2話 『初めての捕食』
その血の匂いが、彼の中に残された最後の「理」を焼き切った。
「――ぁ、……あぁッ!」
喉から、獣の咆哮が漏れる。
彼は、人間の腕に飛びついた。
牙が、ためらいなく人の肉を貫く。
生温かい血が、口内に溢れた。
――美味い。
その感覚が、思考を“上書きする”。
かつての自分なら、吐き気を催したはずの味。
だが今は違う。
砂漠で得る水よりも甘く、
どんな快楽よりも強烈な“満たされ”だった。
骨を噛み砕く音が、静寂に響く。
貪る。
貪る。
貪る。
欠けていた何かが、埋まっていく。
満たされる。
――もっと喰えば、もっと思い出せる。
その確信が、理性の残骸に楔のように打ち込まれた。
――その瞬間。
口いっぱいに広がる血の味が、脳の奥に沈んでいた記憶を強引に引きずり出した。
視界が、白く反転する。
『実験体C、今日の薬は飲んだか?』
無機質な男の声。
白い天井。無機質な光。
自分は、拘束衣に縛られ、ベッドに固定されていた。
『……体調はどうだ?』
覗き込むのは、白い防護服の男。顔は見えない。
『む……胸が……焼ける……! 身体が……俺の身体じゃなくなっていく……ッ!』
心臓が異常に速く打つ。
皮膚の下を、何かが這い回る。
男は淡々とタブレットに記録する。
『第3段階投与。適合せず……か。貴重なデータだ』
『待て……! 助けてくれ……!』
『次は3日後だ。それまで死ぬなよ、C』
――扉が閉まる。
――独りになる。
「ガ、アアァァッ……!!」
気づけば、彼は廃工場の床に膝をついていた。
口元は血で濡れ、
足元には、食い散らかされた骨が転がっている。
白い部屋の記憶。
悪魔のような自分の姿。
そして――人間の肉の味。
すべてが混ざり合い、胸の奥を引き裂いた。
「……なんで……美味いんだよ……」
掠れた声が、震える。
「俺は……“実験体C”……?」
断片的な記憶が、脳裏を焼く。
「俺を……こんな姿にしたのは……」
赤い瞳が、ゆっくりと歪む。
怒り。
絶望。
そして、まだ消えない“満たされ”。
それらすべてを抱えたまま――
「……必ず、元に戻る」
低く、絞り出すように呟く。
「そのためなら――何でも喰う」
一拍。
「……あと何人だ?」
その瞳は、先ほどまでとは比べ物にならないほど、禍々しく輝いていた。
「ここは廃棄場だ。そして俺は実験体Lだ。」
Lは蜻蛉の翅を、不快な音で震わせた。
「俺たちは、生物兵器として“使えなかった”連中の終着点……掃き溜めだ」
足元の培養液を蹴り飛ばす。
「だが、お前は運がいい」
わずかに、愉悦が滲む。
「こうして“目覚めた”。……あいつらと違ってな」
節くれだった肢が、背後を指す。
Cの赤い瞳が、暗闇を捉えた。
――並んでいる。
無数のカプセルが、墓標のように。
ひび割れ、腐り落ちたもの。
濁った液の中で、意味もなく脈打つ肉。
角だけが生えた頭部。
無数に増殖した指。
内臓だけの塊。
どれも――人間だったものの残骸だ。
「連中は終わりだ」
Lは淡々と告げる。
「目覚めることもなく、そのまま溶けて……廃油と一緒に流される」
一拍。
仮面の奥の視線が、Cを射抜く。
「だが、お前は違う」
間。
「“悪魔”の姿で、自我を保ったまま立ち上がった」
わずかに、声が歪む。
「その意味が分かるか? C」
沈黙。
「お前は――バグだ」
言い切る。
「失敗作の中に紛れ込んだ、“唯一の成功例かもしれない異常”」
背後の死体たちの沈黙が、空気を冷やす。
「……バグ、だと」
低く、押し殺した声。
「そうだ」
即答。
「そして、そのバグがこの先も消えずに済むかどうかは――」
Lが、わずかに身を乗り出す。
「お前が、どれだけ効率よく“食えるか”にかかってる」
一拍。
翅が、不気味に震える。
「安心しろ。最初に喰ったのが“知り合い”だった奴もいる」
――その時。
ズン。
重い振動が、床を伝った。
ズン――ズン。
規則的な、何かの足音。
この廃棄場そのものが、軋むように揺れる。
Lの翅が、わずかに震えた。
「……来たな」
一拍。
「“回収”が」




