第16話: 佐藤くんの結婚
「先生方! 俺、やりましたァーーーッ!!」
ある日の午後、新橋烏森法律事務所の古びたドアが、文字通り壊れんばかりの勢いで弾け飛んだ。
飛び込んできたのは、いつもの大日物産の熱血営業マン・佐藤だった。彼ははち切れんばかりのワイシャツの胸を張らせ、顔を真っ赤にしながら、一枚の紙を両手で高く掲げている。
「プロポーズ成功したんすよ! ついに、婚姻届を勝ち取りましたァ!」
「あら! 佐藤くん、本当!? おめでとう!」
有吉がソフトボール部のファーストの構えでハイタッチを交わし、松井先生も「まあ、おめでとうございます!」とパチパチと拍手を送る。休憩スペースでマフィンを食べていたヨシオも、口の周りを粉だらけにしながら「佐藤先輩の結婚確率、計算上は30%未満だと思っていましたが……おめでとうございます。僕のPythonの予測を超えましたね」と不器用ながら嬉しそうに眼鏡を上げた。
佐藤の傍らには、恥ずかしそうに俯いている一人の女性が立っていた。
木之下ユカ さん、
すっきりと落ち着いた雰囲気の、佐藤とは小学校からの幼馴染だという。
「滝先生、初めまして。いつも不器用な主人がお世話になっています」
ユカ が丁寧に頭を下げる。サユリは心からの笑顔で彼女を応接スペースのソファへと迎え、新設されたコーヒーメーカーから淹れたての温かいコーヒーを差し出した。
「佐藤さん、ユカ さん、本当におめでとう。……でも、婚姻届を持って事務所に飛び込んでくるなんて、何か法律的な相談かしら?」
サユリが優しく尋ねると、それまで大はしゃぎしていた佐藤が急に真面目な顔になり、ユカが少し申し訳なさそうに口を開いた。
「あの……滝先生。実は、結婚はしたいのですが、私たちは『夫婦別姓』のままでいたいんです。私は今の『木之下』という仕事のキャリアと名前を大切にしたいですし、彼も大日物産の営業マンとして『佐藤』のままでいたい。
でも、今の日本の法律では、籍を入れるとどちらかの姓に変えなければならないですよね……。
だから、事実婚(公正証書による契約)にするべきか悩んでいて、街で一番信頼できる滝先生に、気軽に相談できると思って伺ったんです」
ユカさんの、切実で現代的な悩み。
サユリは、ユカさんの話に深く耳を傾け、事実婚における共同親権の持ち方や、財産分与契約、万が一の時の医療同意権を保障するための「準婚姻契約公正証書」の作成について、分かりやすい言葉で一つ一つ丁寧に紐解いていった。冷酷なシステムではなく、生身の二人の「これからの幸せ」を守るための法律の武器。それを手渡していく時間は、あまりにも温かかった。
(ああ……そうか)
ユカさんの安心したような笑顔と、彼女を優しく見守る佐藤の不器用な横顔を見つめながら、サユリの胸に、ある確固たる想いが静かに湧き上がってきた。
神谷町や虎ノ門のエリート弁護士だった頃の自分は、常に格式と勝訴の数字、そして国家の巨大なプロジェクト(システム)ばかりに目を向け、どこか息苦しさを感じていた。元夫の裏切りや離婚のしこりを経て、この新橋の路地裏に流れ着いたときは奈落の底だと思っていた。
けれど、今は違う。
こうして、休憩スペースでドーナツやマフィンを貪る佐藤やヨシオがいて、夜の街をレシーブする有吉がいて、温かい実母の昌子と息子のケンタがいる。
そして何より、婚姻届に悩む佐藤たちのようにな、「街で困っている身近な人たち」が、いつでも扉を叩いて気軽に相談できる今のこの『街弁』としての状況こそが、自分にとって何よりも尊く、一番幸せな生き方なのだと、サユリは心の底から確信したのだった。
「2人でとことん、話し合って、結果を出せばいのよ、話し合いで、解決できなければ、これからの夫婦生活が、成立しないでしょ」
サユリの返答に、一同が、納得した。
「先生、ありがとうございました!
俺、ユカと最高の事実婚のスクラムを組みます!」
佐藤が涙ぐみながら頭を下げる。ユカも晴れやかな笑顔を浮かべていた。
「またいつでも、相談に来なさい」
サユリがクスリと笑って二人を見送った、その時だった。
デスクでPCを監視していたヨシオが、コーヒーを喉に詰まらせそうにしながら叫んだ。
「サ、サユリさん! 松井叔母さん! ターゲット(秋元常務)のスマホの通信ログに動きがありました! カールトンの新藤サキが、今夜、神谷町の最高級ホテルの一室で、国家AIシステム(フェーズ3)の民間インフラ移行の『裏契約書』の電子調印を行う予定です。……不倫と国家犯罪の証拠が、一箇所に集まります!」
「よし……っ!」
サユリは湯呑みのお茶を飲み干すと、完全に「法廷の狂犬」の、そして新橋を守る街弁としての鋭い瞳に戻った。
「新橋烏森法律事務所、本星へ突撃よ! 佐藤さん、結婚祝いの前に、最後の大きなスクラムを組むわよ!」
「応!!」
佐藤が破格の力強さでワイシャツの袖をまくり上げる。
街弁としての誇りを得た滝サユリの、虎ノ門のエリートたちを巻き込む大逆転の夜が、ついにクライマックスへと向かうのだった。




