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第55話 民意は夜に集まる

「うわぁ……今夜は、本当に冷えますね」


 開店前、扉を少しだけ開けたミアが、すぐに肩を縮めた。


 議会で営業停止案が否決されてから、三日。


 王都は今年一番の寒波に覆われていた。


 昼から落ち始めた気温は、日没とともにさらに下がった。石畳の水たまりには薄い氷が張り、息を吐けば白さが長く残る。気象所の掲示には、夜半から雪、不要な外出を控えるように、と赤い文字が加えられていた。


「扉を閉めて。手がかじかむ前に」


「はい」


 店内には、魔灯と調理場の熱が満ちている。いつもなら心地よい温かさが、今夜は外との残酷な差に思えた。


 窓の向こうを、厚い外套に身を包んだ人々が足早に通り過ぎる。その中に、荷運び用の薄い上着しか着ていない男性がいた。路地の入口では、二人の女性が一枚の毛布を子どもへ巻き、自分たちは肩を寄せている。


「路地の先に、火を囲んでいる人が七、八人います」


 見回りから戻ったアンナが、手袋を外しながら言った。


「薪が湿っていて、煙ばかりです。警備隊も避難所へ案内していますが、北地区の会館はもう満員に近いそうです」


 鍋の中では、今夜売るための根菜スープが湯気を立てている。


 一杯あれば、少なくとも今は温まれる。


「みんな、相談があるの」


 私は、ミア、ロウ、アンナを呼んだ。


「今夜、温かいスープとおにぎりを無料で配りたい」


「店にある分を、全部ですか?」


 ロウの問いに、私は鍋を見た。


「……できるなら、全部」


 外では風がヒュウウッと唸り、窓枠を震わせている。


 今この瞬間にも、誰かが冷たい指を擦っている。だったら鍋を空にしてでも渡したい。明日のことなんて、明日考えればいい。


 そんな危うい勢いが、胸の中でドンッと立ち上がっていた。


 ミアの顔が明るくなった。


「やりましょう!」


「待って」


 アンナは賛成とも反対とも言わず、棚と鍋を見回した。


「何人分を、どこで、何時まで配りますか。通常のお客様の分は。材料を今夜使い切ったら、明日の営業はどうしますか。外に鍋を出すなら火事と凍結への対策も必要です」


 胸の勢いへ、一つずつ重しが置かれる。


「困っている人を前に、数ばかり気にするの?」


 言ってから、私は唇を噛んだ。


 アンナは目を逸らさなかった。


「数を気にするのは、途中で『もうありません』と言う相手を減らすためです」


「でも、数えている間にも冷えていくわ」


「だから急いで数えます。考えずに始めて混乱する時間の方が、長くなります」


「……正しい。正しすぎて、今はちょっと腹が立つ」


「存分に腹を立ててください。手は動かしていただきます」


 アンナは在庫表を私の前へバンッと置いた。


 私は大きく息を吐いた。


「ごめんなさい。あなたの言うとおりだわ」


 助けたいという気持ちは本物だ。でも、その気持ちが強いほど、準備を止める言い訳にしてはいけない。


「まず、王都の救護窓口へ連絡しましょう。避難所の空きと、食事を必要としている人数を聞く。治療所にも、低体温の人を見つけた時の連絡先を確認するわ」


「警備隊には、列の整理と、火を使える場所を相談します」


 アンナがうなずく。


「僕は在庫を数えるっす。明日の分と、今夜売る分を残して、何食作れるか出します」


「私は?」


 ミアが身を乗り出す。


「材料と注意表示をお願い。小麦、乳、卵を使っている品が分かるように。でも、あなたはいつもどおり、午前零時までよ」


「こんな日くらい、残れます」


「残りたい気持ちは分かるわ」


「分かってません! 外にあんなに人がいるのに、私だけ帰って暖かい布団へ入るなんて……ずるいです!」


「ずるくない。交代で休むの」


「でも、リリアーナ様は残るでしょう?」


「私は責任者で、明日の昼は休む。あなたは未成年で、決めた時刻に帰る。助けたい気持ちを、寒い場所に立った時間で競わせないわ」


「……帰る人も、役に立ってるんですか」


「明日交代できる人がいるから、今夜の人が休めるのよ」


「こんな日だからこそ。寒い場所で長く働けば、助ける側が倒れるわ」


 ミアは悔しそうに口を結び、やがて「分かりました」と答えた。


◇◇◇


 一時間後、店の横手に小さな配布所ができた。


 大鍋は外へ出さず、厨房の火床へ固定したままにする。店員が中で蓋付きの器へ注ぎ、横の窓口から渡す。滑りやすい石畳には砂をまき、受け取る列と通常の買物客の入口を分けた。


 今夜用意できるのは、根菜スープ百二十食と、塩むすび八十個。


「百二十……外にいる人は、もっと多いかもしれません」


「足りないわね」


 言葉にすると、胸がズキリとした。


「でも、百二十人へは渡せる。ゼロと百二十は違う。足りない分を隠さず、避難所へつなぐわ」


「僕、残数を一杯も間違えないっす」


「お願い。今夜の百二十は、売上より重い数字よ」


 救護窓口からは、南地区の織物会館に臨時避難所を追加したとの返事が届いた。店で休ませられる人数には限りがあるため、歩ける人には温かい食事を渡し、案内人が会館まで付き添う。震えが止まらない、受け答えがおかしい、歩けない人は、無理に食べさせず治療所へ連絡する。


 支援を受けるために、名前も住所も聞かない。


 なぜ困っているかを説明させない。


 署名も、宣伝への協力も求めない。


◇◇◇


「本当に、ただでもらえるのか」


 最初に窓口へ来た荷運び人は、疑うように器を見た。


「はい。根菜と鶏の出汁です。乳と卵は使っていません。小麦を使った調味料が少し入っています」


「名前は?」


「伺いません」


「後で返せって言わないか」


「言いません」


「何か紙に名前を書けとも?」


「言いません。議会への署名も、店の宣伝もありません」


「そんな都合のいい話があるかよ」


 男の声には、怒りより怖さがあった。


「疑うなら、蓋をしたまま避難所の係へ見せてください。ここで無理に飲まなくて大丈夫です」


 受け取る側にも、確かめ、断る権利がある。


「仕事場の親方に、知らせたりは」


「しません」


 彼はまだ納得できない顔をしていた。無料の物には裏がある、と覚えてきた人の顔だった。


「ここで飲まなくても大丈夫です。蓋をしますから、避難所へ持っていけます」


 しばらくして、彼は器を両手で受け取った。


「……妹の分も、いいか」


「もちろん。一緒にいらっしゃいますか?」


「縫製工房にいる。帰りが遅くなった」


 私は二つ目の器へ蓋をした。


 感謝の言葉はなかった。でも、それでよかった。妹へ温かい物を運ぼうとする手が、もう答えだった。


 幼い子を連れた女性は、列を前へ譲られて困った顔をした。


「私は歩けます。先にあのおじいさんへ」


「順番を入れ替えなくても、全員分あります」


 今は、と心の中で付け足す。


 用意した数には終わりがある。それを隠さないため、窓口の板へ残数を十食ごとに書いた。なくなった後は、食事が残っている避難所を案内する。


◇◇◇


 無料配布を始めて三十分ほどすると、ヴォルガーと二人の商人が現れた。


「手伝えることはありますか?」


「経験のある作業は?」


「商隊で大鍋を扱っています。火床の管理と、水の運搬なら」


「火に強いから、ではないんですね」


 ロウが確認する。


「私は火傷しますよ。普通に」


「すみません。角があると、なんとなく強そうで」


「先日は辛さ、今日は火。私の角へ多くの能力を期待しますね」


「次は何ができそうっすかね」


「増やさないで!」


 緊張していた商人たちから、クスッと笑いが漏れた。


 魔族だから火に強い、と決めつけることはしない。厨房の火床を見てもらい、消火砂と水の位置を確認し、ロウと交代で鍋を管理してもらった。


 もう一人は人間語の読み書きが得意で、交易語しか読めない人へ避難所の案内を訳した。三人目は初めての場所に緊張していたため、屋内で器と蓋を数える役を選んだ。


 同じ目的でも、できることは違う。


 尋ねて、任せて、無理なら替わる。それだけのことを、私たちは何度も確かめた。


◇◇◇


◇◇◇


 ミアが帰る時刻になった。


「あと少しだけでも」


「駄目よ。お父様が迎えに来ているわ」


 扉の外では、厚い外套を着たロバートが待っていた。


「でも、まだ列が」


「あなたが作った表示のおかげで、安全に配れている。今日の仕事は、もう果たしたわ」


「……本当に?」


「表示がなかったら、小麦を避ける人へ安全に渡せなかった。列を分ける札がなかったら、通常のお客様とぶつかっていた。あなたは十分に人を助けた」


「じゃあ明日、今日より役に立てるように寝ます」


「そうして。これは店長命令」


「はい。……でも寝坊したら起こしてください」


「お父様にお願いしなさい!」


 ミアは列と残数板を何度も振り返った。それから、窓口に立つ私へ深く頭を下げる。


「明日、早めに来ます」


「ちゃんと眠ってからね」


 親子の背中が通りの角へ消える。


 そのすぐあと、毛皮の襟を立てた男性が列の外で足を止めた。


 マクシミリアン議員だった。


 私は一瞬、手にした器を落としそうになった。


「これは……何をしている?」


「寒波のための食事配布です」


「店が独自に?」


「王都の救護窓口、治療所、警備隊と連絡しています。独自に用意したのは食事ですが、私たちだけで人を抱え込まないようにしています」


 マクシミリアンは、列の先に貼った案内へ目を走らせた。


「議会に見せるためか」


 その問いに、胸が痛んだ。


 けれど、彼がそう疑うのは当然でもある。営業停止案の直後に、元王女の店が大規模な慈善を行っているのだ。


「写真も、署名も、名前の記録もありません。議員がいらしたことも、宣伝には使いません」


「では、なぜだ」


「寒いからです」


「それだけか」


「最初はそれだけ。窓の外で震えている人を見て、放っておけなかったんです」


「衝動で始めた、と?」


「始めたかった、です。アンナに止められて、在庫を数え、役所へ連絡し、火を外へ出さない方法に変えました」


「止められなければ?」


「鍋を抱えて外へ飛び出し、百二十一人目の前で真っ青になっていたでしょうね」


「ずいぶん正直だな」


「善意があることと、善意だけで上手くできることは別ですから」


「私がここへ来た時、腹が立たなかったのか」


「立ちましたよ」


 即答すると、彼の眉が上がった。


「議会で店を止めようとした人が、今度は宣伝を疑う。正直、『こっちは寒くて忙しいのよ!』って鍋の蓋をバンッと閉めたいくらい」


「なら、なぜそうしない」


「あなたが嫌いでも、今ここで何を言ったかは別に聞かなきゃいけないからです。私は議会で、それをしてほしかった。なら、自分もします」


「嫌い、なのか」


「今のところ、かなり!」


 ヴォルガーが奥でむせた。


 マクシミリアンは怒る代わりに、鼻から白い息を吐いた。


「そこまで率直に言われるとは思わなかった」


「寒さで遠慮まで凍りました」


「始まりは、それだけです。でも、店だけでできることには限界があります」


 私は残数板を示した。残り四十七食。


「この数がゼロになったあとも、寒さは続きます」


 マクシミリアンは黙り込んだ。


「議員も、温かい物をどうぞ。列の方と同じスープです」


「私は宿へ帰れば食べられる」


「なら、必要な方へ残しますか?」


 以前の私なら、ここで無理に渡したかもしれない。敵にも優しくする自分を、周りへ見せるために。


 マクシミリアンは少し驚き、それから短く笑った。


「そうだな。今の私には必要ない」


 彼は帰らなかった。


 一人の老人が案内された避難所を聞き、眉をひそめていた。


「南地区まで歩けん。北の会館へ行けと言われて来たんだ」


 連絡札を確認すると、北地区の会館が満員になった情報は、古い案内所にまだ届いていなかった。


「伝達が切れているのか」


 マクシミリアンの表情が変わる。


「馬車を呼べますか?」


「議会の連絡馬車が近くにある。だが、私用で――いや、救護窓口の責任者へ正式に回させよう」


 彼は従者へ指示し、自分は店に残った。


「何人が、どの避難所を断られた?」


「個人の名前は取りません。人数と、案内できなかった理由だけなら記録しています」


「見せてくれ」


 マクシミリアンは外套を脱ぎ、帳場の端に座った。配膳を手伝おうとはしなかった。慣れない者が衛生手順へ入るより、自分ができる仕事を選んだのだ。


 北地区満員、七人。南地区への歩行困難、三人。家族と離れたくないため移動を保留、二組。治療所へ連絡、二人。


「避難所には空きがある、と昼の報告にはあった」


「王都全体では、です。でも、寒い中を別地区まで歩けない方がいます」


 数字の上の一席と、凍った道の向こうにある一席は、同じではない。


 マクシミリアンはその夜、空き状況の更新を受け、警備隊へ知らせ、移送馬車の順番を組み直した。


◇◇◇


 最後のスープを渡したのは、午前三時前だった。


 百二十食はなくなった。おにぎりは、翌朝に仕事へ向かう人のため、避難所へ二十個を送った。


 店へ来た人の全員を救えたわけではない。


 スープを受け取らず、場所だけ聞いて去った人もいた。勧めた治療を拒んだ人もいた。満員の会館から別の場所へ移ることを怒った人もいた。


 温かい一杯で、人生も政治も変わりはしない。


 それでも、今夜を越える助けにはなった。


「私は、営業停止案が間違いだったと、ここで美談にするつもりはない」


 記録を閉じたマクシミリアンが言った。


 ヴォルガーの手が、わずかに止まる。


「国境の補給所には、今も監督が必要だと思っている。軍事利用と情報流出への懸念も消えていない」


「はい」


 私は答えた。


「でも、全店舗を止めれば安全になる、という問いの立て方は間違っていた」


「その言葉を聞けたのは、嬉しいです」


 私は凍えた指を握り直した。


「でも、一杯飲んで感動したから全部分かり合えました、とは言わないでくださいね。議員はスープを飲んでいませんし」


「断ったからな」


「ええ。だからこそ信用できます。必要でない物を、格好のために受け取らなかった」


「褒められているのか、釘を刺されているのか」


「両方です」


 彼は、避難所の空き状況を書いた紙を見た。


「今夜、市の制度には食事も寝床もあった。だが、情報と移動手段が夜の途中で途切れていた。君たちの店は、その切れ目を見つけた」


「店だけで埋め続けることはできません」


「分かっている。善意を予算の代わりにしてはいけない」


 マクシミリアンは、ヴォルガーへ顔を向けた。


「一つ、教えてほしい。魔族領の商隊では、吹雪の夜に避難先の情報をどう共有している?」


 ヴォルガーは、思いがけない質問に目を瞬いた。


「鐘楼と、街道番の火です。ただ、国境では鐘の意味が違うことがあります」


「なら、そこから調べるべきだな」


 それは和解ではなかった。


 互いの不安が消えたわけでもない。


 けれど、相手を止めるための質問が、相手を知るための質問へ変わっていた。


◇◇◇


 翌日、マクシミリアンは議会で短い報告をした。


 夜明けの星を特別に称え、無条件の補助金を出そうとは言わなかった。代わりに、寒波時の避難所情報を夜間も更新すること、移送手段を確保すること、協力する民間店舗へ共通の衛生・費用精算・個人情報保護手順を作ることを提案した。


 その検討開始に、反対する者はいなかった。


 ただし予算と責任分担は、これから審議される。


 奇跡のような全会一致ではなく、次の寒い夜までに間に合わせるための宿題が残った。


「政治家も、変わるんですね」


 営業前、ミアが窓を拭きながら言う。


「一晩で別人になったわけじゃないわ」


「では、もう仲直りしたわけでも?」


「してない。かなり嫌いって本人へ言ったばかり」


「言ったんですか!?」


「寒さで遠慮が凍ったのよ」


「便利な寒波ですね……」


 私は向かいの通りを見た。


「でも、見たものを次の仕事に持っていける人ではあったのね」


 斜め向かいのヴェルナー商会王都支店では、昼になっても雪かきが終わっていなかった。


 荷車が一台、裏口で止まっている。御者は誰も出てこない扉を何度も叩き、やがて荷を積んだまま去っていった。


 窓の内側には、疲れ切った店員が一人だけ立っていた。


 寒波は、客のいない店にも、容赦なく積もっていた。


 向かいの店員が、重い袋へ一人で手を掛ける。


 持ち上がらない。


 ロウがこちらを見る。


「手伝ってきていいっすか?」


「業務と安全を確認して。向こうが断ったら戻ってきて」


 ロウは頷き、通りを渡った。


 競争相手の看板が弱ることと、そこで働く人が雪の下敷きになることは別だ。


 民意に勝った翌日、私たちは目の前の一袋を二人で持ち上げるところから始めた。

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