第54話 王都議会、営業停止案
『夜間営業の全面停止を求める緊急動議』
何度読み直しても、表題は変わらなかった。
対象は王都店だけではない。辺境店も、第二号店も含めた、夜明けの星の全店舗。可決された日の夜から営業を止め、国境の安全について調査が終わるまで再開を認めないとある。
「調査が終わるまで、という期限は?」
「書かれていません」
アンナの声が硬い。
期限のない停止は、閉店と同じになりかねない。
私の指先は震えていた。怒っているからだけではない。
最初の夜、誰も来ない店で一人きりだったこと。初めて商品が売れたこと。ミアが働きたいと言ってくれたこと。第二号店を任せる人たちと、何度も失敗したこと。王都店の開店を待つ列。
積み重ねてきた夜が、紙一枚で途切れるかもしれない。
「……全部、ですか」
自分の声なのに、遠く聞こえた。
「王都店だけではなく、スノーベル村も、リバーサイド村も?」
「はい」
「国境店なんて、まだ土すら掘ってないのに? 許可申請も出してないのに? 存在していない四店舗目のせいで、今ある三店舗を止める?」
悔しさがグツグツ煮える。
怒鳴りたい。紙を丸めて議会の扉へ投げつけたい。いっそ肉まんの蒸籠ごと持ち込み、「これを食べてから話しなさい!」と迫りたい。
駄目。最後の案は少し魅力的だけれど、完全に威圧である。
「審議は明日の正午です」
「今夜の営業は?」
「現行の許可は有効です」
「なら、開けましょう」
「眠ってからでも、よろしいのでは」
「眠れると思う?」
「思いません。ですから、せめて夕方まで横になってください。議会で倒れたら、営業停止より先に強制休業です」
「アンナ、言い方!」
「効いたようで何よりです」
声にした瞬間、震えが少し収まった。
「怖くても、今日来るお客様を置き去りにはできないわ」
◇◇◇
午前零時。
開店すると、いつもより静かな客たちが入ってきた。噂は、急使より速く王都を走ったらしい。
「本当に、明日で閉まるのか?」
冒険者のディランが、肉まんを受け取る前に尋ねた。
「まだ決まっていません」
「決まらせるものか」
衛兵のハンスが拳を握る。その隣で、同僚のベルトが低い声を出した。
「議事堂へ押しかけるか。俺たちが何人いると思ってる」
「それは、やめてください」
私は二人をまっすぐ見た。
「店を守るために、議員を怖がらせたくありません。武器を持った衛兵や冒険者が議事堂を囲めば、私たちの方が危険だという話にされます」
「じゃあ、黙って待てっていうのか?」
「いいえ。伝える方法を探します。ただし、正式なやり方で」
「正式、正式って、その間に店を取られたらどうする!」
ディランの声が荒れた。
「俺は、やっと夜に帰って来られる場所を見つけたんだ。机の上の紙一枚でなくなるなんて、黙っていられるかよ!」
「私だって黙っていられないわよ!」
思わず声を返し、店内がシン……となる。
「怖いし、腹が立つし、今すぐ議会へ走りたい。でも、怒った私たちが武器を持って押しかけたら、この店を危険だと言う人へ証拠を渡すことになる。それだけは、絶対に嫌」
ディランの拳が震え、やがてゆっくり開いた。
「……分かった。剣じゃなく、言葉で殴る」
「殴らない。届ける!」
「難しいな、正式なやり方」
奥の席にいたヴォルガーが立ち上がった。
「リリアーナさん。申し訳ありません」
いつも伸びている背中が、今夜はわずかに曲がっていた。
「我々が店へ来たからです。国境の話まで持ち込んだ。人間のお客だけなら、こんな動議は――」
「客として買物をしたことは、謝るようなことではありません」
「それでも、私が辛口スープを褒め、仲間を呼ばなければ――」
「ヴォルガーさん」
私は彼の言葉を止めた。
「あなたが来なければよかった、なんて結論で店を守ったら、私は明日この扉を開けられません。誰かを客にしたことを罪にする店へ戻したくない」
「……怒っておられますか」
「ものすごく。でも、あなたにじゃない」
ヴォルガーの曲がっていた背が、少しだけ戻った。
「ですが、皆さんの店が失われるかもしれない」
「その原因は、あなたではなく、話し合う前に全部を止めようとする決め方です」
私は言葉を切り、少しだけ息を整えた。
「国境店には心配される理由がある。それは認めます。でも私たちは昨夜、建設を決めていない。許可も飛び越えていない。その事実を説明します」
ミアが帳場から手を挙げた。
「私たちにも、できることはありますか?」
「店を閉めないでって、お客さんに書いてもらうのはどうっすか」
ロウの言葉に、常連の穀物商がうなずいた。
「議会への請願ですね。住民が審議中の案件へ意見を出す正式な制度があります」
「それだ!」
ディランが声を上げる。
「ただし、数を集めれば何をしてもいいわけではないわ」
アンナは、すでに紙を引き寄せていた。
「署名は本人の自由意思。署名したら値引き、というような利益は付けない。店員が購入客に署名を迫らない。名前と居住地区を確認し、同じ人の重複は除く。字を書けない方の代筆には、本人以外の立会人を置いて理由を残す」
「そんなに厳しくするのか?」
「はい。三千人と大きく叫んで、後から重複が百人見つかったら、残りの二千九百人まで嘘扱いされます」
「署名したら肉まん一個、も駄目っすか?」
ロウが尋ねる。
「絶対に駄目。署名を買ったと言われるわ」
「じゃあ、署名しなかった人には?」
「いつもどおり売ります」
「……それ、店がなくなるかもしれないのに?」
「だからこそよ。店を守るために、お客様の自由を壊したくない」
「反対する議員にも、偽物ではないと言える請願にするためです」
私はうなずいた。
「店内では署名を頼みません。希望する方へ、受付場所だけ案内しましょう」
署名は、私への忠誠を試す札ではない。書かない人も、明日また同じ客として迎える。
◇◇◇
夜が明けると、アンナと私は議会の請願窓口へ向かった。
用紙と提出方法を確認し、受付場所は三店舗の外ではなく、冒険者ギルド、商工会館、各地区の公共掲示所に置いた。各団体が、自分の名と責任で管理する。
冒険者ギルドのエリオット事務官は、事情を聞くとすぐに立ち上がった。
「ギルドとして意見書を出します。ただ、店を褒める文章だけでは足りませんね」
「夜に戻った人が利用した記録と、利用できなかった時の困り事を分けてください。推測は推測だと書いていただけますか?」
「分かりました。救援依頼の帰着時刻と、食料を補給できた件数を確認します」
医療関係者の組合も、協力を申し出た。
「夜間の連絡箱が役立った例はあります」
組合の書記は、分厚い記録を開いた。
「ただし、死亡率が店だけで下がった、とは証明できません。夜間巡回の増員や、治療所の当直変更も同時期です」
「そのまま書いてください」
「よろしいのですか? 効果を大きく見せた方が――」
「大きく見せた数字で営業を守っても、次の検証で崩れます」
店が診断や治療をしたわけではない。低危険度の衛生用品を売り、連絡をつないだ。その範囲で助かったという証言なら、胸を張って出せる。
商工会からは、夜間の売上と雇用について意見書が出た。しかし、そこにも私は注記を頼んだ。
夜の通りが明るくなったのは、店だけの成果ではない。警備隊の巡回、周辺店舗の灯り、住民の見守りが重なっている。犯罪の届け出が減った地区があっても、別地区や前年同月との比較なしに原因は断定できない。
「あなたは、自分に有利な資料まで弱くするのですね」
商工会の担当者が苦笑した。
「いいえ。壊れにくくしているんです」
「ですが、自分に有利な数字を自分で小さくするのは、悔しくありませんか」
「悔しいですよ! 『死者四割減! 犯罪二割減! 夜明けの星、大勝利!』って議会の壁いっぱいに書きたい!」
担当者が目を丸くした。
「でも、その一行で一票を取れても、嘘だと分かった日に信用を百票失います。私は明日だけ勝ちたいんじゃない」
店を守りたい。
そのために、自分を大きく見せる誘惑まで退けなければならないのが、ひどく腹立たしかった。
◇◇◇
昼前までに、請願受付には列ができた。
「夜勤明けに、温かい物が買える場所が必要です」
「うちの宿では夜食を作れない日がある。店があるから、遅れて着いた客へ案内できる」
「競争相手だから、全部賛成ではない。でも、突然止めるやり方には反対だ」
署名する人の理由は、一つではなかった。
魔族客との交流が楽しいという人もいれば、国境店には慎重だが既存店は残すべきだという人もいた。
私は、その違いが嬉しかった。
同じ結論へ至るのに、同じ考えを強いる必要はない。
ミアは父親の了承を得て、午前中だけ公共掲示所に立った。涙で同情を誘うのではなく、自分の言葉で説明した。
「私は夜明けの星で働いています。でも、署名しなくてもお店の利用は変わりません。分からないことがあれば、用紙を書く前に聞いてください」
ロウは、字の苦手な人へ項目を一つずつ読み上げた。代筆はせず、立会人を呼ぶ。
「面倒でも、本人の声じゃないと意味がないっすから」
締切までに集まった用紙は、三千四十一人分。
けれど、アンナはその数字を請願書の表には書かなかった。
「本人と居住地区を確認できたのは、二千四百八十六人です。残り五百五十五人は、時間までに重複確認が終わりませんでした」
「三千人集まった、と言いたくなるわね」
「ええ。でも、確認できた数だけを提出します。残りは確認後の追加分です」
「三千四十一から二千四百八十六……数字がゴソッと減ると、心まで削られるわ」
「減ったのではございません。確認を待っているだけです」
「分かってる。でも見出しの勢いが!」
「議会へ広告を提出するのではありません」
「はい……」
アンナの正論に、私の宣伝魂がスン……と座った。
二千四百八十六。
派手な三千という数字より、そこにいた一人一人の方が重かった。
◇◇◇
正午。王都議会の傍聴席で、私は採決を待った。
議事堂の外には、市民が集まっている。ただし、議会事務局が示した広場の半分を越えず、通路を空け、武器を持ち込まない。各団体の世話役が、声を上げず静かに待つよう呼びかけた。
中へ届くのは、怒号ではなく、人のいる気配だけだった。
マクシミリアン議員が演壇へ立つ。
「私は、魔族を客として迎えたことだけを罪だと言っているのではない」
その言葉に、議場のざわめきが収まった。
「問題は、一商店が国境の補給拠点という国家級の役割へ踏み込みつつあることだ。補給所は、商人を助ける。同時に軍をも助け得る。通行する者の情報は、諜報に使われ得る。これを友好という言葉だけで進めてよいのか」
さらに彼は、急速な多店舗化が既存業者を圧迫すること、深夜労働の監督制度が追いついていないことを挙げた。
胸に刺さる言葉もあった。
すべてが言いがかりではない。だからこそ、全店停止という結論だけを退けなければならない。
革新派議員が立ち上がる。
「国境政策を議会が監督すべきだという点には同意する。だが、国境店はまだ現地調査の段階だ。王都から遠く離れた辺境店まで即時停止させることと、どのような関係があるのか」
「事業全体を止めなければ、既成事実が積み上がる」
「ならば、国境店の申請を審査すればよい。既存の許可に基づき営業する店へ、期限のない停止を命じるのは過剰だ」
次に、エドガー・ホワイトフィールドが行政側の参考人として呼ばれた。
「提出された治安資料には改善傾向があります。ただし、夜間巡回や街灯整備の効果も含まれ、夜明けの星だけの因果とは断定していません」
「では、店の公益性は証明されていないではないか」
「店に効果がない、という意味でもありません。営業記録、周辺聞き取り、警備記録を合わせて継続評価すべきです」
医療関係者も、連絡箱が治療所への到着を早めた事例を示した。一方で、店員は診断も投薬もしておらず、今後もその線を守ると証言した。
都合のよい奇跡は、一つも語られなかった。
それでも事実は、店を支えてくれた。
◇◇◇
やがて、議長が私の名を呼んだ。
「リリアーナ・フィオーレ。国境店の建設を、魔族領商業連合と合意したのか」
「いいえ」
私は昨夜の条件書を掲げた。
「合意したのは、現地調査を行うことだけです。土地、水、安全、近隣住民への影響、両国の許可を確認し、条件が整った場合に六か月の試験運営を申請します」
「店を軍へ使わせない保証は?」
「どちらの国の旗も詰所も置かず、客の購入情報を監視目的で渡さないことを条件にしました。必要なら議会と両国実務者の監査を受けます」
マクシミリアンが私を見る。
「監督を受けると言いながら、この動議には反対するのか」
「監督と停止は違います」
喉が乾いた。それでも、一語ずつ言葉にした。
「危険があれば調べ、改善を命じてください。国境店の計画に不備があれば、許可しないでください。でも、まだ起きていない問題を理由に、三つの店で今夜食事を必要とする人と、働いて暮らす人を一度に切り離すのは、釣り合っていません」
「国家の安全と、一商店の利益を同じ秤へ載せるのか」
「載せているのは利益だけではありません」
喉がカラカラだった。
「三店舗で働く人の賃金、その家族の食事、夜勤者の補給、診療所への連絡。止めた先で失う物まで数えてから、必要な措置を選んでください」
「では、何があっても営業を続けると?」
「いいえ。具体的な危険があり、改善まで止める必要があるなら従います。でも今回の動議は、国境店の懸念を理由に、無関係な店舗まで期限なく止める。広すぎます」
マクシミリアンの目を逸らさなかった。
怖い。膝はもう、机の下でガクガクだ。
でも、震えることと退くことは同じではない。
「魔族との交流を続けるつもりか」
「店の規則を守る方なら、人間でも魔族でも客として迎えます。危険な行為をした人なら、どちらであっても断ります」
私は頭を下げ、席へ戻った。
膝が震えていることは、長い机が隠してくれた。
◇◇◇
採決の鐘が鳴った。
一人ずつ、賛成か反対かが読み上げられる。
数える途中で、何度も息を忘れた。
「賛成、十二。反対、四十三」
十二。
四十三。
頭の中で数字が一拍遅れて意味へ変わる。
議長が木槌を打つ。
「夜間営業の全面停止動議は、否決されました」
――勝った。
やった。やった、やった、やった!
胸の中では私が机の上へ駆け上がり、「営業継続、キター!」と拳を突き上げている。
現実の私は、立ち上がるどころか腰が抜けそうだった。
「リリアーナ様、呼吸を」
アンナに囁かれ、ようやく息を吐く。
「してなかった……」
「存じております」
傍聴席で歓声を上げそうになったミアが、自分で口を押さえた。アンナがその肩を抱く。私は椅子の背へ手を置いたまま、しばらく立てなかった。
勝った。
けれど、十二人の懸念が消えたわけではない。
続いて議長は、夜間営業に関する共通基準を、公開の検討会で整えると告げた。労務、安全、騒音、医療連絡、国境事業の監督。夜明けの星への公式支援が決まったのではない。すべての夜間事業者に同じ基準を作るための、話し合いが始まるだけだ。
それでよかった。
議事堂の外へ出ると、待っていた人々の間を結果が波のように伝わった。
歓声は上がったが、誰も議事堂へ詰め寄らなかった。ディランは拳を空へ上げたあと、周りの人と通路を空ける。ハンスとベルトは衛兵として、人の流れを整えた。
ヴォルガーが私の前へ来る。
「よかった。本当に」
「ええ。でも、これで全部正しかったことになったわけではありません」
「今くらいは、もっと喜んでもよいのでは?」
「喜んでるわよ! 内心では五周くらい走り回ってる! 足が動かないだけ!」
ヴォルガーが吹き出した。
「国境店の調査は?」
「続けます。反対した人にも見せられる調査にしましょう」
署名してくれた人。署名しなかった人。賛成した議員。反対した議員。
その全員が、今夜も同じ王都で暮らす。
民主主義は、正しい人が悪い人を打ち負かして終わる物語ではないのかもしれない。違う考えを持つ人と、明日の決め方を残すための、手間のかかる約束なのだ。
◇◇◇
その夜、店では小さな乾杯をした。
酒類販売の許可はないから、温めた果実水とスープである。営業の邪魔にならないよう、閉店後に店員と数人の協力者だけが残った。
「二千四百八十六人の勝利ですね」
ロウが言うと、アンナが首を振る。
「投票した五十五人も、資料を整えた人も、静かに待った人も含めて、手続きが守られた結果です」
「難しいっす」
「私も、まだ難しいわ」
私が笑うと、張り詰めていた空気がようやくほどけた。
ミアは両手で杯を包み、湯気の向こうから私を見る。
「明日も、お店を開けられるんですね」
「ええ。明日も、その次の夜も」
ミアの唇が、へにゃりと歪んだ。
「よかったぁ……私、説明している間は泣かないって決めてたんです。でも今は、もういいですよね?」
「いいわよ。私も今、かなり危ない」
「では、泣く前に乾杯いたしましょう」
アンナが杯を持ち上げる。
「泣いたら果実水がしょっぱくなりますので」
「アンナ、その理由、実務的すぎない?」
「味は大切でございます」
皆が笑い、笑った拍子にミアの涙が一粒だけ杯の外へ落ちた。
その言葉を口にできることが、こんなにも嬉しい。
窓の外では、夜半から風が強くなっていた。
扉の隙間から入り込む冷気に、ミアが肩をすくめる。
「急に冷えましたね」
「今夜より、明日の方が寒くなるそうです」
アンナが気象所の掲示を畳んだ。
三日後、王都は今年一番の寒波に覆われることになる。
政治の嵐を越えたばかりの私たちは、その夜まだ、空から来る試練の重さを知らなかった。
温かい果実水を一口飲む。
甘い。熱い。ようやく息が戻る。
「今日は眠れそうですか?」
アンナに尋ねられ、私は窓の外の風を見た。
「眠るわ。明日も店を開けるために」
全面停止を退けた夜の勝利は、夜通し騒ぐことではない。
次の営業へ備えて、全員が暖かい寝床へ帰れることだった。




