6話 『記号の終わり』
荒い呼吸が、ようやく静まっていく。
Cは鉄屑の上に横たわったまま、隣に座る異形を見上げた。
窓のない廃工場。
油の匂い。
遠くで軋む機械音。
ここには、時間がない。
「……なぁ、L」
Cが声を出す。
「ここに、どれくらいいる?」
Lは削がれた腕を気にする様子もなく、淡々と答えた。
「さあな。ここには太陽も月もない。時間という概念ごと捨てられた場所だ」
Cは自分の手を見た。
青い皮膚。
鋭い爪。
ほんの少し前まで、人間だったもの。
「……俺、軍の施設にいた記憶がある」
声がわずかに揺れる。
「俺たちは“実験体”だった。CとかLとか……ああいう記号で呼ばれるために生まれたんじゃない」
沈黙。
鉄屑の擦れる音だけが、空間を満たす。
やがて、Cは低く呟いた。
「……このままじゃ、俺たち“あいつらのまま”だ」
ゆっくりと、顔を上げる。
「名前を持とう」
一拍。
「俺たちとして呼ばれるための名前を」
Lの翅が、わずかに震えた。
長い沈黙。
「……俺に、そんなものを持つ資格があると思うか?」
湿った声。
それは初めて、感情を帯びていた。
Cは迷わなかった。
「ある」
即答だった。
「少なくとも、“番号で呼ばれる資格”よりはな」
空気が、わずかに変わる。
Lは視線を落とした。
そして、ぽつりと零す。
「……アストン」
「それはどうだ」
Cは頷く。
「いいな」
短く、だが確かに肯定する。
そして自分の胸に手を当てた。
鼓動がある。
まだ、生きている。
「なら俺は……ダリストだ」
一瞬。
“C”という呼び名が、頭の中から音を失った。
呼ばれていたはずの名前が、もう思い出せない。
代わりに残ったのは――
二つの、選んだ名前。
「行くぞ、アストン」
ダリストが立ち上がる。
「俺たちの名前が通じる場所を探す」
ダリストとアストンは、出口を求めて暗い通路を進んでいた。
視界に入るのは、かつての機能を失った残骸ばかりだ。
濁った培養液に沈むカプセル群。
その中には、完成しなかった“何か”が腐肉のように浮いている。
床には、急いで放棄されたと思われる資料が散乱していた。
血に濡れ、判読不能な文字が滲んでいる。
「……見ろ。檻だ」
アストンが指差す。
ひしゃげた鉄格子。
そこに染みついた、獣の匂い。
ここで“飼われていたもの”の痕跡。
成功体か、暴走体か――
いずれにせよ、生き物だった。
「……俺たちも、ああなるはずだったのか」
ダリストが呟く。
「いや」
アストンは即答した。
「なっている最中だ」
一瞬、沈黙が落ちる。
だがダリストは、歩みを止めなかった。
やがて、暗闇の奥に階段が現れる。
上へと続く、錆びた鉄の道。
踊り場には、歪んだプレート。
【B10】
「……地下十階か」
ダリストが指でなぞる。
最下層だと思っていた場所は、まだ途中だった。
この上に、まだ地獄がある。
「長い道のりになりそうだな、アストン」
「構わんさ」
翅がわずかに揺れる。
「記号で呼ばれていた頃に比べれば、階段を上るだけだ」
ダリストは、一段目に足をかけた。
そして、ぼそりと呟く。
「……途中で、お前を喰うかもしれないがな」
軽い調子だった。
だが、冗談ではない。
一拍。
「その時は、遠慮なく殺せ」
アストンの返答もまた、軽かった。
だが同じく、冗談ではなかった。
二人は階段を上る。
一段ごとに、過去から遠ざかる。
同時に、まだ見ぬ何かへ近づいていく。
そのときだった。
チカッ――
天井の蛍光灯が、不規則に明滅する。
「……電気が生きているな」
ダリストの声が低く落ちる。
ここは死んだ施設ではない。
眠っているだけだ。
電気が通っているということは――
監視も、防衛も、扉も、すべてが生きている。
「皮肉だな」
アストンが翅を揺らす。
「光があるせいで、この場所の醜さがよく見える」
明滅する白光が、二人を照らす。
青い皮膚。
仮面のような顔。
人の形を残した異形。
「……だが、悪くはない」
ダリストは階段の先を見上げた。
「暗闇よりは、道が見える」
光が、強く瞬く。
その一瞬、
ダリストの赤い瞳の奥で――
まだ消えていない“飢え”が、わずかに揺れた。




