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29話『B5の静寂と新たな門』

 実験体Aの顔は、コアを失った瞬間、崩れた。

 皺が刻まれる。  皮膚が乾き、色を失う。

 時間が巻き戻るのではない。  逆だ。

 時間そのものが、彼を“過ぎ去ったもの”として処理していく。

「私の……コア……」

 かすれた声は途中で途切れた。

 次の瞬間。

 実験体Aという存在は、  “記録から削除された肉”へと変わり、  監視室の床に崩れ落ちた。

 動かない。

 機能も、意味もない。

 ただの“終わった構造”だった。

 ダリストは一歩踏み出そうとして――止まる。

「……がッ」

 腹の奥で、世界が反転した。

 痛みではない。

 再構築。

 骨がほどける。  臓器が再配置される。  肉が“別用途”へと書き換えられていく。

 視界が白く潰れた。

 どれほど時間が経ったのかは分からない。

 意識が戻ったとき、ダリストは床に片膝をついていた。

 呼吸はある。

 だがそれは、もう人間のものではない。

 腹部。

 そこに“あった”。

 裂けた口。

 実験体Aと同じ形状。

 だが模倣ではない。

 継承でもない。

 ただ最初からそこに“あったことにされている器官”。

 覗き込んでも、底はない。

 そこにあるのは――飢えだけだ。

「……そうか」

 ダリストは、自分の手を見た。

 震えはない。

 温度もない。

 そこにあるのは機能だけだ。

 漆黒の装甲。  紅い蛇の眼。  そして腹部に開いた“門”。

 それは変化ではない。

 最初からそうであったものが、ようやく露出しただけだ。

「人間である必要は……もうない」

 声は低く、静かだった。

 決意でもない。  感情でもない。

 ただ、事実としての更新。

 その瞬間。

 ――監視室の照明が、わずかに“遅れて”揺れた。

 モニターが一瞬だけノイズを吐く。

 だがすぐに復帰する。

 記録は正常。  異常なし。

 ……そのはずだった。

 ダリストは歩き出す。

 B4へ続く扉が、軋みながら開いた。

 拒絶ではない。  抵抗でもない。

 まるで最初から、  “通過するものを想定していた構造”のように。

 そのとき。

 ほんの一瞬だけ――

 監視室のモニター群が、同じ方向を見た。

 記録ではない。  映像でもない。

 “観測”そのものが、ダリストを追った。

(――認識した)

 そんなはずはない。

 だが、確かに。

 世界の側が、  この存在を“見ている”。

 ダリストの背中には、もはや個はない。

 バグでもない。  逸脱でもない。

 ただ一つ。

 世界の中に発生した、  “新しい前提”。

 そしてその前提は――

 すでに世界に“観測され始めている”。

 漆黒の怪物は、静かに次の階層へと沈んだ。

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