第93話 王位は一つ、責任は分ける
父の退位証書は、私の放棄証書より短かった。
『国王は、自らの意思により退位を望む。現行継承法に従い、王位を次順位者へ移す手続きを開始する』
署名は震えている。
けれど、独立法官三名と医師二名が、四日に分けて意思能力を確認した。
退位の意味。
撤回期限。
次王を自由に指名できず、現行法へ従うこと。
退位後も、在位中の公的判断への責任が消えないこと。
「第一王子が、次王ですか」
記者が法官へ尋ねた。
「現時点では、第一順位の候補です」
「候補?」
「就任前に、法定宣誓、財産開示、健康上の意思確認、議会による適格審査があります」
父から兄へ冠を手渡せば終わる話ではない。
私は市民傍聴席で、その説明を聞いていた。
王族席ではない。
自分で放棄した席の外から、次の王を選ぶ手続きを見る。
妙な気分だった。
少し前まで、あちら側に座る可能性があった。今は固い木椅子で、前の人の帽子がちょっと邪魔。王族席なら視界は良かったでしょうね。クッションだって、ふかふかだったでしょうね!
でも、戻りたいとは思わない。
お尻の痛みと引き換えに、自分で選んだ席だ。
◇◇◇
第一王子派は勝利を宣言した。
『長子継承の正統が守られた』
『軍と治安が一つの王冠へ戻る』
第二王子派は反発した。
『暫定統治で財務と地方を守った実績が無視された』
『軍務派の独走が始まる』
王都の壁には、二つの色の紙が貼られた。
市場では、どちらの兄が勝つか賭ける札まで出た。
「家族の話が、競馬みたいね」
私は一枚を剥がさず眺めた。
「取り締まりますか」
警備員が尋ねる。
「違法な賭博なら、通常の規則で。王家を不敬だから、ではなく」
「ちなみに、どちらへ賭けます?」
警備員が小声で聞いた。
「私にそれを聞く!?」
「元王族の分析は当たりそうなので」
「兄弟を賭け札にしたくないし、そもそも即位は審査制よ。勝ち負けで見てる時点で外れるわ」
「では、“どちらも単独では勝たない”へ一枚」
「賭けるなって言ってるでしょう!」
第一王子が次順位なのは、派閥が勝ったからではない。
現行法が長子優先を定めているからだ。
その法を変える議論はできる。
でも、父が倒れた途中で、自分に有利な者が規則を曲げれば、次の危機でも同じことが起きる。
「第一王子が王。第二王子は補佐。簡単では?」
新聞記者が言った。
「補佐は、王が聞かなければ終わる役よ」
暫定統治で分けた責任を、一つの王冠へ戻すだけでは、吹雪の前へ戻るのと同じだった。
◇◇◇
兄たちは、共同会見の前に公開協議を求めた。
会場は国境共同店ではなく、王都の議事堂。
通常客の店を政治の舞台へ使わないためだ。
「リリアーナ様に、仲裁人を」
印璽評議会から依頼が来た。
「断ります」
「両殿下が信頼する、ご家族です」
「私は王籍を離れたばかりです。ここで兄二人の間へ立てば、第三の王位候補に見える」
「ですが、姉君として一言まとめていただければ、協議は早く――」
「家族だから丸く収めろ、と?」
「そのような意味では」
「ありますよ。兄二人が政治で割れたら、姉が間に入って仲良くさせる。聞こえは美しい。でも、失敗したら“姉なのに止められなかった”、成功したら“リリアーナこそ王に”。どちらへ転んでも、私は手続きの外から王位争いへ戻される」
印璽評議会の使者が、ぐっと言葉を呑んだ。
「今回は、自分たちで話してもらいます。兄たちは子どもじゃない。王国も、家族会議で動く店じゃありません」
「国民からの信頼があります」
「それも、王位の手続きへ持ち込みません」
私は仲裁席ではなく、市民意見の提出窓口を選んだ。
意見書には、夜間拠点の危機検証で学んだことを書いた。
一人が不在でも、統治が止まらないこと。
緊急権限には、期限と事後監査があること。
王族への処分でも、聴聞と異議申立てを省かないこと。
宣戦、新税、大規模な財産処分を、一人の署名だけで決めないこと。
私は兄のどちらがふさわしいかは書かなかった。
誰が王でも、できないことを先に書いた。
◇◇◇
公開協議で、第一王子は軍服を着ていなかった。
第二王子も、財務官の徽章を外している。
二人とも、王族として同じ高さの机へ座った。
「継承法に従い、私は次王候補となります」
第一王子が先に言う。
「弟へ辞退を求めません。異議を述べる権利も、適格審査へ意見を出す権利もあります」
第二王子が応じた。
「私は、兄の即位そのものへ異議を出しません」
会場がざわめく。
「ただし、暫定統治で分けた財務・地方権限を、即位と同時に王へ戻す案には反対します」
「つまり、兄上を王とは認めても、信用はしないということか」
第一王子の声が低くなる。
「兄上個人を信用するかどうかで、国家予算の仕組みを決めるべきではないと言っています」
「私が暴走すると?」
「兄上が、ではありません。誰でもです。私も含めて」
「ならば、お前が評議会を握れば同じだろう!」
「だから私は終身議長を求めていない!」
バンッ!
二人の手が、ほとんど同時に机を打った。
ああ、兄弟だわ。腹の立て方まで似ている。
しみじみしている場合ではないけれど。
「王が予算を持たず、どう統治する」
軍務貴族が叫ぶ。
「予算を提案する権限と、好きに使う権限は違う」
第二王子は、暫定予算の記録を掲げた。
「父上が倒れたあと、軍務費を増やす要求が三件、王都事業を地方費から出す要求が二件ありました。分担制度がなければ、止められなかった」
第一王子は反論しなかった。
「その要求のうち一件は、私の側近からでした」
第一王子の拳が、ゆっくり開いた。
「私が命じたのではない。だが、私の名なら通ると思わせた。その責任はある」
第二王子も、張っていた肩を少し下げた。
「私の側にも、“兄上を王冠だけの王にすればよい”と吹聴した者がいます。止めるのが遅れました」
「それは初耳だ」
「今、申し上げました」
「遅い」
「兄上にだけは言われたくありません」
また空気がピリッと尖る。
仲良し兄弟への道は、どうやら石だらけらしい。
自分の側の誤りを、公の場で認めた。
◇◇◇
第一王子の原案では、第二王子を『王室財務顧問』に任命することになっていた。
「受けません」
第二王子は即答した。
「なぜだ」
「兄上が任命し、兄上が解任できる役なら、反対した日に職を失います」
「私が、その程度の理由でお前を切ると思うのか」
「思いたくありません。ですが、“兄上はそんなことをしない”を制度にするなと言っているのです」
「……信用されていないようにしか聞こえん」
「信用を失っても働ける仕組みにしたいのです。家族の信頼が壊れたら国政まで壊れるなど、もう十分でしょう」
「では、終身職に?」
「それも違う。私が無能でも居座れる」
地方代表の一人が案を出した。
新設する『財務・地方評議会』。
各地方、商業、労働、農業、都市、監査法官から委員を選ぶ。
議長は委員の投票で選出し、任期二年。
第二王子は初代議長候補として審査を受ける。
王は単独で解任できない。
評議会も、理由なく終身で守らない。
「敗者へ椅子を与える制度に見えます」
私は市民意見席から発言した。
「リリアーナ殿……フィオーレ氏」
司会が呼称を直す。
「第二王子でなくても続く制度にしてください。議長が交代しても、地方と財務の監督権が残るように」
第二王子が私を見た。
「同意します。私のための役職なら、王位争いの延長です」
人に仕事を与えるのではない。
必要な仕事を作り、その条件を満たす人が担う。
夜明けの星の店長選びと、同じだった。
◇◇◇
改革案の中心は、三つの確認だった。
宣戦。
新しい恒久税。
王族への追放、王籍剥奪、長期拘束。
これらは、王の署名だけでは効力を持たない。
国民評議会の過半数。
財務・地方評議会の影響確認。
法官院の適法審査。
「戦争は、急に始まることがあります」
第一王子が言う。
「国境を攻撃された時、三つの会議を待てない」
緊急防衛命令は、王と国防責任者が即時に出せる。
ただし七日で失効。
継続には国民評議会の承認。
命令の対象、予算、民間への影響を二十四時間以内に公開する。
「敵へ手の内を見せるのか」
「兵の位置は公開しない」
第一王子が答えた。
「だが、どの法律を止め、いくら使い、誰の土地を使うかは、国民へ知らせる」
新税にも、災害時の時限措置を認める。
ただし最長九十日。
恒久化は通常審議へ戻す。
緊急という言葉で、期限のない権力を作らない仕組みだった。
◇◇◇
王族処分については、会場の空気が変わった。
私の追放記録が、公開されたばかりだからだ。
「国家の安全へ重大な危険がある場合、先に身柄を移す必要はあります」
法官が説明する。
「ただし、仮措置は七十二時間。本人へ理由と証拠の要旨を示し、独立弁護人を付ける」
「機密証拠は?」
「法官が非公開部分を確認し、本人へ反論可能な要旨を作る。『機密だから何も言えない』で追放しない」
私は手を挙げた。
「退去後の安全は?」
「居所、護衛、医療、最低生活費を、仮措置の前に決めます」
「本人が護衛を拒む場合は?」
「拒否を記録し、代替連絡手段を渡す」
追放そのものを、永遠に禁止する案ではない。
本当に危険な王族が現れるかもしれない。
でも、父の恐れだけで、娘を行き先もなく夜へ出せないようにする。
「この改革で、私の追放が自動的に無効になるわけではありません」
私は傍聴者へ言った。
「過去の審査は別です。これは、次の人を同じ手順で傷つけないための案です」
自分の救済と、将来の規則を同じ交換条件にしなかった。
◇◇◇
地方公聴会の試行も、その場で一度行った。
王都へ来ていた五地域の代表へ、改革案を読み、分からない箇所を挙げてもらう。
「新税には評議会の確認、とあります」
北方の宿屋店主が手を挙げた。
「既存税の税率を上げる場合は、新税ではないのですか」
財務官が答えに詰まる。
「現案では、税目の新設だけを指します」
「なら、古い街道税を十倍にすれば、王一人でできる?」
「それは困ります」
第二王子が文面を引き寄せた。
「新設だけでなく、税率の一定幅を超える変更も確認対象へ入れます」
「一定幅とは?」
「年率一割……」
「物価が半分になった年は?」
「一律割合では足りませんね」
基準を、税率の変更幅と、世帯・事業者負担の推計の両方で見ることにした。
次に、軍人の家族が尋ねた。
「緊急防衛命令が七日で切れたあと、評議会が否決したら、前線の兵は急に帰るのですか」
「撤収にも時間が必要です」
第一王子が答える。
「否決時は、新しい攻撃行動を停止し、安全な撤収と防衛に必要な最短期間だけ継続する。その期間も法官が確認する」
「最短を、軍が決める?」
「軍が案を出し、法官と国民評議会の緊急委員が確認する」
農業代表は、地方予算の転用禁止へ質問した。
「対象地方の代表が同意すれば、住民へ聞かず転用できますか」
「現在案では、できます」
「一人の代表が、王都で頼まれて署名したら?」
第二王子が、また筆を取る。
「一定額以上は、地方議会の公開決議を必要にします。災害で議会を開けない場合は、三十日の仮措置と事後投票」
王子二人と法官だけで読んだときには、見つからなかった穴だった。
「公聴会は、改革案を支持してもらう場ではないのね」
私が言う。
「穴を探してもらう場です」
第一王子が答えた。
「耳の痛い場になりそうだ」
「そのために開くのでしょう」
宿屋店主が返すと、会場に小さな笑いが起きた。
責任を分けるとは、役職を増やすことだけではない。
文面を作った人以外が、止め、問い、直せる時間を制度に入れることだった。
◇◇◇
兄二人の間で、最後まで割れたのは軍事予算だった。
第一王子は、国境危機へ備え、予備費を王直属に置きたい。
第二王子は、地方予算を転用されないよう、評議会の承認を求めた。
「敵は、承認を待ちません」
「地方の冬も、王都の命令を待ちません」
「国境が破られれば、地方予算も何もない!」
「国境を守る名目で冬の燃料費まで吸い上げれば、敵が来る前に地方が凍えます!」
「必要なときに必要な金を動かせない王など、飾りだ!」
「必要かどうかを王一人だけで決められるなら、評議会が飾りです!」
声がぶつかり、会場の空気がビリビリ震えた。
止めたい。
姉として、「はいはい、二人とも落ち着いて」と机の間へ割って入りたい。
でも、私は膝の上で手を握った。
ここで私が感情を丸めても、次の戦争や冬には私はいないかもしれない。必要なのは仲直りの握手ではなく、喧嘩したままでも金を動かせる線だ。
二人の声が強くなる。
仲裁人なら、私は間へ入っただろう。
でも、今日は市民意見席だ。
代わりに、北方鉱山の危機対応記録を提出した。
緊急基金から先に支払い、後で原因と負担を分けた仕組み。
その記録を読んだ財務監査官が折衷案を作った。
王直属の緊急防衛基金を、通常予算の一定割合で事前に確保。
使用開始は即時。
七日以内に明細を監査。
追加支出は評議会承認。
地方予算の転用は、対象地方代表の同意がなければ禁止。
「姉上の案ですか」
第二王子が尋ねた。
「いいえ。私は記録を出しただけ」
「姉上は昔から、答えを出しておいて“皆で決めた”と言うところがあります」
「ちょっと、第二王子殿下? 急に昔の姉への苦情を混ぜないでくれる?」
「事実です」
「今回は本当に監査官の案よ!」
傍聴席から、クスクスと笑いが漏れた。
第一王子まで口元を押さえている。
「兄上も笑わないで!」
「いや。久しぶりに、姉上らしいと思って」
まったくもう。この兄弟、政治の場でだけ妙に息が合うのはやめてほしい。
「それを仲裁と呼ぶのでは」
「答えを決めたのは監査官と会議よ」
私は自分の手柄にしなかった。
◇◇◇
二日目の協議で、共同改革案がまとまった。
第一王子を、継承法上の次王候補とする。
適格審査と宣誓を経て即位する。
財務・地方評議会を新設し、第二王子は初代議長候補としてほかの候補と同じ審査を受ける。
宣戦、新税、王族処分には複数機関の確認を要する。
緊急権限には期限、公開、事後監査を置く。
改革案は、即位の条件として公表する。
ただし憲章改正は、地方公聴会と正式批准を経る。
「今日から有効ではないの?」
記者が尋ねる。
「現行の暫定規則は続きます」
法官が答えた。
「改革を発表したことと、法になったことを混同しないでください」
夜明けの星でも、発表した試験と正式導入を分けてきた。
王国の制度なら、なおさらだった。
兄二人は、改革案の表紙へ並んで署名した。
握手はしなかった。
新聞向けの抱擁もない。
同じ紙に、別々の責任を書いた。
◇◇◇
会見後、第一王子が私へ声をかけた。
「王籍放棄を止めるべきだったと、思ったことがある」
「なぜ止めなかったの?」
「止めれば、王位争いのために姉上を使う」
第二王子も近くへ来た。
「私は、復籍を条件に味方へ引き入れようとした派閥を、十分早く止めなかった」
「知ってる」
「すまない」
「二人とも、私に許してもらうために改革しないで」
「分かっている」
第一王子が答えた。
「我々が恐れているのは、どちらかが勝てば、もう一人を家族ごと失うことだ」
「だったら最初から、そう言えばよかったのに」
「王位協議の場で、怖いとは言いにくい」
「だから制度の話に隠した?」
「隠したつもりはない。だが……そう見えるなら、否定はできない」
第一王子は悔しそうに眉を寄せた。
強い王になろうとする兄も、結局は家族を失うのが怖い一人の人間だった。
「王位は一つだもの」
「だから、責任まで一つにしてはならないと決めた」
兄弟が仲直りした、とは思わなかった。
利害も、考えも、支持者も違う。
でも、違うまま互いを消さずに働く場所を作ろうとしている。
「私は市民として、改革の経過を見ます」
「姉としては?」
「それは、また別の日に考える」
家族と政治を、一つの返事へまとめなかった。
◇◇◇
翌朝、新聞の一面は二つに割れた。
『第一王子、次王へ』
『王権分割、第二王子が財務を掌握か』
どちらも、まだ決まっていない部分を大きく書いていた。
私たちは一号店の掲示板へ、共同改革案の全文番号と、未批准項目を載せた。
「コンビニに、王政改革の掲示ですか」
ミアが言う。
「新聞を売るなら、訂正先も示したいの」
その横に、別の見出しが貼られた。
『ローラン元王子、全面赦免を請求』
私の手が止まる。
「本当?」
アンナが司法庁の公開番号を調べる。
「全面赦免の申請は、見当たりません」
「では、誰が?」
「監督官から、勤務範囲変更の申請が一件。申請者はローラン本人ではありません」
弟の処分と、父への謝罪と、王位継承。
新聞は、すべてを一つの家族再生の物語へまとめたがっている。
私は見出しを信じず、申請書そのものを取り寄せた。
ミアが、派手な見出しの上へ白い紙を貼る。
『申請者を確認中。確定情報ではありません』
「地味ね」
「事実は、だいたい地味です」
十六歳に、新聞より強い真理をスンッと置かれた。そうよね。盛り上がる見出しほど、確認欄は小さいのよね!
私は申請番号を掲示板へ足した。
王家の物語を売る前に、誰が、何を、どこまで求めたのか。それを一つずつ分ける必要があった。




