第9章: 神宮の夜風と余韻
大日物産の臨時株主総会は、さながらラグビーの後半ロタイム、ゴール前一メートルの攻防だった。
滝サユリ率いる『新橋烏森法律事務所』と、佐藤ら泥臭い営業フォワード陣が新橋の街を這いずり回って集めた、数千人分の手書きの委任状。それが圧倒的な津波となって押し寄せ、外資系ファンドによる買収議案を実質的な否決へと追い込んだ。
「……相変わらず泥臭い戦い方ね、サユリ。神谷町の事務所を自分から蹴って辞めたと思ったら、こんな小汚い街の、ラグビー崩れの男たちとスクラムなんて」
総会会場の片隅で、虎ノ門の超エリートファーム『カールトン法律事務所』の新藤サキが、洗練されたヒールを鳴らしてサユリの前に立った。
「でも、これで勝ったと思わないこと。カールトンにとっても、国家にとってもこれはほんの実験に過ぎないわ」
サユリはサキの鋭い視線を受け止め、不敵に微笑んだ。
「見栄えばかりで腹にたまらないガレットを食べているあなたには、一生分からないでしょうね、サキ。新橋の男たちがガッツリ食べて踏ん張るスクラムの重さを。またいつでもいらっしゃい。この街の法律で、何度でも押し出し、レシーブしてあげるわ」
サキは悔しそうに背を向け、去っていった。学生時代からのライバル対決の初戦は、サユリの完全勝利だった。
――そして、その夜。
サユリたちが大祝杯の場に選んだのは、新橋の赤提灯ではなく、カクテル光線に照らされた『明治神宮野球場』のスタンドだった。
東京ヤクルトスワローズのホームゲーム。来年のラグビーワールドカップを控えて滾る佐藤も、元ソフトボール部の一塁手である有吉も、この神宮球場の開放的な熱気にはお祭り騒ぎだった。
「滝先生! 有吉さん、松井さん! 現場の底力に、乾杯だァ!」
佐藤の音頭で、冷え切った生ビールのプラスチックコップが豪快にぶつかり合う。
サユリの隣では、小学三年生のケンタが、口の周りにケチャップとマスタードをいっぱいつけながら、大好物のアメリカンドッグに笑顔でかぶりついていた。「ママ、勝って本当によかったね!」
「ええ、本当ね、ケンタ」
サユリはケンタのオレンジジュースのコップに自分のビールを軽く合わせ、愛おしそうに息子の頭を撫でた。その隣では、実母の昌子が自宅から水筒に詰めてきた温かい緑茶を湯呑みに注いで、しみじみと味わっている。
ヤクルトの東京音頭が流れ、スタンド中にビニール傘の波が揺れる。
仲間と家族の笑顔。すべてが報われたはずのその時、サユリのスマートフォンの画面がふわりと明滅した。通知は『非通知設定のテキストメッセージ』。
画面を開いたサユリは、その場で全身の血が凍りつくような感覚に襲われた。
『新橋の通信網を守ったか。サユリ、お前は相変わらず有能だな』
間違いない、元夫のマサヒロだった。
(嘘……あいつ、もう拘置所を出ているの……!?)
動揺するサユリの元に、間髪入れずに画像ファイルとメッセージが続けて着信する。
添付されていたのは、夜の都心のデザイナーズマンションの一室で、マサヒロが若い男と親密に身体を寄せ合い、端正に微笑んでいる写真だった。
『紹介しておくよ。俺の最愛の恋人、平井秀平(25)。国家AIのコアプログラムは、彼と俺の愛の結晶だ。奴らの本当の狙いは、お前の“過去”だ。カールトンの新藤サキの後ろにいる黒幕に気をつけろ。俺と秀平はいつでも、すぐ近くで見ているぞ』
メッセージを読み終えた瞬間、自動的にテキストと写真が画面から消去された。
「……っ!」
サユリは溢れそうになる嘔吐感を必死に堪え、スマホを握りしめた。
殺人未遂、国家への裏切り、それだけでは足りず、自分とケンタを欺き、裏で25歳の若い男を囲って愛を囁き合っていた。二重三重に塗り固められた元夫の、あまりにも醜悪で身勝手な裏切りの全貌。
だが、サユリの心の中で、冷たいしこりは一瞬にして「凄まじい業火」へと変わった。
悲しみなど一滴も出ない。あるのは、ただ純粋な、奴らを社会的に、法律的に完膚なきまで叩き潰すという強烈なまでの決意だった。
(秀平とかいう男共々、私の人生と新橋の街を汚したこと、地獄の底で後悔させてあげるわ……!)
サユリは満員の神宮球場のスタンドを見回した。カクテル光線の向こう、闇のどこかにあの男たちが潜んでいるかもしれない。だが、今のサユリには、命がけでスクラムを組んでくれる仲間が、守るべきケンタと昌子がいる。
「ママ、どうしたの? お顔が怖いよ」
不思議そうに見上げてくるケンタに、サユリはかつてないほど力強く、そして美しい笑顔を返した。
「ううん、なんでもないわ。ママね、絶対に負けないって、今ちょっと神様に誓っていたの。さあ、応援の続きをしましょう!」
元夫と若い恋人の最悪な裏切り。迫り来る国家AIの脅威。
滝サユリの、そして『新橋烏森法律事務所』の本当の逆襲は、ここから爆発するのだ。




