第10章: 神谷町の遺恨
神宮球場での劇的な逆転勝利から一週間。
新橋烏森法律事務所の窓からは、今日も九月の青空の下、京浜東北線のガードが立てる騒々しい轟音が響いていた。
滝サユリは、新しく刷り上がった大日物産のセキュリティ顧問契約書に、万年筆で『滝サユリ』と力強くサインを入れた。あの男の苗字を捨て、実母の昌子、長男のケンタと共に、この新橋の地で泥にまみれて戦う覚悟は、もう揺るがない。
「サユリさん、大日物産の本社から、新しく構築する通信バックヤードのセキュリティ監査のために打ち合わせの要請が来ています。営業部の佐藤さんも同行するそうです」
デスクで資料を整理していた松井先生が言った。「私、法律の書面はいくらでも書けますが、システムのバックヤードとなると専門外で……。あ、そうだ。今日からうちの事務所のIT専門の事務員として、頼もしい助っ人を呼んであるんです」
松井がドアに向かって「ヨシオ、入ってきなさい」と声をかけると、一人の青年がペコリと頭を下げて入ってきた。
「初めまして。今日から新橋烏森法律事務所でお世話になります、山村ヨシオです。二十八歳です。よろしくお願いします」
彼は松井先生の姉の長男――つまり、松井の甥にあたる青年だった。物静かな佇まいながら、大手IT企業の手荒い現場で鍛え上げられた、生粋の『Python』の使い手である。
ヨシオはデスクに自前のノートPCを開くと、黒い背景のウィンドウに無数のコードを走らせた。自動化スクリプトからパケット解析まで、すべてをPythonで自作するヨシオの存在は、これからの事務所にとって最強の電子の盾となる予感があった。
「ヨシオくん、よろしくね。頼りにしてるわ」
サユリは微笑み、有吉、松井、そして新しい仲間であるヨシオと共に、新橋駅近くにある大日物産の本社ビルへと向かった。
「滝先生! 有吉さん、松井先生! お待ちしてました!」
大日物産の応接室で、ラグビー部のプロップそのままの巨体を揺らし、熱血営業マンの佐藤が満面の笑みで迎えてくれた。
「先日は本当にありがとうございました! 今日は、うちの会社が新しく導入しようとしているセキュリティシステムの仕様書を持ってきたんですが……実はこれ、買収を仕掛けてきたアキレス側の代理人である、虎ノ門の『カールトン法律事務所』から送られてきたものなんです」
佐藤がテーブルに広げたのは、極めてスマートに構築された暗号化通信のプロトコル仕様書だった。
「カールトンの新藤サキ先生が、和解案の一環として『このシステムを使えば地方の通信障害はすべて解決する』と提示してきたんです。向こうのファームの、優秀な情報システム部が開発したとかで……」
その仕様書を一瞥した瞬間、後ろに控えていたヨシオの指先が、ノートPCのキーボードの上でピタリと止まった。
(……何だ、この違和感。この仕様書、オープンな回線に見えて、裏で異様なクローズド・システムと常時接続されるバックドアが仕込まれてる。このPythonのライブラリをわざと偽装するような組み方の癖、どこかで……)
ヨシオのPythonで鍛え上げられた解析脳が、カールトンのシステムが放つ「冷徹な電子の匂い」を敏感に察知していたが、その場ではまだ、その正体までは掴めなかった。
「では、今日のところはこの仕様書を一度持ち帰って、ヨシオくんに精査してもらいましょう」
サユリの言葉で打ち合わせは終了した。佐藤が嬉しそうに席を立ち、有吉や松井、そしてヨシオと共に、先に資料を持って応接室を出ていく。
サユリが最後にバッグをまとめ、ドアへ向かおうとした、その時だった。
応接室のドアが開き、一人の青年が滑り込んできた。
すっきりと整った短い黒髪に、どこか儚げで、息を呑むほど端正な顔立ちの青年だった。首からは、虎ノ門『カールトン法律事務所 情報システム部』と書かれた、ゴールドの社員証が下がっている。
青年はカチャリとドアの鍵を閉めると、先ほどまでの仕様書を提出した「物静かなIT職員」の面影を完全に消し去り、冷酷な笑みを浮かべてサユリに近づいた。そして、その耳元で低く囁いた。
「初めまして、マサヒロさんの元お奥様。……カールトンの情報システム部はね、僕とマサヒロさんを運用するための場所なんですよ。あの人が国のために組んだ国家通信AIのコアプログラム、それを実用化させたのは、僕のコードです」
「なっ……!?」
サユリの脳裏に、神宮球場で見たあの最悪な写真がフラッシュバックする。
元夫、マサヒロ。辞職し、逮捕されたはずの男が囲っていた、二十五歳の若い男の恋人。目の前にいるこの美しい青年――平井秀平こそが、自分と息子のケンタを地獄へ突き落とした、全ての元凶の一人だったのだ。
「ダンナがバイだったなんて、大変でしたね、滝先生」
秀平はサユリの『離婚のしこり』をわざと抉るように、極上の美貌を歪めて嘲笑った。
「マサヒロさんは、もう拘置所を出ていますよ。僕のハッキングと、国家AIの力でね。今頃、あなたの大事なケンタくんの学校の近くにいるかもしれない」
「貴方たち……!」
サユリの体中を、沸騰するような怒りと激しい嫌悪感が駆け巡る。だが、秀平の挑発はそれだけでは終わらなかった。
「それから、あなたが十年前に神谷町の事務所で最初に担当した、あのITベンチャーの特許紛争……。あなたが偽の証拠を掴まされて会社を潰した、あの『過去の不正データ』。……すべて僕のカールトンのサーバーの中にあります。新藤サキ先生の手を借りるまでもない。僕を邪魔するなら、滝サユリ、あなたの弁護士生命を新橋のドブに沈めてあげますよ」
秀平はそう言い残すと、再び「カールトンの地味な職員」の顔に戻り、応接室のドアを開けて去っていった。
一人残されたサユリは、怒りで激しく拳を握りしめた。
夫の二重の裏切り。敵の本丸である虎ノ門に潜んでいた毒蜘蛛の存在。
だが、サユリの瞳は、絶望ではなく、奴らをこの手で完全に裁くという強烈な業火に燃えていた。
「上等じゃない……。まとめて法律の地獄へ叩き落としてあげるわ」
応接室を出たサユリを、ヨシオが待っていた。ヨシオのノートPCの画面には、すでにPythonのスクリプトが高速で実行されているログが流れていた。
「サユリさん、松井叔母さん。さっきカールトンが持ってきた仕様書の裏で飛んでいた極秘の通信パケット、僕のPythonで強制キャプチャしました。あの平井秀平という男の端末、国家AIのサーバーと常時接続されてます。……あいつ、本物です」
有吉も、ソフトボールのファーストの構えのように拳を固めて不敵に笑う。
「どんな泥塗れの球が飛んできても、私がガッチリ捕球してあげる。サユリ、やり返してやろうじゃないの」
裏切り者の元夫と、虎ノ門のシステムを操る若い恋人・平井秀平。
滝サユリの、そして『新橋烏森法律事務所』の、Pythonのコードと現場の力を駆使した本当の逆襲が、今、静かに幕を開けた。




