第15話: ヨシオの、アルコール処理ライブラリ
秋元タエコの夫・秋元常務の不倫調査(ホテル張り込み)が始まって三日目の夜。
新橋の烏森口は、週末の解放感に酔いしれるサラリーマンの熱気で膨れ上がっていた。
「いやぁ、ヨシオくん! 張り込みってのは、足と胃袋を使うラグビーと同じっすよ! ほら、もう一杯!」
「佐藤先輩……僕のアルコール処理ライブラリが、すでにキャパシティをオーバー……むぐ、でもビールと焼き鳥の脂は、糖分とは違う脳の快楽回路を刺激しますね……」佐藤は、日ごろのドーナツの礼も兼ねて、ヨシオの調査に、つきあっていた。
ガード下の赤提灯で、佐藤と山村ヨシオの二人は、すっかり出来上がっていた。
今回の不倫調査のターゲットである秋元常務が、今夜は神谷町のホテルではなく、新橋の接待ゴルフの打ち上げに参加しているという情報を掴んだため、二人は烏森口の近くで極秘の「待機(という名の大飲み会)」を命じられていたのだ。
「よーし、二件目行くぞヨシオ! 俺がいい店知ってるからよ!」
千鳥足の佐藤が、ヨシオの細い肩を組んで路地裏へと歩き出す。すでにヨシオの眼鏡は斜めにズレ、手にはコンビニで買ったいつもの一リットル紙パックの牛乳が、なぜかチェイサー代わりに握られていた。
そんな二人の前に、すっと人影が立ち塞がった。
「お兄さんたち、楽しそうだねぇ。今なら格安で、可愛い女の子たちと高級ウイスキーが飲み放題の店があるんだけど、どう?」
声をかけてきたのは、胸元の開いたドレスを着た、いかにも新橋の夜に潜む妖艶なキャッチの女だった。
「お、高級ウイスキー……? ヨシオ、行くぞ!」
「マサヒロや秀平のAIシステムに比べれば……人間の女性のアルゴリズムなんて、単純……です……」
二人は完全に理性を失ったまま、薄暗い雑居ビルの地下へと続く階段を降りていってしまった。それこそが、新橋の烏森口に最近巣食う、
悪名高き『ぼったくりバー・紅い糸』であることも知らずに。
一時間後。新橋烏森法律事務所のデスクで、サユリと松井先生が資料を精査していると、有吉のスマートフォンが激しく震えた。
「はいはい、有吉よ。……って、ええ!?」
受話器から聞こえてきたのは、ガタガタと震えるヨシオの情けない声と、後ろで男たちと言い争っている佐藤の怒鳴り声だった。
『松井の叔母さん……助けて……。僕の財布の残高データが、物理的にゼロに……。なんか、お会計が、九十八万円って……』
『ふざけんじゃねえぞオラァ! 誰が払うかこんな金! 俺はラグビーのプロップだぞ!』
『おぅおぅ、ラグビーだか何だか知らねえがな、新橋のルールは俺たちが決めるんだよ。払えねえなら、その太い腕、一本置いてってもらおうかぁ?』
電話の向こうで、ガラの悪い男たちの脅し文句が響く。
「あのバカ二人……! 張り込み中にぼったくりバーに引っかかりやがったわね!」
有吉がホッピーのグラスを机に叩きつけ、ソフトボール部の一塁手としての闘志を剥き出しにした。
「有吉、場所はどこ?」
サユリが鋭い目で立ち上がる。
「烏森の路地裏の地下ね。あそこはカールトンの新藤サキが裏の顧問弁護士をやって、ヤクザ崩れに経営させてる『クモの巣』よ。サユリ、松井先生、新橋の夜を舐めた奴らに、本物のレシーブを見せてやりましょう!」
ガラガラッ!
『クモの巣』の重い鉄扉が、凄まじい勢いで開け放たれた。
店内では、数人のガタいの良い黒シャツの男たちに囲まれ、佐藤がワイシャツを破られてスクラムの構えで睨み合い、ヨシオは隅っこで牛乳パックを抱えて震えていた。
「そこまでにしなさい、新橋のダニども」
冷徹な声とともに法廷のスーツ姿で現れたのは、滝サユリだった。
「あぁ!? なんだてめえらは。すっこんでろ、今このデカブツから金を回収して――」
「私は、新橋烏森法律事務所の弁護士、滝サユリです」
サユリは男たちの前に一歩出ると、手元のスマートフォンを掲げた。
画面には、ヨシオが恐怖で震えながらも、机の下で密かに起動させていた『自作の音声録音・パケット解析Pythonスクリプト』のログが、リアルタイムで事務所のサーバーへ転送されている画面が映っていた。
「あなた方がこの二人に提示した料金表、およびメニューの価格。そして、一切の説明なしにクレジットカードを不正に決済しようとした端末の通信ログ。すべて、我が事務所の山村ヨシオのPython環境(Jupyter Notebook)に、電子証拠としてガッチリ保存させてもらいました」
さらに、有吉が男たちのボス格の前に歩み寄り、不敵に笑って凄んだ。
「あんたたちのバックにいるカールトンの新藤サキに伝えなさい。
新橋烏森法律事務所の有吉を舐めるんじゃないってね。警察の生活安全課と、消費者センター、それから弁護士会にこの『九十八万円の請求書』と不正通信の証拠を今から一斉送信してやるわ。店、潰れたい?」
元ソフトボール部ファーストの有吉の、夜の街を圧倒する凄まじい威圧感。そしてサユリの冷徹な法理論。
黒シャツの男たちは、その「最強の女弁護士軍団」の迫力に、完全に気圧されて顔を青くした。
「……ちっ、今回は、見逃してやるよ。二度と来るな!」
「言われなくても、こんな炭水化物のない店、二度と来ません!」
ヨシオが急に強気になって叫び、佐藤を抱え起こした。
深夜。新橋烏森法律事務所の休憩スペース。
「うぅ……先生方、本当にすんませんでした……」
佐藤が頭に氷嚢を乗せ、小さくなって平謝りしている。
「僕も……アルゴリズムの計算を誤りました……」
ヨシオは、昌子おばあちゃんが怒りながらも用意してくれた『デカいドーナツ』を、反省の涙を流しながら牛乳で流し込んでいた。
「まったく、人騒がせなフォワード陣ね」
サユリは呆れつつも、コーヒーメーカーから淹れたてのコーヒーを啜り、フッと笑った。
だが、松井先生がヨシオのPCのログを見て、ハッと声をあげた。
「サユリさん、ヨシオくんがさっきの店の決済端末から逆アクセスして引っこ抜いたカールトン(新藤サキ)の暗号通信パケット……。これ、秋元常務が今夜、新橋の接待のあと、本当に神谷町のホテルでサキと密会する予約データです!」
怪我の功名だった。酔っ払ってぼったくられたヨシオのPythonが、敵の本丸の今夜の動きを完全に捉えていたのだ。
「佐藤さん、ヨシオくん、糖分は補給できた?」
サユリの目が、瞬時に「法廷の狂犬」へと戻る。
「はいっ! あと百回スクラム押せます!」
「僕のPython環境も、ドーナツで完全復活しました」
「よし、新橋烏森法律事務所、今から神谷町のホテルへ電撃スクラムを仕掛けるわよ。不倫の証拠、ガッチリレシーブしに行くわよ!」
コミカルな大失態から、一気に本星への大逆転追跡へ。新橋の男と女たちの、泥臭くも熱い夜が、再び加速を始めるのだった。




