第97話 私に聞かない会議
「リリアーナ店員は、一号店の在庫確認をお願いします」
ミア店長の指示に、私は三秒遅れて答えた。
「はい」
三秒。
たった三秒だけれど、その間に胸の中では盛大な反対会議が開かれていた。
え、私を? 在庫確認? こっちは港町便四十箱の緊急事態よ? 創業者よ? 商品研究責任者よ? 絶対に何か意見あるわよ?
ある。ありすぎる。
だからこそ、呼ばれていない。
「……はい。数えます。ものすごく正確に」
「お願いします」
ミアは私の未練へ一切触れず、さらりと仕事を渡した。十六歳、強い。
港町便、欠航。
生鮮品四十箱、到着せず。
以前なら、私は地図を開き、代替便、在庫、客への告知を決める会議の中央にいた。
今夜、会議へ入るのは、分散物流規格責任者のゼルド、港町共同会社、影響を受ける一号店のミア、王都旗艦店、リバーサイド二号店。
商品研究の判断はない。
創業者の緊急承認もない。
「在庫表は、会議室へ持っていく?」
「共同板へ入力してください。必要なら担当者から照会します」
「私が説明したほうが早いわ」
「今夜の当番が説明できます」
「でも、私なら在庫の来歴まで――」
「照会があれば答えてください」
「会議の隅で黙ってるだけでも」
「黙っていられますか」
「……努力はするわ」
「在庫確認をお願いします」
完敗だった。
ミアの声は、冷たくない。
だからこそ、入る理由がなかった。
会議室の扉が閉まり、私は棚へ向かった。
◇◇◇
届かない四十箱は、冷蔵魚十八、海藻六、港野菜八、乳製品四、加工用香草四。
一号店の受取予定は、魚六、海藻二、野菜三、乳製品二、香草一。
私は現在庫を数えた。
川魚、十二箱。
乾燥海藻、九袋。
根菜、二日分。
乳製品、一日半。
香草、代替二種。
「会議へ、代替案を送る?」
手が、伝令石へ伸びた。
ミアは在庫確認を頼んだ。
案を求めてはいない。
でも、川魚があると知っているのは私だ。
「共同板へ、在庫だけ」
そう、在庫だけ。
川魚がありますよ。海魚の代わりにどうですか。価格は三銅貨下げましょう。骨の注意表示も忘れずに。ついでに根菜との新弁当を――。
「違う違う違う! それは“在庫だけ”じゃない!」
声に出してしまった。
近くの店員が、何事かとこちらを見る。
「ごめんなさい。私と私が揉めてるだけ」
余計に心配そうな顔をされた。
自分へ言い聞かせた。
品目、数量、更新時刻、品質期限。
『海魚の代わりに川魚を使う』とは書かなかった。
代替を決めるのは、商品表示と仕入れ契約を確認する店長たちだ。
在庫という事実を渡し、答えは渡さない。
たったそれだけのことが、ひどく難しかった。
◇◇◇
私は在庫台の端で、提案書を書き始めた。
『川魚七箱を代替使用。海魚予約客へ同価格で――』
途中で、手が止まる。
川魚の原価は海魚より安い。
同価格なら、店の利益は増える。
骨の数も、食感も違う。
書けば、私の名前の重さで案がそのまま採用されるかもしれない。
「それは、何の書類ですか」
当直店員が尋ねた。
「会議への提案」
「商品研究責任者として、照会が来ましたか」
「まだ」
「一号店店員として、ミア店長から提案を求められましたか」
「いないわ」
「では、共同板へ載せる権限は?」
「ぐっ……!」
正論が、今日も容赦なく刺さる。
「カイル。今、ものすごく勇気を出して聞いたでしょう」
「はい。胃が痛いです」
「私も聞かれて胃が痛いわ。おそろいね」
「あまり嬉しくありません」
「正直でよろしい」
私は彼の顔を見た。
入って三か月の店員。
以前なら、私の手元を見て、止めずに運んだだろう。
「ないわね」
「すみません」
「なぜ謝るの?」
「創業者へ、権限を聞いたので」
「聞いてくれていい。憲章研修どおりよ」
私は提案書を破らず、『未提出案』と書いた。
「捨てないのですか」
「あとで商品研究へ照会が来たら、考え直せる。でも、今は送らない」
「照会が来なかったら?」
「記録期限の七日後に廃棄」
案を思いつくことまで禁止する必要はない。
思いついた案が、誰の問いにも答えず命令へ変わる道を止める。
「あなたの名前は?」
「カイルです」
「カイル、今の確認を新体制研修の事例へ出していい?」
「創業者を止めた人として?」
「店員へ職務権限を聞いた人として。嫌なら匿名にする」
「匿名でお願いします。母に知られたら、腰を抜かします」
私たちは少し笑った。
会議室の外にも、憲章は働いていた。
◇◇◇
会議室から、声が少し漏れてきた。
「高波は、朝まで続きます」
港町共同会社の担当者。
「別の船を出せませんか」
「欠航基準を越えています。出しません」
ゼルドがすぐ答えた。
「魚は港の氷室で、明日の夜まで保てます」
「港町共同店で販売を増やせる?」
「一部は。ただし、地元価格を急に下げれば漁師の契約へ影響します」
私は扉へ近づいた。
港で余る魚。
内陸で空く棚。
前世なら、値引き販売、冷凍、別便。
案がいくつも浮かぶ。
「リリアーナさん」
当直店員が呼んだ。
「会計に、お客様です」
今の私の仕事は、扉の外にある。
私は会議室から離れた。
◇◇◇
客は、明日の朝に出る旅人だった。
「港魚の塩焼き弁当を、予約したい」
「申し訳ありません。港町便が欠航し、明日は用意できない可能性があります」
「可能性?」
在庫も、代替品も、まだ会議中。
「現時点では、海魚が届きません。代わりの商品を午後十一時までに決め、掲示します」
「朝には出る。十一時にまた来られない」
「連絡先をお預かりするか、今ある商品から予約できます」
「何がある?」
私は棚を案内した。
豆と根菜の弁当。
乾燥肉と麦粥。
川魚の商品は、まだ明日の販売分へ確定していない。
「海へ行くのに、魚がない弁当か」
旅人は苦く笑った。
「息子に食わせるって約束したんだ。初めて海を見るから、海の魚を食べながら行こうって」
「……それは、楽しみにされていましたよね」
「豆が悪いわけじゃない。だが、“代わりは豆です”で済む気分でもない」
「はい。私も、そう思います」
欠航は安全のために正しい。だからといって、この人と息子さんの小さな楽しみが消えたことまで、些細にはならない。
「午後十一時までに決定が出たら、宿へ連絡できます。間に合わなければ、今ある豆弁当を確保します。それでもよろしいですか」
「……頼む。息子へは、海が荒れた話もするよ」
「ごめんなさい」
旅人は、豆と根菜を選んだ。
「予約した品が変わるなら、代金は?」
「今夜は受け取りません。商品確定後、受取時に」
未確定の商品を、あるように売らない。
会議へ入れない私にも、目の前で決められることはあった。
◇◇◇
共同板に、最初の照会が届いた。
『一号店、川魚十二箱のうち、通常予約分を除いた販売可能数』
「通常予約、三箱。医療食契約、一箱。品質予備、一箱」
販売可能は七箱。
私は数字を返した。
次の照会。
『海魚弁当予約、変更同意が必要な件数』
二十八件。
連絡先あり、二十二。
店頭確認のみ、六。
ここでも、代替案は書かない。
『川魚使用の場合、表示変更に要する時間』
これは商品研究に関わる質問だった。
「原材料、産地、骨の注意、調理器具の共有表示を更新。二人確認で四十分」
答えたあと、胸が少し軽くなった。
会議に呼ばれなくても、私の知識が不要になったわけではない。
必要な質問が来たとき、担当として答える。
何もかも先回りして決めることと、求められた専門性を渡すことは違った。
◇◇◇
会議は四十五分で終わった。
決定事項は、六つ。
一、高波基準を越えているため、代替船を出さない。
二、港の魚十八箱は氷室へ保管。地元予約と加工へ回し、無理な値下げをしない。
三、一号店と二号店は、手元の川魚を契約分を残して使用する。
四、王都旗艦店は、魚弁当を豆と鶏肉の二種類へ変更。
五、予約客へ変更、返金、別日受取を選べる連絡をする。
六、港野菜と香草は、各地域の冬野菜へ変更。『港町風』の名称は使わない。
「承認をお願いします」
私は手を出した。
あまりにも自然に。
自分でも驚くほど堂々と。
はい、最終承認者リリアーナです! と言わんばかりの手だった。
ミアが首を振る。
「報告です。承認欄はありません」
「……この手、どうすればいい?」
「お下げください」
「そうよね」
そっと膝へ戻した。
会議室の空気が、わずかに緩む。笑っていいのよ。私も半分くらい笑いたい。残り半分は普通に寂しいけれど。
書類の最後を見る。
物流規格、ゼルド。
港保管、共同会社担当。
一号店商品変更、ミア。
二号店、マルクの後任責任者。
旗艦店、セリーナ。
「本当に、私の署名は要らないのね」
「はい」
「一応、“見ました”の印も?」
「閲覧履歴に自動で残ります」
「署名文化まで私を置いていった……!」
「分かった」
分かったはずなのに、手の置き場がなくなった。
◇◇◇
変更連絡を始めた。
予約二十八件。
川魚へ変更、十三。
豆弁当へ変更、六。
返金、五。
別日受取、二。
連絡がつかない二件は、受取時に選べるよう両方を少量残す。
「海魚より、川魚のほうが安いの?」
客が尋ねる。
「原価は少し安いです。販売価格も三銅貨下げます」
「欠航したのに、店が損をしない?」
「港町側の保管費はこちらも分担します。一号店の川魚は通常仕入れなので、原価に合わせます」
「港町の魚は、捨てる?」
「地元販売と加工へ回します。結果は明日公開します」
決定した人の名を、客は聞かなかった。
必要なのは、何が変わり、価格がどうなり、買わない選択があるかだった。
私は一店員として、それを説明した。
大きな判断へ署名しなくても、決まったことを、目の前の一人が選べる言葉へ変える仕事が残っている。
港町側では、欠航した荷の所有責任も整理された。
魚十八箱は、港で船へ載せる前だった。
契約上は、内陸向け運送会社へ引き渡す直前。漁師は約束どおり水揚げし、検品も終えている。
「船が出ないなら、買い取りも中止ですか」
漁師組合から問い合わせが入る。
港町共同会社は、中止しなかった。
予定仕入れ代を支払い、保管と用途変更の費用を危機基金へ申請する。
内陸三店舗は、受け取らない商品の全額を払わない代わりに、予約変更で生じた費用と港の保管費を分担する。
「海が荒れた損を、漁師へ全部戻さないのね」
会計の客が尋ねた。
「はい。契約した魚は、港町共同会社が受け取りました」
「では、魚が売れなかったら?」
「損失は会社と基金が負います。漁師へ返金を求めません」
「店が損をする」
「危険な日に船を出さないための費用です」
欠航を安全な判断にするには、船員へ『出ないなら無収入』と言わないだけでは足りない。
港に残った商品を、作った側へ押し返さない契約が必要だった。
決定書には、欠航一回の処理だけでなく、次回からの標準条項として追加された。
私はその説明を客へ渡し、会計記録には購入商品の情報だけを残した。
◇◇◇
閉店後、会議の検証を行った。
欠航から決定まで、四十五分。
代替船出航、ゼロ。
冷蔵廃棄、現時点ゼロ。
予約変更への苦情、三件。
港町の商品名称を使わない判断は、文化表示規則に適合。
「リリアーナ様へ、決定前に報告すべきだったという意見が一件あります」
アンナが読み上げた。
「誰から?」
「旧本部の事務官です。創業者が後で異議を出せば、やり直しになると」
「憲章上は?」
「創業者に覆す権限はありません」
「なら、改善なし?」
「いえ。新体制を知らない職員が不安になった。権限表の研修が足りません」
創業者へ連絡しないことだけを教えるのではない。
誰が決め、異議をどこへ出せるかを、全員が知る必要がある。
翌日から、役職名ではなく具体的な事例で研修することになった。
◇◇◇
「寂しかったですか」
検証後、アンナが尋ねた。
「ものすごく」
「怒っていますか」
「少し」
「誰に?」
「憲章を作った自分に」
アンナが笑いかけ、やめた。
「笑っていいわよ」
「では、少しだけ」
本当に少し笑った。
「会議へ入れば、もっと良い案を出せたと思う?」
「思う。港魚を塩漬けにする案とか、川魚との食べ比べ企画とか」
「企画会議ではございません」
「分かってる」
「決定に問題は?」
「ないわ」
それが、いちばん寂しかった。
私がいれば、もっと早かったかもしれない。
私なら、もっと面白い案を出せたかもしれない。
そう思いたかった。
でも四十五分で、安全に、契約も客の選択も守る案が出た。私の欠席を埋める穴すら、会議にはなかった。
「あーあ。せめて一個くらい、“リリアーナ様がいないと分かりませんでした”って項目があってもよかったのに」
「それを望まれるのですか」
「望まないわよ! 望まないけど、感情がちょっとだけ駄々をこねてるの!」
「では、駄々はお茶と一緒に聞きます。権限は返しません」
「アンナ、友人になってから遠慮がさらに減ってない?」
「勤務上の忖度がなくなりましたので」
「友人席、思ったより厳しい!」
「私がいなくても決まった。しかも、ちゃんと」
「はい」
「でも今日は、棚の在庫を数えて、お客様へ変更を説明した。役に立たなかったわけじゃない」
「役に立つ範囲が、役職で分かれただけです」
「会議に呼ばれることと、私の価値は同じじゃないのね」
言葉にしてみた。
まだ完全には信じられない。
でも、寂しいと隠さず言えたから、権限を取り返さずに済んだ。
◇◇◇
翌日、港町から結果が届いた。
魚十八箱。
地元予約へ六。
共同店の献立変更で四。
塩漬け加工へ六。
品質予備二。
廃棄ゼロ。
「塩漬け案、出てるじゃない」
私は報告書を見た。
「港町の加工職人トニーからです」
「私がいなくても?」
「トニーさんは、以前から職人です」
ミアの返事は当然だった。
私は笑った。
負けた気もする。
でも、港の魚を最も知る人が決めたのなら、そのほうがいい。
塩漬け商品の試験表示についてだけ、商品研究部へ正式な相談が来た。
予約変更二十八件のうち、翌日までに二十七件が完了した。
残る一件は、連絡先の伝令石が古く、音が届かなかった。受取予定時刻まで、川魚弁当と豆弁当を一つずつ保留し、来店時に選んでもらう。
余った一つは、閉店前の通常棚へ戻す。予約客のために作った分を、善意の名で廃棄しない。
欠航そのものは防げなくても、変更を知らずに来る一人をゼロと数えないことはできた。
今度は、私の会議だった。
「午後二時から。副責任者も一緒に」
「一号店勤務は?」
「午前で終わり。休憩してから行くわ」
自分の役割へ戻る道が、ちゃんとあった。
◇◇◇
その夜、一号店の奥棚を直していた。
扉が閉まりにくく、下の蝶番を締めようとしゃがむ。
頭上で、乾いた音がした。
パラパラと、木の粉が落ちる。
「動かないでください」
建具の点検に来ていたオルフが、私の肩を引いた。
天井近くの梁へ、細い亀裂が走っている。
「表面だけ?」
「触らないで」
オルフが梯子を使わず、下から鏡と灯りで確かめる。
梁の端が黒く変色し、小さな穴がいくつも開いていた。
「腐食と虫害です」
「直せる?」
「店を閉めて、壁を開かなければ分かりません」
「明日の営業は?」
私は、反射的にミアを見る。
ミア店長は、迷わず閉店札を取った。
「安全確認が終わるまで、一号店を休止します」
最初の店を支えた梁が、私たちより先に限界を迎えていた。
私は「でも」と言いかけた。
最初の店。最初の棚。追放された夜、私を初めて店主にしてくれた場所。
閉めたくない、が喉まで出る。
「ミア。明日の朝まで待って、明るいところで再点検は」
「その明日の朝までに、梁が落ちない保証はありません」
「売場の半分だけなら」
「閉鎖区画の振動が、残る側へ伝わります」
「入口販売だけでも……!」
自分の声が、だんだん必死になっていく。
分かっている。危ない。閉めるべきだ。
それでも、この店だけは別だと心が叫んでいた。
「リリアーナ様」
ミアが、店長ではなく昔からの呼び方で私を呼んだ。
「私も、閉めたくありません」
初めて、彼女の声が震えた。
「ここで働き始めた日から、ずっと私の店でもあります。だから、壊れるまで使いたくないんです」
言葉が出なかった。
「閉店作業を始めます」
ミアの声が先に店内へ響いた。
私は唇を結び、胸元の三本の鍵に触れる。そのどれにも、営業を強行する権限はない。
「……リリアーナ店員、入口の案内をお願いできますか」
「はい、店長」
頼もしさは、いつも気持ちのいい形で来るわけではなかった。




