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第92話 戻らないという署名

「王位を望みません」


 私が言うと、独立法官レオナは、書類を閉じた。


「それは、お気持ちです」


「十分ではないの?」


「十分ではありません」


「……は?」


 思わず、王女時代なら絶対に出さなかった声が漏れた。


「望まないって、本人がここまでハッキリ言ってるのよ? 王冠なんて要りません。玉座も要りません。キラキラした儀礼服も、長ったらしい敬称も、まとめて熨斗をつけてお返しします!」


「お気持ちは大変よく伝わりました」


「でしょう?」


「ですが、法的には一行も処理できておりません」


 スン、と返された。


 法律、強い。私の渾身の啖呵が、一行にもならなかった。


 王宮ではなく、王都司法庁の相談室。


 壁に王家の紋章はなく、窓口には市民の相続や雇用の相談札が並んでいる。


 父の退位手続きを進めるため、私の王籍と継承権を法的に整理する説明会だった。


「王位を望まない人へ、無理に継がせることはできません。ただ、何を手放し、何を残すかは、文書で決める必要があります」


「全部、手放します」


「“全部”は禁止語だと思ってください」


「禁止語!?」


「少なくとも、この部屋では。何が含まれるか確認せず使うと、あとで必ず争いになります」


「便利なのに……全部」


「便利な言葉ほど、書類では危険です」


「その『全部』に、将来のお子様の継承資格、王室財産への相続請求、儀礼上の席次、身辺警護、外交上の呼称も含まれますか」


 言葉が止まった。


 私は王冠しか見ていなかった。


 署名一つの先には、まだ会ったこともない人の地位までつながっている。


「だから、今日の署名は認めません」


 レオナは、書類を私から遠ざけた。


「私の権利なのに、私が捨てたいと言っても捨てさせてもらえないの?」


「捨てる自由を守るために、何を捨てたか分からない署名を止めています」


 悔しいが、正論だった。


 正論というものは、だいたい腹が立つ顔でこちらを見てくる。


◇◇◇


 法的な選択肢は、四つあった。


 一、王籍と継承権を維持し、継承順位だけを一時停止する。


 二、本人の継承権を放棄し、将来の子孫の扱いは別に決める。


 三、本人とその直系子孫の王位請求権を放棄するが、王籍と儀礼上の身分は残す。


 四、王位請求権、王室給与、宮廷職、王室名義の特権を放棄し、民間人として登録する。


「四番を選びます」


「まだ選ばないでください」


「説明を聞いたわ」


「項目名だけです」


 レオナは、一枚ずつ影響を読み上げた。


 四番を選んでも、父の娘という血縁事実は消えない。


 過去に王女として行った公務の効力も消えない。


 すでに自分で取得した夜明けの星の財産や権利は、王室へ戻らない。


 逆に、王室からの年金、居室、儀礼護衛、国家予算による使用人は請求できなくなる。


 国家緊急時の司法召喚や市民としての義務は、ほかの人と同じように残る。


「『王女』と呼ばれることは?」


「公的な現職称号ではなく、旧称または出自の説明になります。使用を犯罪にはしませんが、契約や公文書では民間名を使います」


「私は、今もリリアーナ・フィオーレです」


「はい。その名を、王室から借りているわけではありません」


◇◇◇


 将来の子どもについては、さらに時間がかかった。


「私は結婚の予定も、子どもの予定もありません」


「今の予定で、将来の権利を決めますか」


「王位争いへ巻き込まれないようにしたい」


「本人が望んだ場合でも?」


 私は答えられなかった。


 まだ存在しない人の選択を、私が奪うのか。


 でも、王家とのつながりを曖昧に残せば、政治危機のたびに私の子孫が『正統な王位候補』として利用されるかもしれない。


「直系子孫を、通常の継承順位から外すことはできます」


 レオナが説明した。


「ただし、将来の議会が王統そのものを変更する場合まで、永久に縛ることはできません。現行法上の請求権を発生させない、と定めます」


「子どもが、自分の出自を知る権利は?」


「残ります。王族名簿から消すのではなく、請求権放棄の注記を付ける」


「父の娘だったことを、秘密にするつもりはないわ」


「では、記録を消す署名ではありません」


 存在を消すことと、権力の請求権を手放すこと。


 その二つを分ける文面にした。


◇◇◇


 王室財産についても、私は「要らない」と言いかけた。


「放棄対象を確認してください」


 アンナが先に止める。


 王室共有財産への将来請求。


 父の私有財産のうち、遺言がない場合に発生する法定相続。


 追放時に王宮へ残した私物。


 未払いだった王女時代の個人報酬。


 全部は同じではない。


「追放時の私物まで、王室の物になるの?」


「なりません」


 レオナが答える。


「衣類、書籍、母君の形見、個人宛ての手紙は、継承権と無関係です。返還請求を放棄する必要はありません」


「今さら戻してほしい物は」


 母の小さな裁縫箱が浮かんだ。


 濃い緑の木箱。蓋の隅に、私が幼い頃につけた小さな傷がある。


 母は針仕事が得意ではなかった。それなのに私が膝を破くたび、侍女へ渡さず自分で縫おうとした。結果はいつも少し歪んでいて、王女のドレスとしては落第点。でも、私はあの縫い目が大好きだった。


 追放の夜、その箱を持ち出したいとすら言えなかった。


 そんな物まで「全部要らない」の中へ放り込もうとしていた自分に、急に腹が立った。


 追放の日、持ち出す時間は与えられなかった。


「あります」


 声が掠れた。


「あります。返してほしい。母の裁縫箱だけは、絶対に」


「では、一覧を作りましょう」


「王位を捨てる代わりに返してもらうように見えない?」


「代わりではありません。もともとあなたの物です」


「……そうね。欲しがっていいのね」


「欲しがる必要すらありません。返還を求めるのは、当然の権利です」


 当然。


 その言葉が、やけに温かかった。


 私は、母の裁縫箱、私費で買った料理書三冊、幼い頃の手紙、青い冬外套を書いた。


 王室共有財産と年金は放棄する。


 個人物品の返還権は残す。


 すべてを捨てることが、自立ではなかった。


◇◇◇


 最初の署名案には、受け入れられない一文があった。


『私は、過去の追放命令および王籍上の措置を受諾し、本書をもって自発的離籍として確認する』


「これは消してください」


 私は赤い線を引いた。


「王室法務局の定型文です」


 同席した法務官が言う。


「追放後に本人が離籍を選べば、過去の状態も整理できます」


「整理ではなく、書き換えです」


「今、あなたが王籍を望まないことは事実でしょう」


「今、戻らないことと、あの日に追い出されてよかったことは違う」


「『受諾』は、正当性まで認める言葉では」


「そう読める。だから署名しない」


「ですが、この一文を外すと、過去の追放措置へ異議を残したまま、王籍だけ離れることになります」


「ええ。それの何が悪いの?」


「王室側には、将来の争いが残ります」


「残るでしょうね。だって、終わっていないもの!」


 赤い線を、もう一本引いた。


「私が自分の未来を選ぶための署名に、王室の過去までこっそり洗濯して真っ白にする効能をつけないで。そんな便利な洗剤、夜明けの星でも売ってないわ!」


 父も、追放が正しくならないと認めた。


 でも、父の謝罪がなくても、この線は譲らない。


「私の離籍は、署名した日から将来へ効く。追放の日へ遡らせないで」


 独立法官レオナが、別案を書いた。


『本放棄は署名日以後の王位請求権を処理するものであり、過去の追放命令、聴聞欠如、財産取扱い、名誉上の措置の適法性を確認または放棄するものではない』


「これなら、読めます」


 まだ、署名はしなかった。


◇◇◇


 法律では、十四日の熟慮期間を置くことになった。


 その間、王室から直接連絡することは禁止。


 第一王子も、第二王子も、父も、私へ賛成や反対を求められない。


 相談できる独立弁護士の費用は国が負担するが、弁護士は王室法務局の指揮を受けない。


「十四日も必要?」


 私は最初、不満だった。


「王位を欲しくないのは、何年も変わっていない」


 担当弁護士のサラは、書類の端を指した。


「気持ちを疑っているのではありません。文言と影響を、急かされず確認する期間です」


「父の退位が遅れる」


「あなたが急いで権利を捨て、王室の都合を助ける義務はありません」


「でも、国が不安定になる」


「暫定統治は機能しています。十四日で崩れる制度なら、あなたの署名より先に直すべきです」


 以前の私なら、王国のためという言葉で急いだかもしれない。


 父も、その言葉で私の声を聞かなかった。


 私は十四日を受け入れた。


 その日、署名案を鞄へ入れ、王都からスノーベル村へ帰った。


◇◇◇


 熟慮期間中も、一号店の仕事をした。


 棚へ乾燥スープを並べる。


 雪で濡れた入口を拭く。


 ミアの発注表を確認する。


「王位を捨てる書類を持ちながら、床掃除ですか」


 ロウが言う。


「床は、私の事情を待たないわ」


「迷ってるんすか」


「署名することは、ほとんど決めてる。でも、何を残すかは迷ってる」


「王女って呼べなくなる?」


「呼びたい人は禁止されない。でも、公文書では使わない」


 ロウは、少し困った顔をした。


「俺、ずっとリリアーナ様って呼んでるから、困らないっす」


「様まで取って、リリアーナって呼んでもいいのよ」


「無理っす」


「即答!?」


「だってリリアーナ様、リリアーナ様じゃないっすか」


「説明になってないわ」


「王女だから様をつけてたんじゃなくて、俺がつけたいからつけてるんすよ。今さら急に呼び捨てとか、舌が反乱起こします」


 ロウは本気で困った顔をした。


「そうね」


 ミアは会計台から尋ねた。


「夜明けの星の所有は、変わりますか」


「変わらない。王室の店ではないもの」


「なら、私も困りません」


「ミアは本当に迷いがないわね」


「はい。称号が発注数を数えてくれるわけではありませんので」


「もう少し情緒があってもよくない?」


「では……王女でなくなっても、無茶な発注をなさるときは止めます」


「情緒の方向が違う!」


 思わず笑った。


 笑ったあとで、鼻の奥がツンとした。


 離れないで、と確かめたかった。でも、そんな格好の悪い質問をしなくても、二人は明日の勤務の話をしている。それが答えだった。


 王女でなくなれば、皆が離れるのではないか。


 そんな恐れが、心の隅にあった。


 でも二人が見ていたのは、私の称号ではなく、目の前の棚と勤務表だった。


◇◇◇


 七日目、父から手紙が届いた。


 侍医長経由。公印なし。返答期限なし。


『私の退位のために、急いで署名しないでほしい。お前が残ることも、離れることも、私への赦しや罰にしないでほしい』


 短い文だった。


「父に言われたくないわ」


 思わず口にする。


「同じことを、法官も申しておりました」


 アンナが言う。


「分かってる。でも、父から言われると、また正しい父親になろうとしているみたいで」


「返事は?」


「しない」


 手紙を捨てもしなかった。


 署名案とは別の引き出しへ入れた。


 父の言葉が正しいから従うのでも、遅すぎるから反対するのでもない。


 十四日目の私が、自分の理由で決める。


 その日の夜、私は店の鍵を閉めた。


 王宮の鍵ではなく、自分で開け、自分で閉められる鍵だった。


◇◇◇


 十三日目、私は異議声明を書いた。


『私は、追放命令前に十分な聴聞を受けなかった。証拠への反論機会、退去後の安全、個人物品の返還が保障されなかった』


『その後に夜明けの星を創業し、現在の生活を選んだ事実は、当時の措置を正当化しない』


『私は現在、自らの意思で王位請求権と王室特権を放棄する。これは追放への同意ではなく、将来の生き方を自分で選ぶ行為である』


 弁護士サラが全文を読んだ。


「公的記録への添付を求めますか」


「はい。放棄証書と同じ公開番号で」


「王室法務局は、異議声明を別冊へ分けたいと」


「分けたら、放棄だけ引用される」


「では、同一記録の不可分な付属書とする条文を入れましょう」


 放棄証書を読む人は、必ず異議声明の存在も知る。


 声明を消して、従順に王位を辞退した娘だけを歴史へ残させない。


「過去の追放を取り消すよう求めますか」


「今回は求めない。適法性の審査を妨げない、とだけ残す」


 王位を手放す書類へ、すべての争いを詰め込まない。


 解決していないことは、解決していないまま残した。


◇◇◇


 署名前夜、司法庁から三つの意見書が届いた。


 放棄手続き自体は公開されているため、市民は法的な瑕疵について意見を出せる。


 一つ目は、王党派の団体。


『民衆に人気のある王女を、熟慮期間十四日だけで王統から外すべきではない。国民投票を求める』


 二つ目は、追放を支持していた元宮廷派。


『放棄を認めるなら、過去の王命へ異議を出さないことを条件とすべきだ』


 三つ目は、小商人組合。


『王室特権がなくなれば、夜明けの星との契約や特許は無効になるのか説明を求める』


「全部、私の生き方を他人が決める意見に見える」


 私は弁護士サラへ言った。


「一つ目と二つ目は、あなたの意思を制限する提案です」


「三つ目は?」


「法的効果への正当な質問です。あなたの民間契約、会社財産、共同特許は、王族身分ではなく個人または法人名義です。離籍で無効になりません」


「では、その説明だけ公表して」


「国民投票を求める声へは?」


「私が王位を受けるかどうかを、人気投票で決めない」


「異議を出さない条件へは?」


「拒否します。放棄を認める代わりに沈黙しろ、では自発的な署名にならない」


 レオナが、審査結果を記録した。


「意見書は手続きを止めません。ただし、明日もう一度、外部圧力が意思へ影響していないか確認します」


「皆が残れと言ったら、残るべきかと思ったことはあります」


「それは圧力ですか」


「期待です。でも、期待に応えるためだけに王になるのは、父が安定のために私を追放したのと同じくらい危うい」


「反対に、追放支持者を罰するために放棄しますか」


「違う。王にならず、店と自分の暮らしを選ぶため」


 法官は、私の答えを誘導せず、そのまま書いた。


 国民には、次の王を法に従って監督する権利がある。


 でも、私自身を王位候補として残すかは、国民が所有する権利ではない。


 署名する自由は、支持者の希望にも、反対者の条件にも差し出さなかった。


◇◇◇


 十四日目、司法庁の公開登録室へ行った。


 立会人は、独立法官、担当弁護士、市民記録官。


 王室の者は、いない。


「最終確認です」


 レオナが尋ねる。


「王位請求権、王室給与、宮廷職、王室名義の特権を放棄しますか」


「はい」


「現行法上、直系子孫へ継承請求権を発生させないことに同意しますか」


「はい」


「個人物品の返還権、過去の追放措置への異議、民間財産は放棄対象ではありません。理解していますか」


「はい」


「王室、家族、事業関係者から、署名を強制または条件づけられていませんか」


「いません」


「撤回しますか」


 最後の質問だった。


 以前、私は王宮を出るかどうか、聞かれなかった。


 今日は、残る選択も目の前に置かれている。


「撤回しません」


 私は、放棄証書と異議声明へ署名した。


 ペン先が、紙の上でサリサリと音を立てる。


 もっと手が震えると思った。


 けれど、不思議なくらい真っ直ぐ書けた。


 追放命令へ勝手に刻まれた名前ではない。


 誰かに決められた婚約書類の署名でもない。


 これは私が読み、怒り、直させ、十四日考え抜いた末に書く名前だ。


 リリアーナ・フィオーレ。


 称号は書かなかった。


◇◇◇


 登録室を出ると、王都の鐘が正午を告げた。


 何かが劇的に変わると思っていた。


 肩が軽くなる。


 涙が出る。


 自由になったと実感する。


 でも、空は同じ冬の灰色で、人々は同じように市場を歩いている。


「後悔していますか」


 アンナが尋ねる。


「まだ分からない」


「爽快感は?」


「ないわね。もっとこう、王冠をバーン! と投げて、自由だー! って風が吹くものかと思ってた」


「実際には司法庁の貸出用ペンを置いただけでございます」


「言わないで。絵面が地味すぎて、私も困ってるの」


「戻りたい?」


「それは、ない」


 はっきり言えた。


 追放された私は、門の外で行き先を失った。


 今日の私は、司法庁の階段を、自分の足で下りる。


 夜には店の勤務がある。


 戻らないという署名は、過去の扉を閉めるためだけではない。


 次に開ける扉を、自分で選ぶための署名だった。


 その夕方、第一王子と第二王子が、継承協議の共同会見を開くと発表した。


 私の名は、候補者一覧から正式に外れた。


 残った二人は、王位を一つの勝ち負けにしない方法を、国へ示さなければならなかった。


 号外を読み終えたアンナが、私を見る。


「王宮へ意見書を送りますか」


「一人の王に全部背負わせない制度なら、店で失敗した記録を渡せるわ。家族としてではなく、夜間拠点の運営者として」


「では、その肩書で」


 私はうなずいた。


 戻らないことは、背を向け続けることではない。


 門の外からでも、自分で選んだ立場からなら、差し出せるものがあった。

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