第91話 父が目を開けた日
父に会うと決めるまで、三日かかった。
吹雪の後始末があるから。
十二拠点協定の書類が残っているから。
大型センターの修理を見届けたいから。
理由はいくつもあった。
でも、本当は怖かった。
怖い。会いたくない。顔なんて見たくない。
なのに、意識が戻ったと聞いた瞬間、ホッとしてしまった自分にも腹が立つ。
何よ、それ。
追放した父でしょう。私の話を聞かず、門の外へ放り出した国王でしょう。もっときれいに嫌いきりなさいよ、私!
でも、子どもの頃に肩車をしてくれた人も、同じ父だった。
記憶というものは、本当に空気を読まない。
「謝られたら、許さなければならない気がするの」
私はアンナへ言った。
「なぜでございましょう」
「意識を失って、やっと目を覚ました父が、弱った声で謝る。そこで『許さない』と言えば、私が残酷に見える」
「誰に?」
「父に。周りの人に。たぶん、自分にも」
「それから、期待するのも嫌なの。もしかしたら、私がずっと欲しかった言葉をくれるかもしれないって。そんな期待を抱えて会いに行って、また傷ついたら……今度こそ、自分の馬鹿さに耐えられない」
「期待することは、同意でも赦しでもございません」
「感情って、契約書みたいに欄が分かれてないのよ」
「ですから、せめて行動の欄だけ分けます」
アンナは、面会願いの封筒を机へ置いた。
「謝罪は、赦しを受け取る請求書ではございません」
「頭では分かってる」
「では、面会条件に書きましょう。謝罪を聞いても、返答と赦しを約束しない、と」
父と会う前に、私は自分が持ち帰らなくてよい物を決めた。
◇◇◇
王宮侍医長から、父の状態について説明を受けた。
「意識は清明な時間が増えました。ただし、長い会話では疲労し、言葉が出にくくなります」
「判断能力は?」
「日常の希望は、自分で示せます。複雑な政務、財産、退位や継承については、議題ごとに法官と医師が確認する必要があります」
「父が私に会いたいと言ったことは、本当に本人の意思?」
「はい。時間を分け、三度確認しました」
侍医長は記録を見せた。
一日目。
『会いたい者はいるか』
『リリアーナ』
二日目。
『誰として会いたいか』
『父として』
三日目。
『会って何を求めるか』
『聞いてほしい。赦しは求めない』
「その質問は、父へ答えを誘導していない?」
独立法官のレオナが首を振った。
「王室から独立した医療意思監督官も同席しました。選択肢を読まず、本人の言葉を記録しています」
「話せなくなったら?」
「はい、いいえ、休む、終える、と書いた四枚の札を使います。陛下が『終える』を示せば、面会は終わりです」
「私も、終えられる?」
「もちろんです」
国王だけでなく、娘にも退出の権利がある。
それを確認してから、私は面会へ同意した。
◇◇◇
条件は七つになった。
一、面会は十五分。延長は、父と私の双方が望み、医師が許可した場合のみ五分。
二、侍医長と独立法官が同席する。
三、父の発言を記録する。記録の公開範囲は、面会後に双方が別々に決める。
四、政務判断、王位、財産の署名は行わない。
五、身体に触れる場合、先に尋ねる。
六、私は謝罪への返答、赦し、和解を約束しない。
七、どちらも理由を言わず面会を終えられる。
「親子の面会に、契約書が必要でしょうか」
王宮の侍従が困った顔をした。
「必要だった親子だから、ここまで来たの」
「陛下のお心を傷つけます」
「では、私の心は?」
「もちろん大切にございます。しかし、陛下はご病床で――」
「弱っている人は、過去に傷つけた相手へ無条件で会えるの?」
侍従が口を閉じた。
「私だって、父を苦しませたいわけじゃない。だから十五分にするし、医師にもいてもらう。でも、“娘なら我慢しろ”を親子の情で包まないで。そういう包み紙、もう見飽きたの」
「私の心が傷つかない条件も必要です」
法官レオナが、侍従を止めた。
「陛下は七項目を読み上げで確認し、すべてに同意されました」
「本当に?」
「第五項目で、『自分から触れない』と追記を求められました」
その一文を見ても、私は感動しなかった。
以前の父ならできなかった配慮だと思う。
でも、今できたことが、昔しなかったことを消すわけではない。
◇◇◇
王宮へ入るのは、久しぶりだった。
国境会談や評議会で王都へ来ても、私室区画には近づかなかった。
白い廊下。
家系図の刺繍。
足音を吸う深い絨毯。
追放の日と何も変わらないように見える。
けれど、壁の一角には、暫定統治機関の公示が貼られていた。
王が倒れても、国を動かした人たちの名。
第一王子の軍務署名。
第二王子の財務署名。
印璽評議会、地方代表、法官。
父がいない間も、国は一人の体の中に閉じていなかった。
「戻りたいと思いますか」
アンナが小声で尋ねた。
「いいえ」
すぐ答えられた。
「懐かしくはある。でも、戻りたいとは違う」
私は王女の礼装を着なかった。
夜明けの星の濃紺の上着。
ただし、店の宣伝用徽章も外した。
今日は王女でも創業者でもなく、父に会う娘として部屋へ入る。
◇◇◇
父は、窓際の寝台を起こし、背を支えられていた。
頬が痩せ、髪は倒れる前より白い。
国王の冠はない。
右手の届く場所に、四枚の札。
『はい』『いいえ』『休む』『終える』
父が、私を見た。
あまりに痩せていて、一瞬、知らない老人かと思った。
そして次の瞬間には、その考えを抱いた自分へ胸がギュッと痛んだ。
やめてよ。
弱らないで。弱った姿で、私の怒りまで弱らせようとしないで。
もちろん父は、そんな計算で倒れたわけではない。それでも心は勝手に責める相手を探し、勝手に同情まで始める。ぐちゃぐちゃだった。
「リリ……アーナ」
「はい」
名前を呼ばれただけで、胸が痛んだ。
幼い頃、熱を出した私へ本を読んでくれた父。
成人式で王女として誇らしいと言った父。
追放の日、私の訴えを聞かなかった国王。
全部、同じ人だった。
「座って、くれるか」
私は寝台から二歩離れた椅子へ座った。
「今日は、十五分です。具合が悪くなったら、終えてください」
「お前も」
「ええ。私も」
法官が砂時計を返した。
謝罪を聞く時間が、静かに落ち始めた。
◇◇◇
「追放の、日」
父は、一言ずつ息を継いだ。
「お前は、話したいと、言った」
「はい」
「私は、聞かなかった」
そこで言葉が止まる。
侍医長が脈を測り、『休む』の札を父の近くへ寄せた。
父は首を横に振る。
「ローランの、証拠。評議会の、不安。婚約家の、圧力」
「言い訳をしたいの?」
自分でも驚くほど、冷たい声が出た。
「違う」
父は『いいえ』の札にも指を置いた。
「私は、安定を、選んだ」
「国の?」
「私の、王座の」
部屋が静まった。
「騒ぎを、早く閉じたかった。お前を、聞けば、調べ直す。王家が、割れる。だから……」
「私を門の外へ出した」
「そうだ」
「寒かったのよ」
予定していなかった言葉が、喉からこぼれた。
「怖かった。門が閉まる音がして、誰も追ってこなくて。私は王女だったのに、次の食事がどこにあるかも分からなかった。……あなたが『国のためだ』って言ったから、泣くことすら国へ逆らうみたいで、ずっと我慢したのよ!」
声が大きくなる。
侍医長が父の脈へ目をやった。それでも父は『終える』の札へ触れなかった。
「聞いてる? 今度は、ちゃんと聞いてる!?」
「聞いて、いる」
「遅いのよ……!」
涙が一粒、膝の上へ落ちた。
「遅すぎるのよ、お父様」
父は、目をそらさなかった。
「国のため、と言った。だが、自分が、決められぬ王と、見られるのが、怖かった」
政治的安定。
国のため。
大きな言葉の中に、父自身の恐れが隠れていた。
私も、夜明けの星だけで冬を守りたいと思った。
規模は違っても、理念の言葉で自分の傷を隠す危うさを、私は知っていた。
だからといって、父へ同情はしなかった。
◇◇◇
「私が、門の外で死ぬかもしれないとは思わなかったの?」
父の指が震えた。
「護衛が、離れて、つくと」
「私は知らされていなかった」
「知っていると、思っていた」
「誰が伝える予定だった?」
父は答えられなかった。
法官が記録を確認する。
「追放命令には、門外までの護送だけが明記されています。以後の護衛について、公文書はありません」
「では、誰もいなかった可能性がある」
「はい」
父は目を閉じた。
「私は……確かめなかった」
「また、それなのね」
笑いたいのか泣きたいのか、自分でも分からない声が出た。
「誰かがやると思った。伝わっていると思った。安全だと思った。王様の“思った”で、娘が冬の夜へ放り出されたのね」
「……そうだ」
「否定してよ。せめて何か、格好のいい事情があったって言ってよ!」
「言えば、また、お前を、聞かぬことになる」
その返事が正しいことさえ、悔しかった。
何度も聞いてきた言葉だった。
伝わっていると思った。
誰かがやると思った。
安全だと思った。
責任のない言葉ではない。
でも、それで夜の寒さは戻らない。
「廃屋へ着くまで、私は一人だった」
「すまない」
「食べ物も、行き先もなかった」
「すまない」
「許してほしい?」
父は、長く息を吐いた。
「ほしい。だが、求める権利は、ない」
初めて、父が『休む』の札へ触れた。
◇◇◇
面会を、三分休んだ。
私は部屋を出なかった。
父は水を飲み、侍医長が脈と呼吸を確かめる。
法官は記録を止めた。
「続けますか」
レオナが、父と私へ別々に聞く。
父は『はい』。
私も、うなずいた。
「延長はしません。残り六分で」
「分かりました」
父が、もう一度私を見た。
「店を、作ったと、聞いた」
「たくさん報告が届いたでしょう」
「最初は、王家の、恥と」
胸が硬くなる。
「今は?」
「お前が、生きた、証だと」
「私の店を、父の反省の材料にしないで」
「……分かった」
「店は、私が追放されてよかったと証明する物でもない」
「分かって、いる」
「本当に?」
「追放が、なければ、店は、なかったかもしれない。だが、店が、できても、追放は、正しくならない」
「……その言葉を、ずっと聞きたかった」
口にした途端、喜びより先に怒りが湧いた。
「ずっとよ。私が店を成功させるたびに、“追放されてよかったね”って物語にされそうで嫌だった。私が笑えば笑うほど、あなたたちのしたことまで美談になる気がして……!」
「ならない」
「ええ。ならないわ。絶対に、させない」
私は返事をしなかった。
その言葉は、私がずっと守りたかった線だった。
◇◇◇
砂時計の砂が、残り少なくなった。
「私は、謝罪を聞きました」
父の目に、涙が浮かぶ。
「でも、今は許すと約束できません」
「ああ」
「いつか許すとも、約束しません」
「ああ」
「父の容体が悪いから、急いで家族へ戻ることもしません」
「分かっている」
父は、寝台の上で頭を下げようとした。
侍医長が支える。
「無理に動かないで」
思わず言ったあと、自分の中にまだ父を心配する部分があると気づいた。
その気持ちも、赦しではない。
「今日は、聞きました。それだけです」
「来て、くれて」
父は言葉を探し、やめた。
「ありがとう、と言っていい?」
「それは、いいです」
「ありがとう」
その二文字に、幼い日の父の声が重なった。
危うく「お父様」と呼んで、手を伸ばしそうになった。
でも、伸ばさなかった。
伸ばしたかった自分を責めることもしなかった。
会いたかった気持ちが残っていることと、許さないことは、同時に胸の中へ置いていい。
砂が落ちきった。
父は手を伸ばさなかった。
私も、触れなかった。
◇◇◇
面会後、記録の公開範囲を別室で決めた。
「全文を公開しますか」
法官が尋ねる。
「父は?」
「追放判断についての発言は、公的記録へ残すことを望んでいます。店についての部分と、赦しのやり取りは、あなたの同意がなければ非公開にすると」
私は考えた。
父が自分の王座を守るため、私の訴えを聞かなかったこと。
護衛を確かめなかったこと。
追放が正しくならないと認めたこと。
それは、王が行った公的判断の説明だ。
「追放判断と護衛の部分は公開記録へ。私が許すかどうかと、店の話は非公開」
「『今は許さない』という言葉も?」
「私の個人的な返答です。国民が王の責任を判断する材料へ、娘の赦しを混ぜないで」
父が謝ったから、王の責任が軽くなるわけではない。
私が許さないから、刑を重くするわけでもない。
法官は、公開記録と私的面会記録を二つの封筒へ分けた。
◇◇◇
面会が終わったからといって、次の面会が決まるわけではなかった。
「陛下が、もう一度会いたいと望まれた場合は?」
侍医長が尋ねる。
「今日と同じように、書面で伝えてください」
「容体が急変した場合でも?」
私は答えに詰まった。
最後になるかもしれない。
その言葉を使われれば、何度でも王宮へ来なければならない気がする。
「急変した事実は知らせて。でも、『最後だから会うべきだ』とは書かないで」
「承知しました」
「私が来なかったことを、父の治療へ影響させないでください」
「もちろんです」
侍医長は即答した。
「ただ、陛下の精神状態に、ご家族との面会が良い影響を与える可能性はあります」
「それを、私の義務にはしないで」
法官レオナが、記録へ一行加えた。
『治療上の利益は、家族へ面会を強制する根拠としない』
「逆も同じです」
レオナが私へ言う。
「あなたが会うことで心が軽くなる可能性があっても、陛下が体調を理由に断る場合があります」
「ええ」
父が謝りたいから、私は聞かなければならないのではない。
私が聞きたいから、父は話さなければならないのでもない。
「手紙なら、どうですか」
「陛下から私的な手紙を送る場合、政治的命令と見えないよう、公印を使わず侍医長経由にします。返事の期限も設けません」
「私から送る場合は?」
「同じです。公開や保管について、本人ごとに指定できます」
「返事をしない選択も?」
「あります」
私は、今日の面会を一度きりの奇跡にも、家族が元へ戻る最初の日にもしたくなかった。
一回会った。
謝罪を聞いた。
次に何をするかは、次の私が決める。
関係を続けるとしても、その都度、扉を開けるか尋ねられる形がよかった。
法官が作った面会後の連絡規則へ、私と侍医長が署名した。
◇◇◇
王宮を出る前、侍医長からもう一つ伝言があった。
「陛下は、体力が戻り次第、退位手続きを始めたいと望んでおられます」
「今、決められる状態?」
「その確認を、これから行います。退位、王室財産、継承はそれぞれ別の能力評価が必要です」
「私に、王位を?」
「陛下は、特定の継承者を指名する発言をしていません」
法官レオナが補足する。
「ただし、あなたの王籍と請求権が法的に曖昧なままです。追放命令は居住と宮廷資格を奪いましたが、継承法上の地位を明確に処理していない」
「私に戻る気はありません」
「お気持ちと、法的状態は別です」
父の退位手続きを始めるなら、継承候補を整理しなければならない。
以前、私は一方的に王宮から追い出された。
今度は、残っていた扉から、自分の意思で離れる署名を求められる。
「説明を受けます」
「今日、署名する必要はありません」
「ええ。急いで決めない」
私は、王宮の長い廊下を戻った。
父の謝罪を聞いた。
許すとは言わなかった。
それでも、来る前より一つだけ分かったことがある。
王宮へ戻らないという私の選択は、父を罰するためだけのものではない。
店の扉を、自分で選び続けるためのものだった。
正門の外で、アンナが待っていた。
「お帰りなさいませ」
その言葉に、足が止まる。
王宮を出たばかりなのに、帰る場所を示す声は、門のこちら側から聞こえた。
「ただいま。……店へ戻りましょう」
「はい」
「それと、帰りの馬車では、何も聞かないで」
「承知いたしました」
「でも、隣にはいて」
アンナは一拍だけ黙った。
「もちろんでございます」
その声を聞いた瞬間、張り詰めていたものがプツンと切れた。
「ああ、もう……疲れたぁ……!」
王宮の正門前だというのに、私は思いきり情けない声を漏らした。
「十五分って、こんなに長かった? 一晩の危機対応より息が詰まったんだけど!」
「比較対象が極端でございます」
「分かってるわよ!」
怒鳴った声は涙で掠れ、アンナは何も言わず私の歩幅へ合わせた。
私は振り返らなかった。
許すとも、忘れるとも、今日決める必要はない。
王宮の扉ではなく、自分で選んだ店の扉を開けるため、私はアンナと並んで歩き出した。




