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第18話: 烏森口の聖域と、房総の残り香


 カチャン、コトコトコト……。


 新橋烏森法律事務所の片隅に新設された休憩スペースから、淹れたての香ばしいコーヒーの匂いと、どこか懐かしくて甘い香りが漂ってくる。


「ふぅ……美味いっすね、このコーヒー! あ、滝先生、このデカいチョコチップクッキーも一枚もらっていいすか? 営業のスクラム押したら、どうにも糖分が不足しちまって!」


 大日物産の熱血営業マン・佐藤さんが、ラグビー部プロップ仕込みの巨体をソファに沈め、我が物顔でマフィンを頬張っていた。はるみさんとの事実婚のスクラムを組み、新婚ホヤホヤのはずの彼だが、外回りの合間(あるいは堂々たるサボり)に、毎日この事務所へ顔を出しては入り浸っている。


「ちょっと佐藤くん! それはヨシオが脳みそのガソリンにするためのドーナツとクッキーよ! あんた、毎日うちに給食を食べに来るんじゃないわよ!」


 有吉がソフトボール部の一塁手さながらの鋭い口調で突っ込む。だが、



佐藤さんは「いや、昌子さんの手作りお菓子は別格なんすよ!」と、悪びれずに1リットル紙パックの牛乳をゴクゴクと喉に流し込んだ。



 この休憩スペースに並ぶドーナツ、マフィン、クッキーは、すべてサユリの実母・昌子の手作りだった。きび砂糖、全粒粉、米粉を使い、米油と国産バターで焼き上げた極上の品。


体に優しい素材だからこそ、ヨシオが毎日どれだけ大量に食べても胃もたれせず、

最高パフォーマンスでPythonパイソンのコードを叩き続けられる。


そして、その美味さを嗅ぎつけた大食漢の佐藤さんも、すっかり昌子おばあちゃんの手作りお菓子のクオリティに胃袋を掴まれていた。


「有吉さん、大丈夫です」ヨシオが口の周りをきび砂糖の粉だらけにしながら、画面から目を離さずに言った。「僕の脳のPython環境(Jupyter Notebook)は、糖分の補給効率が一定を超えれば、佐藤先輩の消費量くらいは計算の『誤差』として処理できますから……むぐ」


「何よそれ、ただの食いしん坊コンビじゃない!」

 松井先生も呆れて笑い出し、事務所にはいつもの温かい「緩和」の空気が満ちていた。


 世界的なヘッドハンターから「将来のパートナー弁護士昇格、専属パラリーガル二名、育休完全保障」という破格のスカウトを受け、一瞬は本気で激しく悩んだサユリ。だが、彼女はそのすべてを蹴り、この新橋の路地裏で『街弁』として生きることを選んだ。昌子の手作りお菓子を笑顔で貪る仲間たちがいて、目の前の困っている人に気軽に寄り添える今の状況こそが、何よりも尊く、一番幸せな生き方なのだと確信したからだ。


_________________________________________


 ――トントン。


 古びたドアが、遠慮がちにノックされた。

 佐藤さんが姿勢を正す。サユリが「どうぞ」と声をかけると、佐藤さんが「実は先生、いつもお菓子をごちそうになってるお礼代わりに、俺の行きつけの頑固オヤジを連れてきたんす」と、一人の初老の男性を招き入れた。


「滝先生……、すまねえな、アポもなしに」

 入ってきたのは、新橋のガード下で五十年間続く老舗居酒屋『赤提灯・源ちゃん』の店主・源さん(七十歳)だった。


 その顔を見た瞬間、有吉とヨシオが「あ、源さん!」と声を揃えた。


『源ちゃん』は、サユリたち事務所のメンバーがランチ時に毎日通い詰めている、新橋のオアシスだった。


お目当ては、サラリーマンの味方である「日替わりランチ五百五十円」。特に源さんが大きなフライパンで豪快に焼き上げる「豚の生姜焼き定食」は、甘辛いタレと生姜のキレ、山盛りの白米の相性が抜群で、ヨシオや佐藤さんにとっては昌子のお菓子と並ぶ最高のガソリンだった。


「どうしたの、源さん。お昼の生姜焼き、今日も最高に美味しかったわよ?」

サユリが尋ねると、源さんは手垢のついた分厚い書面をテーブルに落とした。


大手外資系フードコンサル企業『メガ・グローバル・ダイニング』から届いた、ガード下の都市再開発に伴う不当な『立ち退き要求書』だった。


「滝先生、俺の店だけじゃねえんだ。このガード下の老舗はみんな、今月末で立ち退けって言われててな……。おまけに、再開発の後に何ができるかっていうと、若者向けのド派手な外資系チェーンばかりなんだよ」


 源さんが悔しそうにパンフレットを広げる。


そこには、アメリカ発の派手なドーナツ店『ダディ・ドーナッツ』や、ガーリックシュリンプが売りのハワイアン料理店『ヤミー・ハワイアン』の完成予想図が踊っていた。


「ダディ・ドーナッツだぁ!?」

 その瞬間、ヨシオが牛乳パックを机に叩きつけて立ち上がった。眼鏡の奥の目が、かつてない怒りに燃えている。


「あんな保存料と着色料まみれの、インスタ映えしか能がない派手な海外ドーナツが、昌子おばあちゃんの優しくて美味いきび砂糖ドーナツの聖域(新橋)を奪うなんて……言語道断です! 計算の『バグ』以外の何物でもありません!」


「そうだ! ガーリックシュリンプのヤミー・ハワイアンだと!? 新橋の昼は源さんの550円の生姜焼き、夜はモツ煮込みって決まってんだよ! お洒落だけど腹にたまらねえエビごときに、俺たちのガード下を渡せるか!」


 佐藤さんもラグビーのプロップよろしく、もの凄い鼻息で机を叩いた。有吉も「新橋の歴史を舐めないでほしいわね」と大激怒し、事務所の全員、そしてガード下のサラリーマンたちみんながこの横暴に激しく困惑し、憤っていた。


「……おかしいですね」ヨシオが再びPCに向かった。「この強引な再開発計画を進めている外資系コンサルのバックエンド通信を、僕のPythonスクリプトでログ解析してみました。


……これ、開発許可のデータ申請ルートに、あの虎ノ門カールトン法律事務所の新藤サキが裏で関わっている形跡があります。


奴らは『国家通信AIシステム』のフェーズ3の基盤となる超高速通信光ファイバー網を、この新橋のガード下の地下に強引にぶち込むために、源さんたちの店を邪魔者として一掃しようとしてるんです」



かつてのサユリなら、大企業の再開発計画が法的に有利だと判断し、示談にしていたかもしれない。だが、今のサユリには、あの550円の生姜焼きで汗を流して働く新橋の男たちの血が通っている。昌子の手作りドーナツを守る大義名分もある。


「見栄えばかりの派手なチェーン店が何によ。新橋の男たちの胃袋と歴史を舐めないことね」サユリは立ち上がり、法廷の狂犬としての獰猛な笑みを浮かべた。「源さん、その新橋の暖簾、私たちの泥臭い法律のスクラムで、ガッチリ死守してあげるわ!」


ヨシオがスマホを手に取り、不敵に笑ってキーボードを叩く。

「サユリさん、相手のクラウドを逆ハッキングするために、秋葉原の相棒を呼びます」

ヨシオがメッセージを送った相手は、あの天才ホワイトハッカー、長門マモル。


『マモル、新橋の事務所に、昌子おばあちゃんの激ウマな手作りマフィンとクッキー、それと牛乳がある。……至急、新しいPythonの重爆撃スクリプトを持って、新橋烏森法律事務所へ合流してくれ!』


新橋の老舗居酒屋のプライドをかけた、新たなる大逆転劇の幕が切って落とされる――。


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