第5話: 新橋烏森口の逆襲 - 新橋烏森法律事務所 編
新橋烏森法律事務所 編
本話の主な登場人物
滝サユリ:主人公。夫の逮捕を機に新橋へ新事務所を構えた。冷徹な法理論と熱い正義感を併せ持つ。
有吉:サユリの相棒。銀座・新橋の夜の街に深く根を下ろした、情報収集と交渉のプロ。
松井:若き天才ハッカー弁護士。デジタル証拠の解析担当。基本はインドア派。
佐藤:大日物産の熱血営業マン。絵に描いたような「新橋の泥臭いサラリーマン」。
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滝サユリ、有吉、松井の3人は、新橋烏森口の路地裏にある老舗の定食屋「とんかつ三島」で、好物の生姜焼き定食を囲みながら新事務所の今後を話し合っている。
そこへ、隣の席で大声をあげて泣いている男がいた。男は大日物産の熱血営業マン・佐藤。
彼が泣いていた理由は、自分が足で開拓した地方の取引先との通信インフラ契約が、会社の上層部(裏切り者の専務)によって突如すべて解約され、外資ファンド「アキレス・キャピタル」のスマートなクラウドサービスに強制移行させられたからだった。
佐藤ら営業マンたちが「現場の異変」を察知した直後、大日物産への敵対的買収(TOB)が発表される。
サユリは佐藤の涙の裏に、国家通信AIシステムが「地方の全通信網を合法的に乗っ取るための資金洗浄計画」を進めていることを見抜く。
神谷町の洗練されたオフィスとは、何もかもが違っていた。
「……神谷町から数駅しか離れていないのに、まるで違う国ね。空気が濃いというか、やたらと脂っこいというか」
滝サユリは、新橋烏森口の駅前路地で思わず足を止め、眉をひそめた。九月の残暑が残るアスファルトの上を、ネクタイを少し緩めたサラリーマンの群れが、まるで回遊魚のように一方向へ流れていく。
頭上からは東海道線と山手線がガードを駆け抜ける凄まじい轟音が響き、視界の左右には「生ビール290円」「串カツ」と書かれた派手な看板がひしめき合っている。
「これが『生身の人間が金を回してる街』の匂いよ、サユリ。法律書の中には書いてない、一番強いエネルギーね」
隣を歩く有吉が、使い古した革のトートバッグを肩にかけ直し、嬉しそうに目を細めた。彼女はこの雑多な街にすっかり馴染んでいる。
元夫・マサヒロの殺人未遂容疑での逮捕。それがすべての始まりだった。
信じていた男の恐るべき裏切り。さらに、かつての古巣である神谷町の国際法律事務所は、サユリに「利益相反」の烙印を押し、ゴミのように使い捨てた。
サユリは即座に離婚届を叩きつけ、あの男の苗字を捨てた。
だが、戸籍を変えたからといって、胸の奥にこびりついたドロドロとしたしこりが消えるわけではない。テレビのニュースで事件が報じられるたび、小学三年生になる息子のケンタが学校で後ろ指を指されていないか、そればかりが血を吐くほどに気がかりだった。
(私はもう、立ち止まるわけにはいかない。ケンタを守るためにも……)
サユリは、新しく刷り上がったばかりの名刺をバッグの中で指先でなぞった。『滝・有吉・松井法律事務所』。神谷町を追われたサユリが、有吉、そして若き天才ハッカー弁護士の松井と共に、新橋の古びた雑居ビルの四階に構えた、新たな城の証だ。
「まあ、せっかく新橋に流れてきたんだから、まずはこの街の洗礼を受けてもらいましょうか。お腹空いたでしょ?」
有吉がサユリの背中をポンと叩き、薄暗い路地裏へと誘う。一歩入ると、狭い間口に『とんかつ三島』と染め抜かれた、年季の入った暖簾が揺れていた。
ガラガラと引き戸を開けると、香ばしいラードと醤油の匂いが一気に鼻腔を突いた。店内は満席で、カウンターもテーブル席も、お揃いのグレーのスーツを着たサラリーマンたちで埋め尽くされている。
「いらっしゃい! 三名さん、奥のテーブルどうぞ!」
威勢のいいおかみさんの声に促され、サユリたちは狭い席に腰を下ろした。
有吉がお勧めだという『厚切り生姜焼き定食』を三つ注文する。数分と経たずに運ばれてきたのは、大ぶりの豚肉に濃い目のタレが絡み、これでもかとキャベツが盛られた、見るからにエネルギーの塊のような一皿だった。
「いただきます……」
サユリが箸をつけようとした、その時だった。
「ズズッ、ズ、ウウッ……」
すぐ隣のテーブルから、異常に激しく鼻をすする音が聞こえてきた。
見ると、ヨレヨレのスーツを着た若い男が、一人でテーブルに突っ伏すようにして座っていた。手元には生姜焼き定食があるが、男は箸を持ったまま、大粒の涙をボトボトとキャベツの千切りの上に落としている。
「……ちょっと、お兄さん」
見かねた有吉が、お節介な新橋の姉御肌を発揮して声をかけた。
「せっかくの美味い肉が塩辛くなっちゃうじゃない。失恋でもしたの?」
男はビクッと肩を震わせ、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。胸元には『大日物産』と書かれた、少し傷のついた社章が光っている。
「失恋、なら……どんなにマシか……っ!」
男は、サユリたちが弁護士だとも知らず、堰を切ったように叫んだ。
「俺は、大日物産の営業の佐藤って言います……。バカみたいに毎日、地方の中小企業に頭を下げて、一緒に酒を飲んで、ようやく勝ち取った通信インフラの保守契約があったんです。それを、今日……会社の上層部の専務が、一瞬で全部、強制解約しやがったんだ……っ!」
佐藤と名乗る営業マンは、悔しそうに拳をテーブルに叩きつけた。
「『これからは最新のAI一元管理サービス――アキレス・クラウドに移行するから、お前らの泥臭い営業はもういらない』って……! 冗談じゃない! 現場を、新橋を舐めるなよ……っ!」
佐藤の慟哭を聞きながら、サユリは胸を締め付けられるような痛みを覚えていた。
(理不尽に、一瞬で、すべてを奪われる絶望――)
それは、あの忌まわしい夜にサユリ自身が味わった地獄そのものだった。
ぴたり、と松井の箸が止まった。
いつもは感情を表に出さない若き天才ハッカー弁護士が、味噌汁の椀を避け、無言でリュックからタブレット端末を取り出す。その指先が、恐ろしい速度で画面を叩き始めた。
「……松井? どうしたの」
サユリが尋ねるが、松井は答えない。ただ、彼女の持つ端末から、「ピピッ、ピピピ……」と、不穏な警告音が狭い店内に小さく響き続けた。
「……サユリさん」
数十秒後、松井が信じられないものを見たというような顔で、画面をサユリに向けた。そこには、複雑な通信ログと、暗号化されたプロトコルの解析データが並んでいた。
「この佐藤さんが言った『アキレス・クラウド』。そのシステムを提供している外資系ファンドのバックエンド通信、……うちが前章まで追っていた、あの『国家通信AIシステム』のテスト版とプロトコルが完全に一致しています」
「なんですって!?」
サユリの目が鋭く見開かれた。
「これ、ただの効率化システムじゃないです。アキレスというファンドを使って、大日物産の持つ『地方の独立系通信インフラ網』を、合法的に丸ごと飲み込もうとしてる。あの国家AIが、資金洗浄のルートを広げるための……次の侵食先です」
その瞬間、店内のテレビが一斉にニュースの速報音を鳴らした。
『――次のニュースです。本日正午、外資系ファンド「アキレス・キャピタル」が、東証プライム上社の大日物産に対し、敵対的TOB、いわゆる株式公開買付を開始したと発表しました……』
「嘘だろ……」
佐藤が呆然とテレビを見上げる。店内のサラリーマンたちからも、どよめきが上がった。
シン、と静まり返った空気の中、今度はサユリのポケットの中で、スマートフォンが激しく振動を始めた。
ディスプレイに表示された名前に、サユリの脳裏に激しい嫌悪感が走る。
――神谷町法律事務所・代表弁護士。サユリを裏切り、事務所を乗っ取ろうとした、かつてのボスだった。
サユリは無言で通話ボタンを押し、耳に当てた。
『お久しぶりだね、中村弁護士。いや――今はもう離婚して“滝”だったかな?』
スピーカーから、冷房の効いた部屋から響いてくるような、冷徹でスマートな声が聞こえる。サユリの『しこり』をわざと逆撫でするような笑いを含んでいた。
『新橋の小汚い雑居ビルに潜り込んだと聞いて心配していたよ。だが、無駄な抵抗はやめておきなさい。今回の大日物産の件、アキレス・キャピタルの法務代理人は我が神谷町事務所だ。これは国家の意思……AIシステムによる市場の最適化だ。生身の人間がいくら足掻いても止められない。大人しく引っ込んでいることだ。……それとも何か? 犯罪者の息子になった君の可愛いケンタくんに、これ以上不憫な思いをさせたいのかね?』
息子の名前を出された瞬間、サユリの体中を、沸騰するような怒りが駆け巡った。
だが、その怒りは次の瞬間、冷徹なまでの殺意を帯びた決意へと昇華する。
新橋のガード下から響く電車の轟音。定食屋を包む、泥臭くも力強いサラリーマンたちの熱気。
サユリはカツン、とヒールを強く床に鳴らし、スマホを握りしめた。その瞳には、かつて神谷町で「法廷の狂犬」と恐れられた、獰猛なまでの光が宿っていた。
「私の息子の名前を、その汚い口で二度と気安く呼ばないで」
サユリは、低く、しかし地を這うような鋭い声で言い放った。
「それに大人のアドバイスどうも。でもあいにく、私は今、新橋の美味しい生姜焼きを食べたばかりでね。とても元気が有り余っているの。……あなたたちが冷房の効いた部屋でこねくり回したその汚い陰謀、綺麗さっぱり法廷で吐き出させてあげるわ。滝サユリの新しい初陣、喜んでお相手するわよ」
通話を叩き切る。
サユリは、まだ涙を流している佐藤の前に立ち、名刺をテーブルに突きつけた。そこには『滝サユリ』の名が誇り高く刻まれている。
「佐藤さん。その生姜焼きを全部食べ終えたら、あなたの戦い方を私たちに教えて。――新橋を舐めたエリートたちに、法律の武器で逆襲を仕掛けるわよ」




