第98話 最初の店を壊す日
「一号店を、休止します」
ミア店長は、梁を見上げたまま命じた。
「今夜だけ?」
「安全確認が終わるまでです」
「“終わるまで”って、明日の朝? 昼? まさか何日も?」
「確認前には答えられません」
「でも、一号店よ」
何を言っているの、私。
一号店なら梁が落ちないの? 思い出が虫を説得して、腐食を止めてくれるの?
分かっているのに、言葉が止まらない。
「最初の店なの。ここを閉めたら、私たちの始まりまで消えるみたいで……!」
「消えません」
ミアが、きっぱりと言った。
「閉店札一枚で消えるような始まりではありません」
「亀裂は一本でしょう。下へ支柱を入れれば」
オルフが私を止めた。
「梁に触らないでください」
「触ってないわ」
「支柱を入れる振動でも、木粉が落ちています」
天井近くの黒い変色。
小さな虫穴。
乾いた木粉。
追放された翌日、この廃屋を見つけたときも、壁は傾き、屋根は雨漏りしていた。
皆で直した。
床を磨き、棚を作り、最初の灯りをつけた。
「閉めたら、夜の客が困る」
「開けて梁が落ちたら、もっと困ります」
「正論ばっかり……!」
悔しくて、唇を噛んだ。
「はい。今夜は正論で閉めます。リリアーナ様が明日、私を嫌いになっても」
「嫌いになんてならないわよ!」
声が裏返った。
「閉めたくないだけ。正しいって分かってるから、余計に閉めたくないの!」
ミアの声は震えていない。
私は一号店の非常勤店員として、閉店札を入口へ出した。
◇◇◇
翌朝、建物全体を調べた。
壁を壊す前に、外から使える方法をすべて試す。
細い鏡。
音の反響を測る木槌。
湿気を読む試験紙。
虫の食べた粉の採取。
結果は、一本の梁だけではなかった。
「北壁の柱二本、床下の根太六本、屋根支え三か所」
オルフが平面図へ赤を入れる。
「全部、腐っているの?」
「疑いです。壁と床を開かなければ、深さは分かりません」
「魔法で固めることは?」
「表面だけならできます」
魔導建築師マックスが首を振った。
「中が空洞の木を固めれば、見た目だけ強い柱になります。次に折れる場所が分からなくなる」
「金属の枠を外から?」
「腐食した木の荷重を、どこへ逃がしますか」
「新しい柱へ」
「新しい柱を立てる基礎も、床下を開かなければ確認できません」
「じゃあ、柱の周りだけ床を開けて」
「荷重の流れは一か所ではありません」
「壁紙だけ剥がすとか」
「壁紙は構造を支えていません」
「分かってるわよ! 何か、壊さずに済む案を出してほしいの!」
ついに叫んでしまった。
オルフは怒らず、木槌を下ろした。
「壊したくない、という希望なら聞けます。でも、“壊さず安全に使える”という嘘は出せません」
優しい慰めより、その言葉のほうが痛かった。
提案するたび、壁を壊さずに済む道を探していた。
安全な案を探しているのではない。
思い出を失わない案だけを探していた。
◇◇◇
選択肢は三つだった。
一、外部補強だけで、客数を半分にして再開。費用は少ないが、隠れた腐食を確認できない。
二、建物を閉鎖保存し、別の場所へ新店舗を建てる。
三、営業を止め、壁と床を解体。使える部材を残し、基礎と構造を作り直す。
「二番なら、建物は残るわ」
「人を入れない記念施設としてなら」
オルフが答えた。
「見学は?」
「外からだけです。倒壊範囲を柵で囲います」
「店なのに、誰も入れない」
「建物を残すことが目的なら」
言葉が痛かった。
一号店を博物館にし、新しい店を隣へ作る。
追放王女の原点として、外から眺めてもらう。
物語としては美しい。
でも、夜に腹を空かせた人は、思い出の壁では温まれない。
「三番を、詳しく」
解体して、調べる。
使える柱、看板、会計台、棚、扉を番号で残す。
腐食部材は構造へ戻さない。
建物の形と動線は、現在の安全基準に合わせて変える。
残すために壊す案だった。
◇◇◇
建物は連合直営店舗会社の資産になっている。
だから、私一人で決められない。
ミア店長、従業員代表、建築安全担当、地域利用者、会社財務、文化記録担当。
六者で決定会議を開いた。
「創業者としての意見は?」
司会が私へ尋ねる。
「できるだけ、今の形を残したい」
「非常勤店員としては?」
「安全な店で働きたい」
「商品研究責任者としては?」
「店舗構造は、担当外です」
同じ私でも、立場ごとに答えが違う。
採決に持つ票は、直営会社選出の一票ではなく、文化記録への助言だけ。私は議決委員ではなかった。
「三番、解体改修に賛成です」
ミアが最初に票を入れた。
「ミア」
呼び止める声に、責める響きが混じった。
彼女は私を見た。苦しそうだった。それでも票を戻さない。
「私だって、この床で何度転んだか分かりません。最初の会計を間違えて、泣いたのもここです。残したいです」
「だったら――」
「だから、安全に戻ってきたいんです!」
ミアの声が、初めて会議室へ強く響いた。
「思い出があるから、潰れるまで使い切るなんて嫌です。私は、この店の次の十年も店長でいたい!」
胸の奥へ、真っ直ぐ刺さった。
「……ごめんなさい。あなたも辛いのに、私だけが大事にしてるみたいに言った」
「はい。少し腹が立ちました」
「そこは正直なのね」
「店長ですから」
従業員代表も、建築安全も、利用者も賛成。
財務担当だけが、新築移転のほうが一割安いとして反対した。
五票中四票で、解体改修が決まった。
「私の希望を、入れてくれた?」
「文化的価値を残す費用上限を、事前に決めました」
ミアが答える。
「思い出だから、いくらでも使うわけではありません」
店長の言葉だった。
◇◇◇
改修中の営業は、村役場の空き集会室を使うことになった。
仮設店の広さは、一号店の七割。
冷蔵箱は二台まで。
厨房は、加熱調理が一鍋だけ。
「商品を半分に絞ります」
ミアが発注表を作る。
夜勤者向けの温食。
保存食。
衛生用品。
冬の生活用品。
人気でも、装飾の多い菓子と、大型設備が必要な商品は一時休止。
「一号店らしさが減る」
私は棚図を見る。
「一号店らしさは、品数ですか」
「違うけど」
「仮設店で守る機能を先に選びました」
営業時間は、通常どおり午前零時から四時。
働く人の休憩も、賃金も変えない。
工事による客数減は会社が負担し、勤務を削らない。
建物を直す費用を、店員の収入から取らなかった。
「仮設店長は?」
「私です」
「私が手伝えることは?」
「店員として、棚札を作ってください」
改修も、仮設営業も、ミアの店だった。
◇◇◇
解体前に、村の人たちへ記録会を開いた。
何を残したいか。
何が使いにくかったか。
思い出だけでなく、不便も聞く。
「入口の段差」
ゲルハルトが杖で床を示す。
「昔から、車輪付き椅子だと一人で越えられん」
「仮の板を置いていたでしょう」
「雨の日に滑る」
「どうして、もっと早く言わなかったの?」
「店の古い形を、大事にしていると思ったからな」
「そんな……言ってくれれば直したのに!」
「言いにくかったんじゃ。お前さんが、その段差を見て“最初の店のままね”と嬉しそうに笑っとったから」
覚えている。
何度も言った。ここだけは昔のまま、と。
私の笑顔が、ゲルハルトの不便へ蓋をしていた。
「大切にしたかっただけなの」
「分かっとる。だから、わしも黙ってしもうた。どちらか一人の悪さじゃない」
「でも、次は言って。私が泣いても、言って」
「今も泣きそうじゃぞ」
「泣くわよ! でも直すから!」
私が残したかった物が、客に不便を言わせなくしていた。
母親は、子どもの目線に商品名がないと話した。
夜勤者は、濡れた外套を掛ける場所が狭いと言う。
店員は、奥棚から避難口までの通路が一人分しかなく、荷物と人がすれ違えないと記録した。
「同じ形へ戻さないでください」
ミアが建築図へ書く。
「残す部材は残す。でも、昔の不便まで復元しません」
王都の文化新聞から来た記者は、別の希望を出した。
「創業当時の店内を、一角だけ完全再現できませんか」
「完全に?」
「狭い通路、最初の棚、古い値札。追放王女が始めた時代を、訪問者が体験できます」
聞いた瞬間、心が動いた。
私も見たい。
最初の夜の棚。
手書きの値札。
まだ数種類しかなかった温食。
「その一角は、店として使いますか」
ミアが尋ねる。
「展示です。客が歩けるように」
「狭い通路を、わざと作るのですか」
「当時の雰囲気ですから」
ゲルハルトが杖を床へ鳴らした。
「わしは、その体験とやらへ入れんの」
「車輪付き椅子の方には、外から見られる窓を」
「入れない昔を、もう一度作って、外から見ろと言うのか」
記者が言葉を失った。
完全再現という言葉は、誰の記憶を完全と呼ぶのだろう。
立って歩けた私の記憶。
狭い通路ですれ違えなかった店員の記憶。
段差で一人では入れなかった客の記憶。
「再現展示は作りません」
私は答えた。
「写真と平面図、残した部材、当時困ったことを、一枚の歴史板にします」
「困ったことまで?」
「成功した棚だけを復元すれば、昔の店は最初から完成していたように見える」
文化記録担当が、歴史板の案を作った。
左側に、最初の店の図。
右側に、改修後の図。
入口幅、通路幅、避難口、会計台の高さを並べる。
中央には、こう書く。
『この店は、壊れた廃屋から始まった。直しながら使い、不便を見つけ、もう一度壊して作り直した』
「観光客には、地味では?」
記者がまだ迷っている。
「店は、観光客のためだけに開くのではありません」
「派手な物語が必要なのです。“追放王女、奇跡の第一号店”。人はそこへ来ます」
「奇跡じゃないわ」
私は記者を見た。
「雨漏りを直して、品切れして、表示を間違えて、段差を見落として。それでも皆に言われて直してきた。そこを削ったら、この店は私一人が魔法みたいに成功させた嘘になる」
「しかし、記事としては」
「地味で結構。失敗を消してキラキラさせるために、最初の店を残すんじゃない」
ミアが答えた。
「買物する人が、今夜も安全に通れるほうが大事です」
昔を尊ぶために、昔の排除まで保存しない。
それも、最初の店から次の店へ渡す記憶になった。
会計台の位置も、入口の幅も、変えることになった。
◇◇◇
残したい物の希望は、百二十七件集まった。
一番多いのは、夜明けの星の古い看板。
二番目、会計台。
三番目、最初の鐘。
ほかに、壁の傷、棚の番号、開店日の焦げ跡、ミアが背丈を測った柱。
「全部、残せないわね」
文化記録担当が分類した。
現物を再利用する。
一部を切り取り、記録板へ保存する。
写真と測定だけ残す。
文章で記録する。
安全上、処分する。
「ミアの背丈の柱は?」
虫害がない。
ただし、新しい構造柱には強度不足。
「荷重を支えない内装柱として使えます」
オルフが言う。
「会計台は?」
「天板を削り、脚を補強すれば」
「焦げ跡も、削れる?」
「そこだけ薄く残せます。ただし、衛生上、透明保護板を付けます」
思い出をそのまま使うのではない。
次の人が安全に触れられる形へ、手を加えて残す。
◇◇◇
解体の日、店の前に人が集まった。
見世物にしないため、作業柵の外から。人数を区切り、ヘルメットと説明札を用意する。
「式典をするの?」
「しません」
ミアが答える。
「安全作業です。鐘も、挨拶もありません」
最初に外したのは、看板だった。
オルフと職人二人が、裏の留め具を一本ずつ外す。
星の板が、壁から離れる。
そこだけ色の違う四角が残った。
「落ちないで」
思わず言う。
「保持索があります」
「分かってる。でも、言わせて」
看板が壁から離れた瞬間、胸の中で何かまでメリッと剥がれた。
追放された私が、初めて自分で掲げた名前。
誰にも認められなくても、ここで店主だと名乗っていいと教えてくれた星。
「絶対、戻ってきてね」
板へ話しかける私を、誰も笑わなかった。
看板はゆっくり下り、布の台へ置かれた。
次に、棚。
会計台。
鐘。
番号札を付け、仮保管庫へ運ぶ。
店の中から、店だった物が一つずつ消えていく。
ガコン。
ギィィ……。
木槌の音がするたび、最初の夜の音が重なった。
棚を組んだ音。鍋を落とした音。初めて扉の鐘が鳴った音。
「こんなの、聞いていられない」
逃げたい。
でも、見届けたい。
私は柵を両手で握り、涙を拭かずに立っていた。
私は、最後まで作業柵を越えなかった。
◇◇◇
壁を開くと、腐食は予想より深かった。
北壁の内部に、昔の雨漏り跡。
断熱材の一部が黒く、虫の巣が広がっている。
「外部補強で再開していたら?」
私が尋ねる。
「今冬中に落ちたとは断定できません」
オルフが答える。
「でも、次の大雪で荷重が増えれば、北壁と梁が同時に動いた可能性があります」
「誰もけがしなかったかもしれない」
「かもしれません」
「壊さなくても、持ったかもしれない」
「そうです」
結果は、永遠に分からない。
だから、壊した判断が正しかったと証明する倒壊事故は起きない。
「事故が起きなかったから、やりすぎだったと言われますか」
「言う人はいます」
「オルフは?」
「人を入れたまま、見えない腐食へ賭けなくてよかったと思います」
私は、黒い柱を見た。
この柱が折れなかったことへ感謝し、次も支えさせない。
長く働いた物を休ませることも、残す方法の一つだった。
◇◇◇
安全に使えない部材は、すぐ燃やさなかった。
虫害を広げない処理をし、材種、場所、損傷原因を記録する。
一部は建築研修の見本へ。
一部は、感染拡大のない条件で処分。
「記念品として配れませんか」
住民から希望が出た。
「虫害材は渡せません」
「小さく切って、熱処理すれば?」
「構造材としては使えなくても、封印した記録片なら可能です」
オルフが条件を出す。
記録片は、販売しない。
抽選で配らない。
店内の歴史板へ、一本だけ封じる。
残りは処分する。
「全部を残さないの?」
「残すために、また倉庫が必要になります」
ミアが答えた。
思い出は、数が多いほど大切になるわけではない。
一本を選び、なぜ処分したかまで記録する。
捨てた物を、忘れた物にしなかった。
◇◇◇
改修には、六週間かかった。
新しい基礎。
補強された梁。
広い入口。
滑らない緩い傾斜路。
すれ違える作業通路。
子どもと大人、二つの高さの表示。
古い看板は、修復して入口へ戻した。
会計台は、天板を残し、車輪付き椅子でも使える低い部分を足した。
最初の鐘も、扉についた。
ミアの背丈の柱は、客席の端で荷重を持たない記録柱になった。
「前と、違う」
完成前の店内で、私は言った。
「同じには戻しませんでした」
「分かってる。分かってるけど……やっぱり、少し寂しい」
新しい床を、一歩踏む。
軋まない。
古い床の音が好きだった。けれど、軋みを“味”と呼んで、危険まで懐かしむわけにはいかない。
「でも、歩きやすい」
ゲルハルトが傾斜路を一人で上がってくる。
「今度は、板を誰かに置いてもらわんでいい」
その笑顔を見た瞬間、寂しさの隣へ、じわりと嬉しさが座った。
オルフが答える。
「でも、看板はある」
「会計台も、鐘も」
古い店を保存したのではない。
古い店の一部を使って、次の店を作った。
それは、過去の自分を消すこととは違った。
◇◇◇
開店前夜、仮設店は最後の営業を迎えた。
商品は、ほとんど新店舗へ移している。
棚に残るのは、乾燥スープ、豆の煮込み、パン、衛生用品が少し。
「午前三時半で販売終了。四時から仮設棚を撤去します」
ミア店長が指示する。
「新店舗の開店は、仮設店を閉めた日の午前零時よね」
「はい。閉店から二十時間後です」
「分かってるわ」
「お顔が、すぐ開けたそうでしたので」
私は最後の品出しをした。
閉店まで、あと二十分。
扉の鐘が鳴る。
雪の道から、見覚えのない若い旅人が入ってきた。
薄い外套。
小さな鞄。
行き先を尋ねる前から、行く場所が決まっていない顔をしていた。
「まだ、買えますか」
「はい」
考えるより先に答えていた。
ああ、これだ。
壁の位置が変わっても、梁が新しくなっても、私が守りたかった一号店は、この一言の中にちゃんと残っている。
私は一店員として答えた。
「残っている物は少ないですが、必要な物を一緒に探します」
旅人がほっと息を吐き、扉が背後で閉じる。
カラン、コロン。
古い鐘は、仮設店でも同じ少し間の抜けた音を鳴らした。
壁も梁も壊して作り直せる。
けれど、行き先のない人へ「まだ買えます」と答えることだけは、最初の夜から変えなくてよかった。




