19話『名前を持つ怪物』
漆黒の巨躯が、音を殺して通路を進む。
逃げた小さな背中を追って辿り着いた先――
そこは「職員居住区」だった。
かつて人の生活があった場所。
だが今は、死だけが“生活”のように残っている。
廊下に転がる骸。
腐敗し、崩れ、骨だけが構造を保っている。
踏み出すたび、乾いた音が鳴る。
骨か、ガラスか――それとも記憶か。
「……掃き溜めか」
低く吐き捨てる。
右肩の黒鋼がわずかに唸る。
無数の照準が闇を撫でる。
その瞬間――
パンッ。
火花。
胸部装甲に衝撃が走る。
遅れてくる“音だけの痛み”。
もう慣れている。
視線を向ける。
そこにいたのは――少女だった。
小さな身体。
震える腕。
両手で必死に支えた拳銃。
「ひっ……! 来るな……ッ!!」
パン、パン、パン――!
発砲。
だがすべて弾かれる。
それでも撃つ。
止まれば、終わるからだ。
ダリストは、動かない。
見ている。
その“必死さ”を。
(……弱い)
あまりにも。
だが――
胸の奥が、僅かに軋む。
(……違う)
これは“弱さ”ではない。
生き残るための形だ。
かつての自分と同じ。
一歩、踏み出す。
少女が後ずさる。
「来るな……来るなよォッ!!」
叫び。
それでも銃口は下がらない。
ダリストはさらに一歩。
距離が、消える。
少女の指が震える。
それでも引き金は離さない。
「撃て」
低い声。
「撃たなきゃ死ぬぞ」
「……ッ!!」
パンッ。
最後の弾。
額に命中。
――弾かれる。
カラン。
乾いた音。
沈黙。
少女の手から、拳銃が落ちる。
「……あ……」
終わりを理解した声。
膝が崩れる。
だが、まだ生きている。
ダリストはその前に立つ。
見下ろす。
かつての自分。
逃げる側の自分。
踏み潰される側の自分。
「……化け物」
少女が呟く。
震えながら。
涙を流しながら。
ダリストは答えない。
代わりに、腰に触れる。
アストンの仮面。
冷たい。
そこに“名前”がある。
「……名前はあるか」
「え……?」
「お前のだ」
沈黙。
やがて、か細く。
「……リナ……」
その瞬間。
ダリストの右目が、わずかに揺れる。
(名前がある)
まだ“人間側”だ。
まだ、喰われていない。
だが――
喉の奥が鳴る。
(喰える)
その事実も、同時に存在している。
沈黙。
数秒。
そして。
ダリストは銃口を下げた。
「……生きろ」
短い言葉。
だが、その裏には別の意味がある。
(今はまだ)
(喰う価値がない)
少女の喉が震える。
「……殺さ、ないの……?」
ダリストは背を向ける。
「……まだ、名前がある」
それだけだった。
歩き出す。
その背中を、少女は見ている。
――逃げる側ではない。
――殺す側でもない。
そのどちらにも“完全には属していない存在”。
通路の奥へ消えながら、ダリストは小さく呟く。
「……名前、か」
その言葉だけが、やけに重かった。




