第14話: 房総の梨狩りと、多生の縁
「サユリ、思いっきり息抜きしなさい!」という実母・昌子の強い勧めで、サユリたちは後日、『千葉・房総日帰り満喫バスツアー』に参加していた。
参加メンバーはサユリ、長男のケンタ、昌子、臨席には有吉、松井先生、山村ヨシオ、さらにラグビー佐藤。
「うおおお! カニだ! サザエだ! 浜焼き最高っす!」
房総の食事処で佐藤が海鮮ランチを豪快に平らげ、果樹園での「梨狩り食べ放題」では、みずみずしい梨が次々と胃袋へと消えていく。
さらに旅の終盤、立ち寄った木更津の大きな道の駅で、一行の旅行感は最高潮に達していた。
「むぐ……もぐ……! 松井叔母さん、この千葉名物の『太巻き祭りずし』、断面の桜の模様が綺麗なだけじゃなくて、酢飯の甘みと具材のバランスが最高です。脳の処理速度がハイスピードモードに入りました」
ベンチに陣取った食いしん坊のヨシオは、おにぎりサイズの太巻きずしを物凄い勢いで平らげ、お土産コーナーで買ったみずみずしい『琵琶ゼリー』をツルリと喉に流し込んでいる。さらに右手には、オレンジ色の鮮やかな『びわソフトクリーム』まで握られていた。
「ヨシオくん、あなた梨をあんなに食べた後にまだ食うの!? 完全に糖分過多よ!」
有吉が爆笑しながら突っ込むが、ヨシオは「びわの爽やかな酸味は別腹です」と大真面目にソフトクリームを舐めており、ケンタも大喜びだ。
――しかし、その道の駅のテラス席のすぐ隣だった。サユリがお茶を飲んでいると、隣の席で、二人の女性が深刻な顔で話し合っているのが聞こえてきた。
一人は、主人の度重なる不倫に何年も悩まされ、深く溜息をついている秋元タエコ(四十七歳)。そしてもう一人は、そんなタエコの肩を優しく抱き、親身になって励ましているフジコ。二人は高校時代からの同窓生だった。フジコは日頃からタエコの苦しい悩みを聞いており、少しでも彼女の気を紛らわせようと、今回の房総ツアーに二人きりで参加していたのだ。
「タエコ、もうあんな男のためにこれ以上泣かなくていいよ。私がずっと味方だから」
「ありがとう、フジコ……。限界で、苦しくて、どうしていいか分からないの……」
長年の親友だからこその、痛みを分かち合うような二人の会話。それを耳にした瞬間、サユリの胸の奥にある『しこり』が激しく疼いた。夫の不倫、裏切り。それはまさに、自分が味わったばかりの地獄そのものだった。
サユリはゆっくりと立ち上がり、二人の前に歩み出た。
「お二人とも、突然ごめんなさい。……袖振り合うも多生の縁、と言います」
サユリはバッグから名刺をそっと二人に手渡した。
「私は新橋で弁護士をしています。男の身勝手な裏切りを、法律の力で完膚なきまで叩き潰すのが、私たちの仕事です。タエコさん、もし本気で戦う覚悟があるなら、いつでも新橋の事務所へいらしてください。私たちが、あなたのスクラムの最前線になりますから」
サユリの力強い言葉と、後ろで太巻きずしを頬張るヨシオや、佐藤、有吉たちの頼もしい姿を見て、タエコの暗かった瞳に、初めて希望の光が宿った。フジコも嬉しそうにサユリを見上げた。「滝先生、ありがとうございます。タエコ、行こう。新橋へ行こう!」二人はしっかりと手を握り合い、笑顔で房総の地を後にした。
――そして、翌日。夕暮れの『新橋烏森法律事務所』。
最近、佐藤は事務所の休憩スペースにヨシオのために用意されたマフィン、デカいクッキー、ドーナツ、牛乳、そして新設されたコーヒーメーカーの無料給食コーナーをお目当てに、毎日のように入り浸っていた。
「ちょっと佐藤くん! それはヨシオの脳みそのガソリン(糖分)なんだから、あんたがバクバク食べるんじゃないわよ!」と有吉に怒られ、
佐藤が「いや、俺も営業のスクラムで糖分が……」と言い訳する、そんな最高に微笑ましい日常の中、古びたドアが静かに開いた。
入ってきたのは、最高級のスーツを着こなした、世界的なエグゼクティブ・ヘッドハンターの男だった。男はサユリの前で名刺を差し出し、ため息が出るほどの条件が記載された契約書をテーブルに滑らせた。
「提示された年俸は、神谷町時代の三倍。
なにより、数年後には経営最高幹部である『パートナー弁護士』としてお迎えすることを確約いたします。
さらに、滝先生が今後、もし再婚された場合の完璧な育児休暇制度、専属のアシスタントとパラリーガルを2人配属し、広大なプライベートオフィスをご用意します。カールトンを完膚なきまで叩きのめした滝サユリの手腕を、リーガル界のトップたちが渇望しているのです」
その凄まじい条件に、事務所の空気が一気に張り詰めた。それは、シングルマザーとしてケンタを育てるサユリにとって、あまりにも完璧すぎる条件だった。昌子に負担をかけることもなく、不自由のない未来を約束できる。
(これだけの条件があれば、ケンタを……昌子を、もっと楽にさせてあげられる……)
サユリの胸が、激しく揺れ動いた。綺麗事だけでは生きていけない。この雑居ビルでいつまで安定した戦いを続けられるかという不安は、常にあった。サユリは契約書を見つめたまま、深い沈黙に沈んだ。
その時、佐藤が大きな拳をぎゅっと握りしめ、ぽつりと言った。「……滝先生。俺たちは、先生がどんな道を選んでも応援します。先生には、世界一幸せになってほしいですから」
有吉も頷いた。「そうよ、サユリ。あんたが上を目指すなら、背中を押すわ」
仲間たちの、サユリの幸せを心から願う温かい言葉。それが、サユリの迷う胸に真っ直ぐに突き刺さった。サユリはゆっくりと目を閉じ、開いた。彼女の瞳から、迷いは消えていた。
「……とても魅力的で、私の将来をそこまで考えてくれたオファーには感謝するわ。一瞬、本気で心が揺らいだ。……でも、やっぱりお断りするわ」
サユリは窓の外――総武線のガードが轟音を立て、泥臭い営業マンたちが汗を流して歩く、新橋の街を見下ろした。
「東京タワーが見える最上階のオフィスよりも、私には、一緒に泥臭いスクラムを組んでくれるこの仲間たちがいる場所の方が、ずっと価値がある。それに、昨日『多生の縁』で出会った秋元タエコさんのような、男の裏切りに泣いている人をこの手で救い出す仕事が、今まさに目の前にあるのよ。私はこの新橋の路地裏で、私の法律を貫くわ」
サユリの堂々とした宣言に、佐藤が「先生……ッ!」と感極まって大号泣し、有吉は「やっぱりあんたは最高の一塁手ね!」と豪快に笑った。
ヨシオも「これで安心して糖分を補給できます」と嬉しそうに牛乳を飲み干す。ヘッドハンターの男はサユリの揺るぎない瞳と事務所の熱い絆に圧倒され、「……見事な御意志です」と一礼し、去っていった。
破格の誘惑に一度は激しく悩みながらも、自らの意志で新橋に残ることを選んだ滝サユリ。彼女と『新橋烏森法律事務所』の次なる戦い――秋元タエコの不倫調査のゴングが、今、新橋の夜風の中で高らかに鳴り響くのだった。




