第19話: 普通借地権の盾と、最高裁の弾丸
新橋烏森法律事務所の面々は作戦会議を開いていた。
「あいつら、完全に新橋を舐めてます。契約書を見せてください」
山村ヨシオが、昌子おばあちゃんの手作りマフィンを頬張りながら、源さんの持ってきた古い書類をスキャンした。
「……サユリさん、これ『普通借地権』の契約です。定期借地権じゃない。だったら、話は簡単です」
ヨシオの言葉に、松井先生が深く頷いて六法全書を開いた。
「ええ。普通借地権の更新拒絶、つまり立ち退き請求を認めるには、地主側に強固な『正当事由』が必要よ。でも、あっちの理由は単なる商業ビルの建て替えと流行りのチェーン店の誘致。そんなもので源さんたちの五十年の歴史を追い出せるはずがないわ」
サユリは応接スペースの椅子から立ち上がり、窓の外のガード下を見つめた。
「ええ。日本の借地借家法は、汗水垂らしてその土地を守ってきた人間を保護するためにあるのよ。――佐藤さん、源さんの正式な代理人として、メガ・グローバル社へアポイントを取りなさい。真正面からカタをつけに行くわよ」
「応!! 待ってましたァ!」
佐藤さんが待ってましたとばかりに、ラグビー仕込みの太い腕をまくり上げた。
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虎ノ門の洗練された高層ビルにある、メガ・グローバル・ダイニングの日本支社。
整然とした会議室でサユリたちを待ち受けていたのは、本尊である『プロジェクトリーダー』と、百戦錬磨の『インハウスロイヤー(社内弁護士)』だった。
「滝先生、わざわざアポイントをいただいて恐縮ですが、新橋ガード下の再開発は決定事項です」
インハウスロイヤーが、スマートなタブレットの画面を示しながら冷ややかに言った。
「時代遅れの赤提灯や550円のランチ営業など、土地の生産性を下げているだけです。
最新のAI管理型ドーナツ店やハワイアン料理を誘致した方が、株主利益にも叶う。今月末での立ち退きに応じない場合、法的措置に移行します」
「生産性、ね」
サユリは極上の皮肉を込めて鼻で笑うと、大理石のテーブルをヒールでカツンと叩いた。
「エリート様の見栄えばかりの数字のお喋りはそこまでよ。
…きっぱり言わせてもらうわ。源ちゃんをはじめとするガード下の老舗一同、今月末の立ち退きには、一歩も、一ミリも応じません」
「何だと? 拒絶すれば、こちらにはカールトン法律事務所がついているんだぞ!」
プロジェクトリーダーが声を荒らげる。だが、サユリの瞳には、かつて神谷町を震撼させた『法廷の狂犬』の獰猛な光が宿っていた。
「あなた方、自分たちが結んでいるのが『普通借地権』の契約だってことを忘れたの?
普通借地権の更新拒絶に関する、最高裁判所・昭和四十三年十月三日の判決を知らないとは言わせないわよ」
サユリはカバンから、ヨシオが印刷した最高裁の判例書面を、まるで弾丸のようにテーブルへ叩きつけた。
「最高裁の確立したルールではね、『地主側の土地を必要とする事情』と『借地人側の必要性』を天秤にかけ、地主側の理由が少し足りない分を、巨額の立ち退き料で補うことで初めて更新拒絶が認められるの。……あなた方の言う『流行りのドーナツ店を作りたい』なんて薄っぺらい理由、地主側の必要性として全く、これっぽっちも足りていないのよ!」
サユリの淀みのない法理と最高裁の判例を前に、メガ・グローバル社のインハウスロイヤーの目が泳いだ。彼はプロの法律家だ。
サユリの主張が法的に100%正しく、自社の通そうとしている理屈がどれほど無理筋か、脳内のリーガルチェックが一瞬で答えを出してしまったのだ。
青くなるインハウスロイヤーの横顔を見て、サユリはさらに容赦なく言葉を畳みかける。
「それから、最後通牒よ。
本日をもって私は源さんの正式な『代理人』となったわ。
今後は、源さん側への直接の連絡および訪問は一切不可。
すべて、私、滝サユリを経由しなさい。
もしこれ以上、私の依頼人に不当な立ち退きを迫る直接のアプローチを試みるなら
――即座にあなた方を、『威力業務妨害罪』で刑事告訴、および民事で損害賠償請求の提訴を仕掛けます。異論はあるかしら、社内弁護士先生?」
「くっ……!」
インハウスロイヤーは完全に言葉を失い、タブレットを握る指先を震わせた。
サユリの完璧なリーガル・網の前に、プロジェクトリーダーも返す言葉がない。普通借地権の壁と、街弁の誇りを背負ったサユリの猛攻は、虎ノ門の巨大企業を完全に沈黙させた。
サユリの背後では、佐藤さんがプロップの体躯で仁王立ちし、源さんが「新橋の生姜焼きを舐めるなよ」と腕を組んで睨みをきかせている。
「勝負ありね」
サユリは踵を返し、会議室のドアへ向かった。
「今月末に立ち退くのは、あなた方の不当な要求書のほうよ。さあみんな、新橋へ帰りましょう。源さんの絶品生姜焼きを食べて、次の戦いのガソリンにするわよ!」
「よっしゃあ!」
佐藤さんの歓声が、虎ノ門の格式高いビルに、泥臭くも力強く響き渡るのだった。
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虎ノ門での電撃的な大勝利から数時間後。夜の新橋ガード下は、いつにも増して熱い活気に包まれていた。
「――よし! 今夜はうちの店、暖簾を下ろして完全貸切だ! 滝先生に有吉さん、松井の先生、それにヨシオくんに佐藤! みんな好きなだけ食って、底なしに飲んでくれ! 全部俺の奢りだッ!」
狭い店内に、源さんの威勢の良い頑固親父の声が響き渡った。いつもなら仕事帰りのサラリーマンでごった返す『赤提灯・源ちゃん』の入り口には、今夜に限って『本日貸切』の札が誇らしげに掲げられている。
「うおおお! 源さん、マジっすか!? じゃあ、この秘伝のタレのモツ煮込み、大盛りで三杯おかわりっす!」
大日物産の熱血営業マン・佐藤さんが、ラグビー部プロップ仕込みの巨体を揺らして大喜びしている。だが、彼の手にあるのはビールジョッキではない。
「ちょっと佐藤くん、あんた体はラグビー部なのに、飲むものはケンタと一緒のオレンジジュースなわけ!?」
有吉がビール片手に爆笑しながら突っ込むと、佐藤さんは「いや、この前、ビールを飲んでぼったくりバーに引っかかった痛い経験がありますからね!
今夜ははるみの手前、絶対にやらかさないようにオレンジジュースでガードを固めてるんすよ!
それに、源さんのモツ煮込みの濃厚な美味さには、オレンジジュースが一番合うんす!」
と、中身は完全にわんぱくな9歳児のような無邪気さで、100%オレンジジュースのグラスをゴクゴクと豪快に喉に流し込んだ。
「もう、佐藤くんは本当に大きな子どもなんだから……」
隣に座る、小学校からの幼馴染であり新しく妻となる木之下はるみさんが、呆れつつも愛おしそうに微笑んで佐藤さんの口元をハンカチで拭いている。
二人は最高の事実婚のスクラムを組む決意を固めたばかりだった。
「むぐ……もぐ……むぐ……。このタレの絶妙なコク、醤油ときび砂糖の配合データ、やっぱり神がかってますね……。牛乳とも完璧に調和します」
カウンターの端では、事務所の山村ヨシオ(二十八歳)が、左手にモツ煮込みの小鉢、右手にいつもの1リットル紙パックの牛乳を握りしめ、驚異的な速度で炭水化物と脂質を脳へチャージしていた。
オレンジジュース派の佐藤さんと、牛乳派のヨシオ。新橋烏森法律事務所の誇る「大食いフォワード陣」のブレない食欲に、松井先生も「お昼の生姜焼きも美味しいですが、夜のモツ煮込みも本当に絶品ですね」と、ホクホクと頬を緩めていた。
サユリは、カウンターからそんな仲間たちの弾けるような笑顔を見つめながら、静かにグラスを傾けた。
源ちゃんを、守り抜いた普通借地権の暖簾。
(……やっぱり、私はここで生きていく。この血の通った新橋の街弁が、私の最高の居場所よ)
サユリが自身の選択への誇りを改めて噛み締めていると、はるみさんがそっとグラスを合わせてきた。
「滝先生、これからも私たちの事実婚のスクラム、よろしくおねがいしますね」
「ええ、はるみさん。二人のこれからのスクラムも、私が法律でずっと支えるわ」
まさに、ノーサイドのホイッスルが鳴り響いたかのような、極上のひとときだった。




