30話『侵食される無菌室:B4の洗礼』
B5の死臭を背に、ダリストは階段を上り切った。
重厚な扉が、抵抗なく開く。
その先にあったのは――異様なまでの「白」だった。
壁。床。天井。
すべてが継ぎ目なく連続し、影という概念すら拒絶する均質な空間。
そこは戦場ではない。
殺戮の痕跡すら許さない、ただ一つの目的のために作られた領域。
――不純物の排除。
ダリストが一歩踏み込んだ瞬間、背後の扉が閉じる。
金属音が響く。
それは封鎖ではない。
“処理開始”の合図だった。
空間が、わずかに脈動する。
次の瞬間。
四方のスリットから、白濁した霧が噴き出した。
「……?」
ダリストは即座に動かない。
呼吸を奪うわけでもない。
熱でもない。
毒でもない。
ただ“白いだけ”の侵入。
「消毒か……?」
その認識が言葉になる直前――世界が反転した。
――ぐ、があああああッ!!
痛みではない。
分解。
全身が“異物”として認識されている。
皮膚が、存在の前提ごと剥がされていく。
骨も肉も関係ない。
この空間においてダリストは「誤差」だった。
翅が崩れる。
毒の残光が剥がれ落ち、床に焼き付き、すぐに消える。
そして最も異常なのは――腹部だった。
そこにあるはずの“口”。
実験体Aから継承した、世界を喰らうための器官。
それが今、この白の中で“異物”として認識される。
バイオレットの再生が暴走する。
だがそれは修復ではない。
排除だった。
増殖する肉が裂け目を塞ごうとしながら、同時にその構造を“異常”として潰していく。
塞ぐために壊し、壊すために塞ぐ。
ぐちゃり、と内部で矛盾がねじ切れる音がした。
形が崩壊していく。
機能がほどけていく。
存在が“正常”へと強制的に戻されていく。
ダリストの肉体は、この空間の結論に従っていた。
――ここでは、彼は成立してはいけない。
「……ッ、あ……が……」
声は途中で途切れる。
痛みではない。
定義の崩壊。
無菌室は静かだった。
だがその静寂は優しさではない。
すべてを“正常”へ戻すための沈黙だ。
ダリストという異常は、確実に分解されていく。
白濁した霧が役目を終えたように引いていく。
残されたのは、あまりにも清潔で、あまりにも残酷な空間だった。
ダリストは震える手で、自らの身体に触れた。
指先に返る感触は、もはや異形ではない。
ただの皮膚。
記憶の底に沈んでいた、人間の輪郭。
「なっ……!」
白く磨かれた床は鏡のように、その姿を無慈悲に映し返す。
そこにあるのは――
角もない。
翅もない。
そして、腹部の“口”すら存在しない。
すべてが消されていた。
最初から、何もなかったかのように。
バイオレットの再生は裏切りではない。
この空間にとっては“正常動作”だった。
――異常を、正常へ戻す機構。
ダリストが積み上げてきたすべては、傷として処理されていた。
『…………』
内側の声が、沈黙する。
五つの名前も、
喰らった記憶も、
積み上げた重みも。
すべてが、この白の下へ押し込められている。
無菌室は、完全に成功していた。
バグは修正され、逸脱は排除され、
そこに残されたのは――ただの「素材」だった。
ダリストは立ち上がろうとして、その軽さに膝をつく。
重みがない。
背負ってきたはずの死者たちの重さが、どこにもない。
彼はこの地獄の最奥で、初めて本当の意味で「独り」にされた。
「……これが、俺か……?」
声は白に吸われ、消える。
武器も、異能も、喰らったはずの力もない。
ただの人間。
だが――
その色を失った瞳の奥。
網膜のさらに裏側には、この潔癖な世界すら洗い流せない、黒い“澱み”だけが静かに沈んでいた。




