第27話: いつもの場所で
裁判所へ正式に訴状を叩きつけ、言い逃れのできない事件番号を刻み込んだ滝サユリの。
傲慢だった兄の島田タカシは、法的に100%勝ち目のない現実と、事務所の皆で、暴き出した有印私文書偽造の証拠を前に完全降伏し、ユウマさん対する遺産放棄の強要を全面撤回、正当な法定相続分の補償を約束する合意書にサインせざるを得なくなったのだった。
―そして、その夜。
新橋烏森法律事務所の面々が、島田先生夫婦の救出を祝って大祝杯の場に選んだのは、やはりカクテル光線に照らされた『明治神宮野球場』のライトスタンドだった。
ヤクルトの快進撃に沸き立つスタンド。東京音頭のノリの良いメロディに合わせて、満員の観客席にミニビニール傘の波が揺れている。
「滝先生! 有吉さん、松井先生! そして山村のヨシオくん! 乾杯だァ!」
元ラグビー部プロップの佐藤さんが、メガホンを両手に持って一番大きな声を張り上げていた。だが、彼の手にあるのはやはりビールではない。
「ちょっと佐藤くん、あんたまたケンタくんと一緒のオレンジジュースなわけ!?」
有吉がビール片手に爆笑すると、佐藤さんは「いや、ビールを飲んでぼったくりバーに引っかかった痛い経験がありますからね! 妻の手前、今夜もオレンジジュースで鉄壁のガードを固めてるんすよ!」
と、中身は完全にわんぱくな9歳児のような無邪気さで、オレンジジュースをゴクゴクと豪快に喉に流し込んだ。
「もう、本当に手のかかる大きな子どもなんだから……」
隣に座る新妻は、呆れつつも嬉しそうに佐藤さんの口元をハンカチで拭いている。
「むぐ……もぐ……むぐ……! この神宮のヘルメットチャーハン、やっぱり何度食べても最高ですね。脳のPython環境(Jupyter Notebook)の処理速度が限界突破しました」
カウンター席の端では、事務所のドーナツキャラことヨシオが、口の周りをチャーハンだらけにしながら、右手にはしっかり『ソフトクリーム』を握って、驚異的な速度で炭水化物を脳へチャージしていた。
「ヨシオくん、あなた昌子おばあちゃんの全粒粉マフィンをあんなに食べた後にまだ食うの!? 完全に糖分過多よ!」
叔母の松井先生が呆れて笑い出し、スタンドは温かい爆笑に包まれた。
昌子おばあちゃんはマイ水筒から温かい緑茶を湯呑みに注いでしみじみと味わい、サユリの息子・タイチ(九歳)くんも「お兄ちゃんたち、勝って本当によかったね!」と、佐藤さんとハイタッチをして大はしゃぎだ。
「滝先生、本当にありがとうございました」
佐藤さんの隣では、タイチくんの担任である島田ワカナ先生とユウマさん夫婦が、心からの安堵の笑みを浮かべてサユリに頭を下げていた。
「まさか、アポを取って会いに行ったその日に『すでに今朝提訴済みです、これが事件番号です』と突きつけてくださるなんて……。兄のあんなに慌てた顔、初めて見ました。本当に、先生は私たちのヒーローです!」
「いいえ、島田先生。私はただの『街弁』よ」
サユリは爽やかな神宮の夜風を浴びながら、冷えたビールを喉に流し込み、心からの笑顔を浮かべた。
もし、あの破格のヘッドハンティングに応じて虎ノ門の最上階へ戻っていたら、今頃は冷房の効いた部屋で、誰の顔も見えない孤独な数字の勝利に浸っていただろう。
だけど、今のサユリには、昌子のお菓子を貪るヨシオや、オレンジジュースを飲む佐藤さん、そしてタイチくんの運動会で胸を張ってくれた、この血の通った温かい日常がある。
(格式高いエリート弁護士なんかより、この新橋の路地裏で、目の前の困っている人に気軽に寄り添える今の生き方こそが、私にとって何よりも尊く、一番幸せなのよ)
夜空に吸い込まれていくヤクルトの快音と、東京音頭の歓声。
日本のリーガル界の常識を泥臭いスクラムでひっくり返し続ける滝サユリと、新橋烏森法律事務所の世直しの旅は、この愛おしい新橋の街と共に、これからも一歩一歩、力強く進んでいくのだ。




