第96話 鍵を分ける
夜明けの星には、鍵が四十七本あった。
一号店の正面扉。
冷蔵箱。
王都旗艦店の金庫。
大型物流センターの管制室。
研究所の食材庫。
共同特許の封印棚。
国境店の人間側と魔族側。
予備鍵も数えると、もっと多い。
「いつの間に、こんなに?」
会議机に並べると、小さな金属の山になった。
ジャララララッ。
ちょっと待って。鍵束というより、もう武器では? これを腰へ下げて歩いたら、魔物より先に私の腰が倒れる。
「私、こんなに管理してたの?」
「正確には、管理したことになっておりました」
「嫌な訂正ね」
「大型センターの管制鍵など、リリアーナ様は保管場所をご存じありません」
「……本当に?」
「三年前に一度、お伝えしました」
「三年前の私、どこに記憶を置いてきたのよ!」
責任者という肩書だけ握り、実際には現場が覚えている。笑いごとではないのに、鍵の山があまりに正直すぎて乾いた笑いが出た。
「増えるたび、最終保管者をリリアーナ様にしてきましたので」
アンナが鍵台帳を開く。
「全部、私が持っているわけではないでしょう」
「現場責任者へ貸与しています。ただし、返却先と再発行承認者は、ほぼすべて創業者です」
鍵を渡したつもりで、貸していただけだった。
「今日は、返してもらう会ではありません」
アンナが言う。
「所有と再発行の権限ごと、分ける会です」
◇◇◇
役職は、私が指名しなかった。
公募要件を作り、本人の同意を取り、評議会のうち利害関係のない委員が審査する。
連合運営代表。
教育責任者。
夜間安全・災害連携責任者。
分散物流規格責任者。
商品・理念研究責任者。
「全員、もう決まっているようなものでは?」
ロウが候補者一覧を見る。
「そう見えても、手続きを省かない」
私は答えた。
「ほかに適任者が応募するかもしれない。本人が、役を受けたくないかもしれない」
「リリアーナ様が頼めば、断りません」
「それが問題なの」
忠誠や恩を、本人の希望と取り違えない。
応募期間は十日。
必要な技能、勤務時間、報酬、任期、停止条件を、役職名より先に公開した。
候補者は、私との関係ではなく、過去の判断記録と計画で評価される。
「創業者も応募するのですか」
ミアが尋ねる。
「ええ。商品・理念研究に」
「落ちる可能性も?」
「あるわ」
「落ちたら、どうしますか」
「一号店で働くわ」
「店員採用にも審査があります」
「そこも!?」
「当然です」
私、もしかして無職になる可能性ある?
王位を捨て、創業者権限を信託へ移し、応募先にも落ちた元王女。字面だけ見ると、ものすごい転落人生である。
でも今度は追放ではない。落ちた理由を聞き、別の仕事へ応募できる。その違いを、私はぎゅっと握った。
口にすると、少し怖かった。
◇◇◇
連合運営代表には、アンナを含む三人が応募した。
ほかは港町共同会社の会計責任者と、王都旗艦店の副責任者。
審査項目は、会議を早く終える力ではない。
地域会社の意見が割れた時の調整。
命令を増やしすぎない管理。
財務公開。
緊急時の権限移行。
自分への異議を扱う方法。
「運営代表になれば、私の補佐ではなくなるわ」
面接前、私はアンナへ言った。
「すでに、補佐だけではございません」
「契約上は、私付きの筆頭補佐でしょう」
「本日、退職届を用意しております」
胸が詰まった。
「待って。今の話、運営代表へ応募する話だったわよね? どうして私、急にアンナを失いかけてるの?」
「失うのではございません」
「勤務として常にそばにいるのをやめるんでしょう。それを今、初めて聞いたのよ!」
声が尖った。
アンナの手にある一枚の紙が、追放命令みたいに見えてしまう。違う。分かっている。それでも胸の古傷は、理屈より早く痛んだ。
「私が役職を手放したから、あなたも離れるの?」
「違います」
「じゃあ、どうして!」
「私が、自分の働き方を選びたいからです」
静かな声だった。
その一言で、私は何も言えなくなった。
私が王宮へ言い続けてきたことを、アンナも私へ言っている。
「辞めるの?」
「個人付き補佐を辞めます。連合運営代表へ選ばれなければ、公開募集されている運用監査職へ応募します」
「私のそばには?」
「勤務として常にいる契約は終えたいと思います」
「嫌だ、と言ったら?」
「退職の自由は、憲章でも保障されております」
「そうよね……。自分で入れたものね……!」
制度が施行初日から創業者の未練へクリティカルヒットしている。
主人の生活を整え、呼ばれれば来る。
その形を、アンナは自分から閉じようとしている。
「友人としては?」
「先日、お望みいただきましたので」
「友人は、退職届で終わらない?」
「終わりません」
「朝、起こしに来なくなる?」
「勤務としては」
「忘れ物を確認してくれない?」
「ご自分でご確認ください」
「お茶は?」
「友人へ毎朝お茶を淹れさせるおつもりですか」
「……駄目ね。今の私、全力で職務を引き戻そうとしてる」
アンナが、ほんの少し笑った。
「寂しいとおっしゃるのは構いません」
「寂しい。すごく寂しいわ」
「私もでございます」
初めて、アンナのほうからそう言った。
退職したいのは、離れたいからではない。その事実が胸へ届くまで、少し時間がかかった。
私は届を受け取り、受領欄へ署名した。
◇◇◇
アンナの面接では、私が審査席を外れた。
長年の雇用主であり、友人でもある。
利益相反だった。
あとで公開議事録を読む。
「創業者と評議会が対立した場合、どちらに従いますか」
『憲章に従います』
「創業者が、憲章は自分の理念と違うと言ったら?」
『変更案を提出していただきます。可決前には従いません』
「運営代表であるあなたが、創業者への個人的忠誠を優先した場合は?」
『解任審査の対象です』
情け容赦のない答えだった。
選考結果は、三人中五票でアンナ。
任期二年。
連続二期まで。
評価は半年ごと。
「おめでとう」
「ありがとうございます」
「今夜、祝う?」
「明日の引き継ぎが終わりましたら、一時間だけ」
「二時間」
「一時間です」
「友人になった初祝いよ?」
「明後日の朝も会議がございます」
「一時間半!」
「一時間十五分」
「交渉成立!」
こんなところまで予定管理が固い。でも、その一時間十五分は仕事ではなく、私たちが選んで会う時間だった。
友人になっても、予定表はアンナのままだった。
◇◇◇
一号店店長と教育責任者には、ミアが別々に応募した。
「一つにまとめないの?」
「店長として優れていても、教えるのが得意とは限りません」
ミアが言う。
「私も、両方を審査してほしいです」
店長審査では、吹雪の閉店記録を提出した。
売上を失った判断。
避難所へ五十八食を出し、治療所中継を残した判断。
休憩が遅れた改善点。
教育責任者の審査では、新人レナの迷子保護記録を使った。
「レナさんが成功したのは、ミアさんの教育の成果ですか」
審査員が尋ねる。
「一部は。でも、手順に子ども用靴下がなかったことを見つけたのは、レナです」
「自分の教材を、部下に直されましたね」
「はい。だから、次の研修はレナと作ります」
ミアは、一号店店長に全会一致。
教育責任者には、六票で選ばれた。
一票は、実務負担が多すぎるという反対。
「二つとも受ける?」
「教育業務は週二日、一号店の副店長勤務を増やす条件なら」
若さを理由に軽くせず、期待を理由に背負わせすぎなかった。
◇◇◇
ロウの役職名は、最初『救援責任者』だった。
「それだと、行く人に見えます」
本人が変えた。
『夜間安全・災害連携責任者』。
出発を命じるだけでなく、中止し、待機し、避難所、警備、医療、家族連絡をつなぐ。
「応募理由は?」
「昔は、自分が行けば役に立てると思ってました」
面接で、ロウは話した。
「今も、最初にそう思う時があります。でも、風速表を読む人、受信石を送る人、待つ家族を止める人が必要だと分かったっす」
「次の吹雪で、友人が取り残されたら?」
「基準を変えません。変えたくなったことは記録します」
「怖くない?」
「怖いっす。行くより、行くなって言うほうが嫌われますから」
救援中止へ反対票を入れた模擬訓練も、隠さず提出した。
ロウは四人の候補から選ばれた。
任期一年。
夜間当番は週三回まで。
災害がない日も、休息、避難訓練、家族待機所を整える仕事になった。
◇◇◇
ゼルドの役職からは、『中央』という言葉を外した。
「中央物流責任者、では駄目ですか」
審査員が尋ねる。
「駄目です」
ゼルドが答えた。
「大型センターの役職ではなく、地域ハブが互いに引き継げる規格の責任者になります」
品名、数量、温度履歴、封印番号、引き継ぎ時刻、異常連絡先。
六項目の共通規格。
中央依存を四十パーセント以下へ下げる目標。
どの地域も、医療・避難用品に二経路を持つ計画。
「大型センター長は、誰が?」
「現場選考で別に置きます。私はセンター長の上司ではありません」
「規格へ従わないハブがあれば?」
「私が命令するのではなく、引き継ぎを保留し、理由を共同板へ出す。相手側も異議を出せます」
ゼルドは、分散物流規格責任者へ選ばれた。
大型センターの金色の鍵を、次のセンター長へ渡す。
「寂しい?」
「ものすごく」
「もっと平気そうに言うと思った」
「平気ではありません。あの管制室を作るため、三十七日泊まり込みました。鍵の傷の位置まで覚えています」
「なら、どうして絶対に嫌なの?」
「寂しいから返してもらえば、次のセンター長は永遠に仮の人です。私自身も、手放したふりを続けることになる」
ゼルドは鍵を見つめ、眉間へ深い皺を寄せた。
「今夜だけは、酒を飲んで愚痴ります」
「付き合うわ」
「運営代表の許可が必要です」
「そこまで管理されるの!?」
「勤務前日の飲酒量だけです」
「返してもらう?」
「絶対に嫌です」
寂しさと決定を、同じにしなかった。
◇◇◇
国境共同会社では、私たちの連合人事とは別に採決が行われた。
ザイン側、一票。
夜明けの星本部側、一票。
従業員代表、一票。
店長にはザイン。
リリスは商品表示と文化照会。
マルクは人間国側の雇用・安全責任者。
「リリアーナ様の承認は?」
ザインが尋ねる。
「要らないわ。連合評議会へ、役職と安全連絡先を報告して」
「不満でも?」
「異議は出せる。でも、覆せない」
従業員代表のミレナは、マルクへ条件を付けた。
「帰路警備の監査を、店長会議より先に報告してください」
「分かりました」
「ザイン店長にも。同じです」
「承知しました」
二つの看板を持つ店の鍵は、三票で選ばれた人たちへ残った。
共同店を始めた私とザインが握手した日から、半年以上。
もう、私たち二人だけの合意で動く店ではなかった。
◇◇◇
商品・理念研究責任者には、私を含む二人が応募した。
もう一人は、異文化メニュー研究所の若い研究員。
「創業者だから選ばれるのは、嫌です」
面接で私は言った。
「では、実績を」
失敗も出した。
自動鍋を『自動調理』と呼び、職人を不安にした。
文化顧問へ『地域代表』を求め、アイーシャに止められた。
表示図形が逆に伝わった。
「強みは?」
「失敗を、店頭の規則へ変えてきたこと。前世の知識を完成品ではなく、試す仮説として出せること」
「この役職に、全店の商品命令権はありません」
「分かっています。提案、試作、安全・文化照会、結果公開まで。採用は各地域会社です」
「不採用でも?」
「何度も別名で出さないよう、理由を記録します」
私は五票で選ばれた。
若い研究員は四票。
「両方選ぶのは?」
審査員が言う。
役職を一人へ集めないため、私が責任者、研究員が副責任者になった。
任期一年。再任審査あり。
◇◇◇
私は、もう一つ希望を出した。
「一号店の店員として、週二回働きたい」
ミア店長が勤務表を見る。
「研究責任者の勤務と合わせて、週の上限を越えませんか」
「越えないように減らす」
「店員としては、私の指示に従えますか」
「努力します」
「努力では困ります」
「従います」
「急に新商品を棚へ置きませんか」
「置きません」
「休憩を飛ばしませんか」
「……飛ばしません」
ミアは、私を一号店の非常勤店員として採用した。
職務は、会計、品出し、清掃、簡単な温め、客の案内。
店長権限なし。
「採用されて、よろしかったですね」
アンナが言う。
「商品責任者より、こっちの結果のほうが緊張したわ」
◇◇◇
役職受諾書へ署名する段階で、全員が一度止まった。
「正直に言うと、怖いっす」
ロウが受諾書を持ったまま言う。
「何が?」
「俺たちが役職を取ったら、リリアーナ様から仕事を奪うみたいで」
ミアもうなずいた。
「一号店は、リリアーナ様が始めた店です。正式店長と書くたび、追い出しているような気持ちになりました」
「私は、大型センターを手放した時に似ています」
ゼルドが言う。
「今度は、リリアーナ様へ同じ寂しさを渡す側です」
皆が役を受けにくかった理由は、自信がないからだけではなかった。
私を捨てる人になりたくなかったのだ。
「私は、寂しいわ」
隠さず答えた。
「なら、やっぱり」
「でも、受けないでほしいとは言わない」
「本音を言えば、全員が『やっぱりリリアーナ様にお願いします』って紙を返してくれたら、一瞬は嬉しいと思う」
皆の顔が揺れた。
「でも、その一瞬の安心のために、皆の決意を折ったら、私はまた全部の鍵を握る。忙しいって愚痴りながら、誰にも任せられないって勝手に苦しくなる。そんなの、もう嫌よ」
「寂しくなくなる日は、来るでしょうか」
ミアが聞いた。
「分からない。たぶん、鍵を渡した日を思い出すたび、少し寂しいわ」
私は正直に答えた。
「でも、寂しさは命令じゃない。私が寂しいからって、あなたたちが自分の仕事を諦める必要はないの」
私は一人ずつの受諾書を見た。
「皆が私の仕事を奪うのではなく、その仕事が最初から私一人のものではなかったと、形にするの」
「リリアーナ様を、必要としなくなるわけではありません」
ミアが言う。
「その言葉だけで受けるなら、また私を安心させるための役職になる」
少し厳しく返した。
「私を必要とするかではなく、その仕事を引き受けたいかで決めて」
ロウが自分の受諾書を読み直す。
「夜の救援で、行く人も待つ人も帰れる仕組みを作りたいっす」
「なら、署名して」
ロウが最初に書いた。
ゼルドは、中央依存四十パーセント以下を実現したいと確認して署名。
ミアは、新人が自分より良い手順を作れる教育を続けたいと書き足して署名。
アンナは、私ではなく憲章へ従うと改めて宣誓した。
「寂しいと言われても、受けます」
「ええ」
「反対されても?」
「それは、少し相談して」
皆が笑った。
役を引き受けることは、私から離れる宣言ではない。
そして、そばにいる証明でもない。
一人ずつが、自分の仕事へ責任を持つ契約だった。
◇◇◇
鍵の引き渡し式は、小さく行った。
大型センター管制鍵は、新センター長へ。
連合の印箱は、アンナと監査担当へ二分。
教育資料庫は、ミアと副責任者へ。
災害連絡室は、ロウと交代当直へ。
物流規格の原本庫は、ゼルドと地域ハブ代表へ。
研究所の食材庫は、私と副責任者へ。
一人で開けられない鍵は、二つの異なる役職へ分けた。
「四十七本、全部?」
「三本、残っています」
アンナが示した。
一号店正面扉の店員用鍵。
私物棚。
自宅の鍵。
「正面扉は、店長用ではないのね」
「店員用です。開店判断はミア店長が行います」
私は三本を受け取った。
以前より、ずっと軽い鍵束だった。
でも、手の中が空になったわけではない。
自分の暮らしと、自分が担当する扉の鍵は残っていた。
その夜、権限移行後の最初の緊急連絡が入った。
『港町便、沖合の高波により欠航。生鮮品四十箱、到着せず』
全員が、一瞬だけ私を見た。
私は口を開く前に、ミアが伝令石を取った。
「新しい担当者会議を招集します。リリアーナ店員は、一号店の在庫確認をお願いします」
「私を、会議に呼ばないの?」
「商品研究の議題ではありません」
バッサリ。
「せめて傍聴は?」
「緊急会議です」
「議事録を一番に読ませて」
「公開順は全員同じです」
「元創業者特典!」
「現創業者ですが、その特典は憲章にございません」
「憲章、仕事が早すぎない!?」
鍵束より先に、私の未練が切り落とされた。
「……はい。在庫、数えてきます」
鍵を分けた最初の日。
私は、自分の店の緊急会議から外れることになった。
廊下を三歩進んでから、腰の鍵束がほとんど鳴らないことに気づく。
少し寂しい。ものすごく気になる。扉へ耳をくっつけたい。いや駄目よ、元王女が会議室へ聞き耳って、絵面が完全に不審者だわ!
私はどうにか振り返らず、任された在庫棚へ向かった。




