第6話: 赤提灯の作戦会議と、足で稼いだ証拠
日が落ちた新橋は、昼間とは異なる狂騒を帯びていた。
ガード下から漂う焼き鳥の煙と、サラリーマンたちの怒号のような笑い声が路地に満ちている。
「滝、サユリ……ね。やっぱり、そっちの苗字の方がしっくりくるわよ」
ホッピーのグラスを傾けながら、有吉がニヤリと笑った。
新橋のガード下にある大衆居酒屋。ビール箱をひっくり返した椅子に腰掛け、サユリは手元にある新しい名刺を見つめた。そこには『新橋烏森法律事務所 弁護士 滝サユリ』の文字が誇らしげに光っている。
「ええ。あの男の苗字を名乗りながら、国家の陰謀と戦うなんて反吐が出るもの。私は私の名前で、奴らを地獄に引きずり下ろすわ」
サユリの冷徹な声に、正面に座る大日物産の営業マン・佐藤は、気圧されたように背筋を伸ばした。彼の周りには、同じようにヨレヨレのスーツを着た同僚の営業マンたちが五人、緊張した面持ちで座っている。
その時、サユリのバッグの中でスマートフォンが優しく震えた。画面に表示された『ケンタ』の文字に、サユリの張り詰めていた表情が、一瞬で母親のそれに変わる。
「ごめんなさい、ちょっと失礼」
サユリは席を立ち、少し騒がしい居酒屋の路地裏へと出た。
『もしもし、ママ? 今日の晩ご飯、昌子おばあちゃんのナポリタンだったよ!』
受話器から聞こえる小学三年生の息子の声は、昼間の不安を吹き飛ばすほど弾んでいた。背後からは、サユリの実母である昌子の「ケンタ、口の周りケチャップだらけよ」という呆れたような、しかし温かい声が聞こえてくる。
夫の逮捕と協議離婚。
激変した環境の中でサユリが安心して新橋の戦場に立てるのは、実家でケンタを可愛がり、面倒を見てくれている昌子のおかげだった。
「そう、良かったね。おばあちゃんのナポリタン、ケンタの大好物だもんね。ママ、今新橋でお仕事頑張ってるからね。すぐ帰るから、おばあちゃんの言うことよく聞いて先に寝ててね」
『うん! ママもお仕事頑張って!』
元気な子供の声に救われながら通話を切ったサユリは、愛おしさと同時に、底知れない怒りをその胸に再点火させた。
(神谷町の奴らは、私の大事な家族を脅しの道具に使った。……絶対に、生かしては返さない)
胸の奥のしこりが、純度の高い闘志へと変わるのを感じながら、サユリは再び赤提灯の喧騒へと戻っていった。
「お待たせ。……それで、佐藤さん。あなたたち、何をすればいいか分かっている?」
サユリが席に戻ると、佐藤は昼間の『とんかつ三島』での出会いを思い出したように、熱く語り始めた。
「滝先生。俺たち外回りの営業マンにとって、昼飯ってのは単なる食事じゃない、戦うためのガソリンなんすよ。神谷町のエリート様たちが食うような、バインミーだの、パクチー入りのフォーだの、ガレットやキッシュみたいな“映えランチ”じゃ、一瞬で消化されちまって到底腹にたまらない。午後からの飛び込み営業でバテちまう」
佐藤の同僚も、大きく頷きながらホッピーを煽る。
「そうそう! だから俺たちは『三島』のアジフライ定食とか、日替わりランチの山盛り生姜焼き定食をガッツリ食って、泥臭く街を這いずり回るんです。アキレスの奴らは、そういう俺たちの血の通った営業体制を『非効率だ』って切り捨てようとしてる」
佐藤が悔しそうにジョッキを握りしめる。
「敵はスマートなシステムと、神谷町の最高峰の弁護士軍団よ」
サユリは焼き鳥の串を一本手に取り、営業マンたちの顔を見回した。
「だからこそ、私たちは徹底的に『泥臭く』いくの。佐藤さん、あなたたちが毎日、新橋の居酒屋や地方の取引先で、足と、汗と、山盛りの米で稼いできた『現場の記録』。それを全部、私にちょうだい」
サユリの指示は明確だった。
アキレス側が裁判所に提出しようとしている「AI一元管理による業務効率化」のデータが、いかに現場の実態を無視した机上の空論であるか。それを暴くための「生の情報」が必要だった。
「任せてください!」
一人のベテラン営業マンが、カバンを開いた。
「AIが『地方の通信網は無駄だ』って統合したせいで、先月、福島の取引先でどれだけ深刻な通信障害が起きたか。会社には揉み消されましたが、俺たち、顧客からのクレーム書面を全部個人のスマホに保存してあります!」
「俺もあります! アキレスのシステムを導入した瞬間に、顧客の機密データが謎の海外サーバーに転送されているっていう、現場のシステム担当者の愚痴の録音データです!」
次々とテーブルに出される、泥臭いローラー営業の過程で集まった「企業の生々しい悲鳴」。
それらをノートPCで次々とスキャンしていた松井が、突然、眼鏡の奥の目を鋭く光らせた。
「……サユリさん。これ、ビンゴです」
松井が画面を示したのは、営業マンが持ってきた「解約通知書」の裏に手書きでメモされた、アキレス側のシステム監査のログコードだった。
「アキレスが地方のインフラを解約させている本当の理由が分かりました。彼らは、AIの処理能力を上げるために、地方の中小企業の通信回線を『隠れ蓑』として乗っ取り、そこで膨大な暗号資産のマイニング――つまり、国家通信AIの裏資金のロンダリングを行っています」
「なるほどね……」
有吉が煙草に火をつけ、紫煙をくゆらせた。
「お洒落な映えシステムを気取っておきながら、新橋の男たちが汗水垂らして食い繋いだ稼ぎを、裏で吸い上げてたわけだ。本当に、神谷町のエリート様はえげつないわ」
サユリは立ち上がり、営業マンたちが集めてくれた泥塗れの書類を、愛おしそうに胸に抱きしめた。
「ありがとう、皆さん。これで神谷町を殴り倒す『鈍器』は揃ったわ」
サユリの瞳に、復讐の炎が宿る。元夫の裏切り、古巣の欺瞞、すべてをこの新橋の現場の力で叩き潰す。
「明日はいよいよ、裁判所での口頭弁論。滝サユリとしての、最初の戦いよ。格の違いってやつを、あの冷房の効いた部屋の住人たちに教えてあげる」
新橋の夜風が、サユリの洗いたての決意を、力強く揺らしていた。




