第94話 赦しは褒美ではない
『ローラン元王子、全面赦免を請求』
「はああああっ!?」
一号店の朝へ、私の声が盛大に響いた。
パンを並べていた店員がビクッと跳ね、危うく籠を落としかける。
「ご、ごめんなさい。パンは悪くないわ。悪いのはこの見出しよ!」
バンッ、と新聞を会計台へ置く。
全面赦免? いつ、誰が、どこで、そんな話をしたのよ!
弟が一つ働けば美談。私が一言礼を言えば家族再生。世間は本当に、王家を都合のいい連続劇にするのが大好きらしい。
新聞の見出しの下には、弟の古い肖像画が載っていた。
王子の礼装。
胸には王家の徽章。
現在の居住地も、監督下で働く姿もない。
「申請書を読みます」
私は新聞を畳んだ。
司法庁から取り寄せた公開文書は、十二頁。
申請者、監督官マティアス。
対象者、ローラン・アルベルト。
申請内容、『居住地域内での事務補助業務の範囲拡大、および有給雇用への移行』。
「赦免という言葉は?」
「一度もありません」
「一文字も?」
「“免”の字は、免税記録という別項目に一度ございます」
「そこまで違うの!?」
もはや誇張ですらない。十二頁の書類を丸めて、別の物語へ錬金している。
アンナが全文を確認する。
「王位継承権の回復、王都入都禁止の解除、自由移動、財産返還も?」
「申請されておりません」
新聞は、小さな勤務変更を、王家の家族再生へ作り替えていた。
「訂正を求める」
その前に、私は申請が本当に本人の望むものかを確かめた。
◇◇◇
監督官マティアスの申請理由は、具体的だった。
ローランは六か月間、週三日、地域役場の旧台帳整理を補助した。
王室備蓄庫の欠落を見つけたのも、その作業の中だった。
遅刻二回。
無断欠勤ゼロ。
閲覧禁止文書への接触ゼロ。
監督規則違反ゼロ。
訂正した台帳、四百八十二件。
誤分類、七件。すべて監督者の確認で公開前に修正。
「無償で働いていたの?」
「現在は、処分計画の公共奉仕枠です」
「六か月も?」
胸の奥が、ざらりと揺れた。
かわいそう、とは簡単に思いたくない。弟がしたことは消えない。
でも、必要な仕事を週五日へ増やしながら、「罰を受けているから」で賃金を払わないのは違う。嫌いな相手へなら何をしても正義、なんて話にはしたくなかった。
法官が説明する。
「食事と住居は保障されていますが、賃金はありません」
「有給にすることが、処分を軽くする?」
「労働の範囲を広げるなら、無償のままでは強制労働に近づきます」
監督官の申請は、弟を褒めるためだけではなかった。
役場側が、台帳整理を週五日に増やしたいと求めた。
なら、通常の事務補助と同じ賃金を払うべきだという申請だった。
「ローラン本人の意見は?」
添付文書を開く。
『有給雇用へ同意する。特別な王族手当は求めない。勤務範囲の拡大が、継承権または移動制限の変更を意味しないことを理解する』
全面赦免は、本人も求めていなかった。
◇◇◇
それでも、裁判所は自動的に認めなかった。
問題は三つ。
公文書へ触れること。
有給職が、政治活動の資金になる可能性。
元王子という立場で、役場の同僚へ圧力が生まれること。
「台帳に、国家機密はありますか」
審査官が役場へ尋ねる。
「災害備蓄、土地境界、過去の税記録が含まれます」
「単独閲覧させますか」
「現在も、監督者が同席しています」
「有給化後も?」
「はい。ただし、毎時間見張る形ではなく、閲覧範囲を日ごとに封印し、作業後に照合します」
同僚二人の匿名意見も提出された。
一人は、ローランが元王子だから断りにくいと書いた。
もう一人は、処分対象者だから話しかけること自体を避けてしまうと書いた。
「本人が命令していなくても、立場で圧力が出ています」
審査官が言う。
「では、どうするの?」
私は傍聴席で考えた。
称号を取り上げても、人の記憶から王子だった事実は消えない。
同僚が拒否や異議を出せる窓口を、ローランの監督官とは別に置くことになった。
◇◇◇
役場の同僚二人は、非公開の人事聴聞にも参加した。
名前は裁判記録へ出さず、発言内容だけを審査官が確認する。
「ローランさんが間違えた数字を直した時、『殿下の書いた物へ勝手に触れた』と言われるのが怖かったです」
一人が話した。
「本人に言われたのですか」
「いいえ。周りに、元王子へ失礼だと思われるのが」
もう一人は、逆の不安を持っていた。
「私は普通に昼食へ誘いました。すると、処分された人と親しくするのかと、家族に責められました」
「本人の仕事ぶりは?」
「速いです。でも、自分で全部直そうとして、確認印を飛ばしかけたことが二度あります」
「注意したとき、どんな反応でしたか」
「最初は、『内容は正しい』と」
ああ。
思わず額を押さえた。ローラン、そういうところよ。本当に、そういうところ!
「二度目は?」
「『正しくても手順を飛ばせば、ほかの人が正しさを確認できない』と自分から言って、戻しました」
……少しは、変わったのかもしれない。
そう思った自分へ、期待するなと釘を刺す声もあった。
「台帳の誤分類七件とは別?」
「別です。公開前に止めました」
監督報告にはなかった。
重大違反でないため、口頭注意だけで終わっていたという。
「有給化するなら、勤務評価へ入れてください」
同僚が言った。
「元王子だから隠すのも、処分中だから必要以上に悪く書くのも困ります」
役場は、新しい勤務規則を出した。
職場では『殿下』を使わず、全員を氏名または担当名で呼ぶ。
ローランの作業にも、通常の二重確認を適用する。
誤り、改善、休暇、残業を同じ人事様式へ記録する。
同僚が監督官を通さず、人事担当へ相談できる。
「ローラン本人は、通常評価へ同意していますか」
審査官が伝令鏡越しに尋ねる。
「はい」
「低い評価で、契約更新されない場合も?」
「受け入れます。処分が終わるまで仕事を保証されるとは考えていません」
「逆に、働けなくなったら住居と食事まで失いますか」
「それは困ります」
監督官が答えた。
処分上の最低生活保障と、雇用契約を分けることになった。
仕事で評価が低くても、住居と食事を罰として奪わない。
仕事が良くても、継承権を褒美として戻さない。
暮らし、雇用、処分を、一つの鎖にしない設計だった。
◇◇◇
私にも、意見照会が届いた。
『対象者の勤務範囲拡大について、被害関係者として意見を提出できます』
提出は任意。
返答しなくても、不利益なし。
「何と書きますか」
アンナが尋ねる。
「書かない」
「賛成も、反対も?」
「しない」
「本当は、何と書きたいのでございますか」
アンナの問いに、私は黙った。
「……腹が立ってる。今さら真面目に働いて、それで少しずつ普通の暮らしへ近づく弟に。よかったと思う気持ちもある。そんな自分にも腹が立つ」
「はい」
「許してない。顔を見たら、追放の日のことを怒鳴るかもしれない。でも、だからって無給で働けとも、食事を減らせとも思わない。もう、ぐちゃぐちゃよ!」
「では、そのぐちゃぐちゃを判決の物差しへしないために、書かないのですね」
「ええ。私の感情は私のもの。弟の時給表に貼りつけない」
ローランが働けるかは、監督記録、仕事内容、再発防止、同僚の安全で決めるべきだ。
私が弟を許せるかで、賃金を受け取れるかが変わってはいけない。
「被害を受けた人の声を、司法から外すの?」
「外さない。でも、私は追放に関する被害の意見なら出せる。台帳整理の技能までは判断できない」
意見照会には、辞退理由を一行だけ返した。
『個人的赦しの有無を、対象者の就労能力および処分条件の法的評価へ用いることを望まないため、意見を提出しない』
赦すと言えば、褒美が増える。
赦さないと言えば、働く道が閉じる。
その仕組みなら、司法が私へ赦しを強制するのと同じだった。
◇◇◇
審理では、ローラン本人も遠隔出席した。
王都へ入ることは禁止されているため、居住地の法廷から伝令鏡を使う。
「全面赦免を求めていますか」
審査官が最初に確認した。
「求めていません」
「継承権の回復は?」
「求めません」
「入都禁止の解除は?」
「今回の申請には含めません」
「姉リリアーナ・フィオーレ氏から、謝意または赦しを得たことを、申請理由に使いますか」
ローランは、一瞬黙った。
「使いません。姉から私的な返答は受けていません」
姉。
その一文字に、胸がギュッと縮んだ。
王族だった頃には何度も呼ばれた。なのに今は、遠い国の言葉みたいに聞こえる。
弟は一瞬だけ伝令鏡のこちらを見た。
目が合った――気がした。
けれど、何も言わない。
私も何も言わなかった。
話しかけないことが、今この場で守れるぎりぎりの距離だった。
私は傍聴席にいる。
伝令鏡は法廷全体を映しているから、弟も私に気づいたかもしれない。
それでも、こちらを見て話しかけなかった。
「備蓄庫情報の功績を、処分軽減へ求めますか」
「功績として記録されたことで十分です。処分変更の対価には求めません」
「姉君へ、礼を求めますか」
「求めません」
即答だった。
「姉が私へ何を感じるかは、姉の権利です。私が良いことを一つしたからと、返答を請求できません」
誰から教わったのだろう。
少なくとも昔のローランなら、そんな言葉は言わなかった。
良い行為をしたから、昔のことを許してもらう。
その交換を、弟自身も拒んだ。
◇◇◇
検察側は、勤務拡大へ慎重だった。
「台帳は、土地と備蓄の情報です。政治的支持者へ流せば、影響は大きい」
「現在も触れています」
弁護人が答える。
「週三日を五日にすることで、情報量が増える」
「なら、情報区分と監査を強めるべきです。無給だから安全、有給だから危険という根拠はありません」
「賃金が、支持者との連絡資金に使われる」
「通常賃金を得る人すべてに、使途報告を求めますか」
審査官は、政治献金だけを制限する案を出した。
処分期間中、王位・選挙・政党活動への寄付は不可。
生活費、書籍、衣類、家族への通常の贈与は、一般人と同じ自由を持つ。
「監督官が、買う物まで許可するの?」
私は小声でアンナへ聞いた。
「それでは、賃金というより小遣いでございます」
裁判所も同じ結論だった。
処分に必要な制限と、人として残る自由を分ける。
弟を自由にしすぎないためだけに、意味のない支配を増やさなかった。
◇◇◇
判決は、全面赦免ではなかった。
一、王位継承権停止を維持。
二、王都への自由入都禁止を維持。司法召喚、国家緊急時、医療上の必要がある場合のみ、護送と事前許可で可能。
三、居住地域外への移動は、監督計画の範囲に限る。
四、地域役場の事務補助として、週五日、一日六時間以内の有給雇用を許可。
五、賃金は同職種の基準額。王族手当なし。税と社会負担を通常どおり支払う。
六、公印の単独使用、予算決裁、機密文書の持出しは禁止。
七、同僚は独立窓口へ異議申立てできる。
八、六か月後に再評価。
「処分は軽くなったの?」
記者が尋ねる。
「就労範囲は広がりました」
審査官が答えた。
「継承と移動の主要制限は変わりません。無給の公共奉仕から、有給の地域事務へ移ることを、全面赦免とは呼びません」
ローランは判決を受け入れた。
笑顔も、涙も見せなかった。
書類を読み、分からない二項目を質問し、署名した。
◇◇◇
法廷の外には、二つの集団が待っていた。
一方は、『ローラン殿下を王都へ』という旗。
もう一方は、『追放された者に公金を払うな』という札。
私が階段へ出ると、両方から声が飛んだ。
「姉君が赦したから、有給になったのですか!」
「処分が甘いと思いませんか!」
「王家の和解を望みますか!」
警備員が道を空けようとする。
「一つだけ答えます」
私は立ち止まった。
「判決理由に、私の赦しは入っていません。私は司法意見を提出していません」
「では、怒っている?」
「私の感情を、賃金の支給条件にしないでください」
「答えになっていない!」
「答えないと言っているんです!」
胸の中で暴れていたものが、声になって飛び出した。
「私が泣いて赦せば、弟は善人になる? 私が怒鳴れば、六か月働いた記録が消える? そんなわけないでしょう! 私の顔色一つで人の処分が上下するなら、それは司法じゃなくて家族芝居よ!」
群衆が、一瞬だけ静まった。
「私はまだ怒っています。安心したい人のために、きれいな和解を演じるつもりもありません。でも、その怒りを理由に、必要な仕事の賃金まで奪わせもしない。それが答えです!」
「犯罪者へ税金で給料を?」
「役場が必要な仕事を依頼し、通常基準の賃金を払います。無償で働かせ続けるほうが、処分を理由に労働を取り上げます」
「社会復帰なら、王都へ戻すべきだ!」
反対側から声が上がる。
「居住地域で働くことと、入都制限は別です。判決を読んでください」
「あなたは、弟に会いたいのですか」
「今日は、その質問へ答えません」
どちらの集団も、満足しなかった。
赦した姉か、怒る被害者か。
弟を救う家族か、処罰を求める家族か。
一つの役へ私を置けば、判決を簡単な物語にできる。
でも、司法が見たのは、六か月の記録、仕事の範囲、同僚の安全、処分の目的だった。
私はその外で、自分の感情を自分のまま持って帰った。
◇◇◇
新聞社へは、判決全文と訂正要求を送った。
「見出しの誤りを認めますか」
編集長は渋った。
「勤務範囲拡大は、社会復帰の一歩です。広い意味では赦免と」
「法的な赦免ではない。本人も求めていない」
「記事を分かりやすくするためです」
「分かりやすくするために、違う手続きを同じ名前で呼ばないで」
「では、『元王子、有給勤務へ』なら?」
「事実です。主要処分維持も、同じ記事に」
翌日の訂正欄は、小さかった。
『前号見出しの「全面赦免請求」は誤り。申請者は監督官で、内容は居住地域内の有給事務補助。継承権停止・入都禁止は維持』
「一面ではないのね」
「訂正欄の大きさを、強制する法律はありません」
アンナが言う。
「では、店の掲示板に訂正番号を出す」
誤報より小さな訂正でも、たどれる道は残した。
◇◇◇
判決後、私は便箋を一枚出した。
「司法へ意見は出さないのでは?」
「判決は出た。これは、地図のことだけ」
文章は、三行になった。
『旧第七備蓄庫の情報により、使用可能な毛布五百二十四枚を確認できました。冬の避難所で使われています。情報を知らせてくれたことに、礼を言います。返事は不要です。』
署名。
リリアーナ。
「フィオーレを付けないのですか」
「公文書ではないから」
「姉より、とも?」
「書かない」
「書きたいお気持ちは?」
「……少しだけ、ある」
認めると、ひどく悔しかった。
「でも、今それを書いたら、地図への礼より大きな意味になる。ローランも、きっと返事を考えなきゃいけなくなる」
「返事は不要、と書いてあります」
「文字で不要と言われても、“姉より”なんてついていたら考えるわよ。私なら考えるもの」
だから三行だけ。
会話を始めないための、けれど感謝を飲み込まないための三行だった。
礼を言うことと、姉弟へ戻ることは違う。
返事を求めれば、次の会話を始めることになる。
今は、地図への礼だけを渡したかった。
監督官経由で送り、写しを私的記録へ封じた。
ローランから返事は来なかった。
求めなかったものが届かなかったことに、少し安心し、少しだけ寂しかった。
◇◇◇
その週、夜明けの星の定期監査が始まった。
十二拠点協定を作り、各店へ停止権を渡したあとも、夜明けの星本部には古い規則が残っている。
監査人は、組織図の中央を赤く囲んだ。
『創業者兼所有者 リリアーナ・フィオーレ』
「問題は、何ですか」
「商品方針、ブランド許可、大型投資、役員任命、特許利用、利益配分。最終承認が、すべて同じ人です」
「私が勝手に決めているわけではありません。会議で」
「会議が反対しても、法的には創業者が覆せます」
監査人は、危機中の記録を置いた。
「あなたが不在でも、現場は動きました。でも平時の所有規則では、いつでも権限を取り戻せる」
「取り戻すつもりはないわ」
「善意は、次の所有者へ引き継げません」
「私が、父と同じになるかもしれないと言いたいの?」
刺々しい声が出た。
監査人は怯まなかった。
「同じになると申し上げているのではありません。同じになっても止められない構造だと申し上げています」
「……嫌な言い方ね」
「聞き心地をよくすれば、赤い丸が消えますか」
「消えないわ。だから余計に腹が立つのよ」
その言葉に、胸が詰まった。
「王国では、王一人へ権限を集めない改革を求めましたね」
「ええ」
「店でも、同じです」
ローランを監督する規則より先に、私は自分を止める規則を作らなければならなかった。
私は組織図の中央にある自分の名を見た。
「次の所有者、というのは?」
「あなたが病気になったとき。判断できなくなったとき。あるいは、善意を失ったときです」
最後の一つが、胸へ冷たく刺さった。
今の私が正しいと思うだけでは足りない。未来の私が間違えたとき、止められる人と手続きが要る。
「分かりました。私の反対だけでは覆せない規則にしてください」
監査人は初めて赤鉛筆を置き、アンナが新しい議事録の表紙を開いた。




