第9話 防犯線を張る
昼の試験営業を終えた翌朝。
私は店の外壁へ足を掛け、窓枠によじ登ろうとしていた。
「この高さなら、少し身体を持ち上げれば手が届く。会計台までは無理でも、倉庫には近いわね」
「リリアーナ様」
店内から、恐ろしく静かなアンナの声がした。
「何?」
「防犯を調べる方が、ご自分から転落しないでください」
片足を窓枠へ掛けた姿勢のまま、動きを止める。
「侵入する人の気持ちを確かめていたのよ」
「侵入者の気持ちになる前に、店主の立場へお戻りください」
「でも、実際に登らないと分からないことも――」
「ありますけれど、落ちて足を折った場合の治療費と開店延期も分かりますね?」
「はい。今、ものすごく具体的に分かりました」
防犯確認中に店主が転落、正式開店は治療後に延期。
そんな残念すぎる伝説は、全力で回避したい。
ミアが笑いを堪えながら、私の外套をクイッと引いた。
「リリアーナ様。侵入者役なら、オルフ親方にお願いしましょう。たぶん私たちより頑丈です」
「そうね。親方なら窓より壁の方が先に負けそうだわ」
「聞こえてるぞ!」
店の奥から怒鳴り声が返ってきた。
どうやら壁より耳の方が強いらしい。
昨日、昼のお客様を迎えて分かったことは多い。
入口が見やすいこと。低い棚なら子供まで会計台から見えること。明るさが、知らない店へ入る警戒を和らげること。
けれど夜には、昼と違う危険がある。
酔った人。金や商品を狙う人。旅の途中で気が立っている人。暗闇に紛れ、窓や裏口へ近づく人。
昨日320銅貨を売り上げたことで、店にはお金があると村中へ知らせたようなものでもある。
「安全は、設備を買えば終わりではないわ」
会計台へ戻り、二人へ紙を見せる。
「気づく。距離を取る。助けを呼ぶ。逃げ道を確保する。この4つを順番に作る」
「戦う、は入っていないんですね」
ミアが尋ねた。
「絶対に入れない。商品も硬貨も、命より大事じゃないもの」
「でも、盗まれたら悔しくないですか?」
「悔しいわよ! 犯人の後ろで『それ500金貨の返済に必要なのぉぉ!』って地団駄を踏みたいくらい!」
「追いかけるのですか?」
「追いかけない! 地団駄は安全な場所で踏む!」
前世の夜勤では、強盗への対応訓練を受けた。
犯人の特徴を覚えるより、まず逆らわず、生きて帰ること。店長は何度もそう言っていた。
剣を持つ相手へ、私たち3人が勇敢さを証明する必要などない。
「ミア。怒鳴られても、元王女の私に命令されても、危険だと思ったら逃げていいからね」
「リリアーナ様が危険な命令をするんですか?」
「しないつもり。でも、上に立つ人は、自分の言葉がどれほど断りにくいか忘れることがあるの」
アンナが、ほんの少し驚いた顔をした。
「そのときは私が、最初に止めます」
「お願い。店を守る仕組みには、私を止める人も必要だわ」
「すでに毎日止めております」
「防犯以外の暴走まで数えなくていいの!」
それでも役割表の一番下へ、3人で書き足した。
――誰の命令でも、命を優先する。
◇◇◇
村外れの小屋には、乾いた薬草と古い本の匂いが満ちていた。
「おお、リリアーナ嬢。今度は何を思いつきましたかな」
白い髭の老人が、薬草をすり潰す手を止める。
マーリン。
かつて宮廷に仕え、今はスノーベル村で静かに暮らす退役宮廷魔術師だ。
「店の扉と窓へ、侵入を知らせる警報魔法陣を作っていただきたいんです」
「人の善悪を見抜く陣ですかな?」
「いいえ。悪意を見抜く魔法は、間違えたときが怖いです。営業時間外に扉や窓が開いたとき、あるいは強い衝撃が加わったときに知らせたいんです」
「泥棒だけを見分けてくれたら、便利ではありませんか?」
ミアが首を傾げる。
「買うか迷って窓を覗く人と、盗む場所を探して覗く人を、魔法がどう区別するの? 人の心を勝手に決めつける仕組みは危険よ」
「なるほど……私、昨日お菓子をずっと見ていた子まで不審者にしちゃうところでした」
マーリンが愉快そうに髭を撫でた。
「魔法へ何でも判断させようとはしない。よい考えです」
営業時間中、表扉はお客様の出入口として除外する。
ただし裏口と窓は、開閉や強い振動を感知する。
閉店後は表扉を含め、建物の周囲およそ2メートルを警戒範囲へ加える。
「感度を数字で分けるなら、営業中は3割ほど。閉店後は10割。ただし猫や風で鳴らぬよう、重さと衝撃の条件を重ねましょう」
「音は2段階にできますか?」
「営業時間中は会計台の石が光り、店内だけに短く鳴る。窓へ2度目の衝撃があれば大音量。閉店後の侵入は、最初から大音量でどうですかな」
「大音量は、村中へ響きますか?」
「響かせようと思えば、村長の家の茶まで揺らせますぞ」
「そこまで揺らしたら、侵入者より先に村長から苦情が来るわ!」
試験前には、近所へ時刻を知らせる。
大音量を使うのは、閉店後の侵入と、営業中に窓や裏口へ繰り返し強い衝撃があった場合だけ。
費用、魔石の交換、毎月の点検を決め、夕方に設置してもらうことになった。
◇◇◇
次に向かった衛兵詰所で、私たちを迎えたのはグリム隊長だった。
40代後半。短く刈った髪に白いものが混じり、こちらが挨拶を終えるまで一度も視線を逸らさない。
ハンスとベルトが姿勢を正す相手だと、声を聞く前から分かった。
「夜間営業の緊急連絡について、ご相談があります」
「村長から聞いています。どのような事態を想定していますか」
「酔客同士の喧嘩。武器を抜く人。窃盗や侵入。火災。それから店員やお客様の急病です」
「全部を同じ合図にすると、こちらは必要な人数と装備を決められません」
「伝令札で、種類を伝えられますか?」
店と詰所を一対の札でつなぎ、短い声を送る。
『喧嘩』『武器』『侵入』『火災』『急病』。
声を出せない場合は、触れる回数で緊急度だけを伝える。
「何かあったら、必ず3分で来ていただけます?」
グリムの眉が寄った。
「通常は5分以内の到着を目標にします。詰所にいるなら3分ほど。ただし巡回中の位置や別件への対応次第では、5分以上かかることもあります。『必ず3分』とは約束できません」
格好のいい保証ではない。
けれど、できない約束を「安心」という包装紙で包まれるより、ずっと信じられる。
「では最低でも5分を耐える前提で退避します。詰所から店が見えていても、連絡は省略しません」
「夜営業中は巡回経路を変え、おおむね1時間に1度、店の前を通ります。ただし店専属の警備ではありません。村の別の場所に事件があれば、そちらを優先します」
「当然です。店のために、村全体の守りを薄くしては意味がありません」
訓練日は明日。
誤報を避けるため、伝令の冒頭へ必ず『訓練』とつける。
実際の緊急時は、私かアンナが通報し、ミアはお客様を奥の退避場所へ案内する。
「私も伝令札を使えるようになりたいです」
「もちろん教える。ただし、侵入者を見に行かないこと。まず離れる。それを守れる人だけが札を持てるの」
「怖くても、確かめに行っちゃ駄目なんですね」
「怖いからこそ行かない。何がいるか分からない場所へ近づくのは、勇敢ではなく危険よ」
「守ります」
明るいだけではない、真剣な返事だった。
◇◇◇
午後、オルフ親方は窓枠を槌で叩きながら唸った。
「格子を入れりゃ頑丈になる。だが、牢屋みたいな店へ客が入りたいか?」
「入りたくありません」
「即答かよ」
「でも、安全のためなら多少は――」
「多少を我慢し続けると、最後には牢屋になる。見た目も仕事のうちだ」
親方が紙へ引いたのは、蔦が窓辺を這うような曲線だった。
葉の形をした節が横棒をつなぎ、外からは飾りに見える。
だが固定部は壁の奥の柱へ届き、窓枠だけを外しても抜けない。
「きれい……」
ミアが図面へ顔を近づける。
「隙間は、人の肩が通らない幅。内側から蝶番を外せば避難できる。火事のときまで閉じ込める格子は、防犯じゃねえ」
「お願いします。泥棒は止めて、お客様と私たちには牢屋だと思わせない窓にしてください」
「注文が多いな」
「親方なら、できると思っていますから」
「そう言われると、断りにくいじゃねえか」
口では愚痴りながら、オルフは少し嬉しそうだった。
夕方までに、表と裏の窓へ蔦模様の補強柵が取り付けられた。
同じ頃、マーリンも床と窓枠へ細い魔法文字を刻み始める。
線は会計台の小さな石へ集まり、閉店後には店の外周まで薄い膜を広げる。
「茶白の猫が、屋根裏を歩いたら?」
アンナが尋ねた。
「内側の登録印を首輪へつければ除外できます。ただし首輪を嫌がるなら、屋根裏は感知範囲から外しましょう」
「あの子、首輪をつけた瞬間に世界の終わりみたいな声を出しそうね」
「では屋根裏を外しますかな」
猫の尊厳と村の睡眠を守るため、即決した。
陣は、日暮れ前に完成した。
◇◇◇
翌日、グリムが2枚の伝令札を持ってきた。
1枚は会計台の下。
もう1枚は、厨房から2階へ逃げる階段の近く。
詰所側の受信札には、店の印が刻まれている。
「同じ場所へ2枚置けば、そこへ近づけないと両方使えませんから」
「それでは訓練を始めましょう」
まずは通常入店。
営業中の設定でミアが表扉から入り、棚を一周する。
警報は鳴らない。
「いらっしゃいませ!」
「なぜ、客役の自分で挨拶したの?」
「身体が勝手に……」
接客が染みつくのは喜ばしい。客役としては、ちょっと不安である。
次に、オルフが裏窓を一度だけ強く揺らした。
ピピッ!
会計台の石が赤く光り、店内に短い警報が鳴る。
2度目の衝撃で、外まで届く大音量へ変わった。
ビィィィィ――ッ!
分かっていたのに、肩がビクッと跳ねた。
「訓練、裏窓への侵入。店員3名、客役2名。負傷者なし」
私は伝令札へ告げる。
『受信。訓練班、向かいます』
アンナが入口から客役を離し、ミアは2階への道を示す。
私は会計台の現金箱へ手を伸ばしかけ――引っ込めた。
500金貨の返済。昨日の320銅貨。
置いていくの、ものすごく悔しい!
でも、硬貨は取り戻せても、命は買い戻せない。
「退避します!」
最後に厨房側へ下がった。
4分余りで、グリムとハンスが到着する。
「現金箱を持って逃げようとしなかったのは正解です」
「少し……いえ、かなり迷いました」
「次は迷わないでください」
「はい」
厳しい声だったが、必要な厳しさだ。
訓練は、そこで終わらなかった。
アンナが客役として中央で倒れた場合。
会計台の前で2人が喧嘩を始めた場合。
厨房から火が出て、2階への階段が使えない場合。
入口を塞がれた状態で、裏口までどう移動するか。
人形を抱えて裏口へ向かうと、倉庫に仮置きした木箱が通路を狭めていた。
普段なら避けられる幅でも、気が動転し、誰かを支えていれば足を取られる。
「在庫をここへ置くのは禁止ね」
「床に線を引きましょう。線の内側は、何があっても空ける場所です」
ミアの提案で、避難経路を黄色い塗料で示した。
さらに、窓辺へ置いた空箱が風で倒れ、営業中の小さな警報を一度鳴らした。
「誰も触ってないのに鳴りました!」
「侵入者は……風?」
「魔法陣の誤報の半分は、魔法ではなく片づけ不足が原因ですぞ」
マーリンは感度を調整し、窓枠から一尺以内へ物を置かない規則を勧めた。
便利な仕組みほど、使う側の習慣まで変えなければならないらしい。
閉店後の設定では、表扉を無理に開こうとした時点で大音量が鳴った。
近所には試験時刻を知らせてあったものの、窓から様子を見る人の姿がある。
訓練後、私たちは一軒ずつ回り、音の大きさと、驚かなかったかを尋ねた。
病人のいる家に近い側だけ、外向きの音を一段下げることにする。
防犯は、店だけ安全ならよいわけではない。
◇◇◇
ガレオ村長は、すべての訓練記録を確認した。
「警報魔法陣、窓の補強、2か所の伝令札、退避経路、衛兵の巡回。許可時に聞いた以上の準備です」
「実際に動かすと、音量や担当に修正が出ました」
「それも記録してください。『問題なし』という報告より、ずっと信用できます」
近所の人たちにも、警報が鳴ったときは店へ集まらず、戸締まりをして衛兵の指示を待つよう説明した。
「こんなに守られているなら、夜でも買いに来られるね」
一人の女性が蔦の補強柵を眺める。
「でも、警報が鳴るような相手が来る可能性もあるんでしょう?」
「あります。設備は危険を消すものではなく、早く知らせ、逃げる時間を作るものです」
安心させたいからといって、絶対安全とは言わない。
その正直さを嫌がられるかと思ったが、女性はしばらく考えた後で頷いた。
「なら、子供だけでは行かせない。私が一緒に来るよ」
「お願いします」
信頼とは、危険を隠すことではなく、同じ危険を正しく見ることなのかもしれない。
◇◇◇
その夜、グリムが最初の巡回で店の前を通った。
ミアはすでにロバートと帰宅し、私はアンナと閉店後の札の位置を再確認していた。
「準備は整いましたか」
「設備は整いました。あとは、私たちが手順を忘れないことです」
「正直に言えば、私は夜営業に反対でした」
「ガレオ村長から伺いました」
「店があるせいで人が夜に集まり、巡回の負担が増えると思っていた。今も、その可能性はあります」
グリムは、明るい窓を振り返った。
詰所から、その姿がはっきり見える。
「ですが、これまで真っ暗だった街道の角が照らされる。異変があれば連絡が来る。夜勤の者が休憩できる場所もできる。正しく運用すれば、守るべき弱点ではなく、見張りの目が一つ増えるかもしれません」
「店は衛兵ではありません。危険を見つけても追いかけない。それでも、灯りと連絡ならお手伝いできます」
「それで十分です」
グリムが差し出した手を握る。
店を守ってもらうだけではない。
店もまた、夜の村の一部として役割を持つ。
「明日の午前0時、正式に店を開けます」
「最初の巡回で寄りましょう。勤務中なので長居はできませんが」
「温かいスープを用意しておきます」
「代金は払いますよ」
「もちろんです。店主ですから!」
私たちは笑った。
夜明けの星は、明日初めて本当の夜に灯る。
それを守るのは、奇跡の魔法ではない。
何度も交わした約束と、互いの仕事を信じる人たちだ。
「最後にもう一度、避難訓練をするわよ」
「今からですか?」
アンナが空を見上げた。すでに月は高い。
「今だからよ。夜に迷わず動けるか確かめなくちゃ」
私が伝令札へ手を伸ばした途端、アンナとグリムが同時に止めた。
「本物は使わないでください」
「本物は使わないでください」
声まで綺麗に重なった。
「わ、分かっていたわよ。練習用を取ろうとしたの!」
「練習用は反対側です」
「……手が滑ったの!」
危うく開店前夜に衛兵全員を呼び集めるところだった。
防犯設備より先に、店主の暴走を止める仕組みが完成している。
頼もしい。
ものすごく悔しい。
私は何事もなかった顔で、練習用の木札を握り直した。
午前0時まで、あと1日。




