崩れ落ちた。顔色は恐ろしい土気色に変色し、瞳は宙を泳いでいる。激しい喘息の発作が彼の細い全身を痙攣させていた。
「何をしている、トビー! 丸太を拾え!」
ビリーが怒鳴りながら近づこうとした、その瞬間だった。トビーは苦し紛れに一歩後退し、ぬかるんだ崖の縁を踏み外した。
「あっ──」
悲鳴を上げる間もなかった。トビーの身体は、濁流の流れる崖下へと、凄まじい勢いで滑り落ちていった。泥と小石を巻き上げながら、何度も岩やダグラスファーの太い根に身体を激しく打ち付け、転がり落ちていく。
そして、谷底に横たわる巨大な尖った岩の角に、トビーの頭部が凄まじい音を立てて激突した。
鈍い、濡れた木を叩き割ったような音が、嵐の中に響いた。トビーの身体は、ぐにゃりと折れ曲がったまま、泥水の流れる谷底のブッシュの中にうつ伏せに突っ伏し、動かなくなった。
ビリーの心臓が、一瞬にして凍りついた。
「トビー……?」
ビリーは斜面を滑り降りるようにして谷底へと駆け下りた。泥水が彼のブーツやズボンを汚していく。
トビーの身体を仰向けにひっくり返した瞬間、ビリーは息を呑んだ。トビーの額から側頭部にかけて、恐ろしいほど深い傷が裂け、そこから溢れ出た赤い血が、激しい雨水と混ざり合って泥の中に広がっていた。凄まじい頭部外傷。その一目で致命的と分かる傷から流れる血は、薄いシャツを赤く染め上げている。
「おい、起きろ。嘘だろ、トビー……起きろよ!」
ビリーはトビーの肩を掴んで激しく揺さぶった。だが、トビーの瞳は濁ったまま、雨の降る灰色の空をただ空虚に見つめ返しているだけだった。冷たくなっていくその首筋に触れても、脈動は完全に途絶えていた。
ビリーは膝から崩れ落ちた。
(死んだ? こいつ、死んだのか?)
それまでの「班長(番犬)」としての冷酷な威厳は一瞬にして崩壊した。目の前に転がっているのは、自分が丸太を担がせ、無理やり崖へと押し上げて殺してしまった一人の少年の死体だ。警察、法律、そしてシカゴの医者であるトビーの父親。これまで神崎の教えを信じて無視してきた外界の邪魔者が、生々しい「死(頭部外傷)」という形で、一気にビリーの胸に圧し掛かってきた。
「ボス……ボス……!」
ビリーは泣き叫びながら崖を這い登り、神崎猛のいる執務室へと一目散に走り出した。
神崎猛は、窓の外の激しい暴風雨を見つめながら、静かに腕を組んでいた。
そこに、泥まみれになり、顔を涙と鼻水でぐちゃぐちゃにしたビリーが、ドアを激しく蹴破るようにして駆け込んできた。
「ボス! トビーが……トビーが、谷底に落ちて……死にました!」
ビリーは神崎の足元に縋りつき、子供のように号泣した。
「僕が……僕が丸太を担がせて……崖を登らせようとしたら、発作を起こして……頭を岩に……!」
神崎の表情は、微塵も動かなかった。
何千メートルもの極限の氷壁で、何度も仲間の死を看取ってきた男の冷徹な目が、ビリーを冷たく見下ろした。神崎の脳内では、驚くほどの速さで、この不測の事態が自らの帝国にもたらす「損害」の計算が始まっていた。
「遺体はどこだ」
神崎は、低く、全く動揺を感じさせない声で尋ねた。
「さ、沢の奥の……谷底のブッシュの中です……」
神崎はウールコートの襟を立て、ビリーを伴って嵐の森へと歩き出した。
雨に激しく叩かれる谷底。神崎はトビーの死体の傍らにしゃがみ込み、冷たくなった首筋と、頭部の凄まじい裂傷(外傷)を確認した。完全に即死だった。
神崎は立ち上がり、激しい雨に打たれながら、深く、長い沈黙に沈んだ。その鋭い瞳は、トビーの遺体を見つめながら、自らが築き上げたこの「帝国の崩壊」を防ぐための、狡猾な決断を下そうとしていた。




