第56話 商会の疲弊
寒波の翌朝、ヴェルナー商会王都支店の前には、雪より先に荷物が積もっていた。
樽が四つ。小麦の袋が六つ。封をされた木箱が三つ。
御者が裏口を叩いても、しばらく誰も出てこない。ようやく現れた店員は一人きりで、帳簿と荷物を交互に見て途方に暮れていた。
「向かいのお店、昨日から人が少ないですね」
窓を拭いていたミアが言った。
「寒波で来られない人がいるんじゃないっすか?」
ロウは店先へ砂をまく手を止めない。
「そうかもしれないわ」
私は窓から離れた。
ヴェルナー商会には、価格競争も、悪い噂も、買収も仕掛けられた。相手の看板から活気が消えているのを見て、胸のどこかが軽くなったことは否定できない。
もう妨害されないかもしれない、と。
――ざまあみなさい。
胸の奥に、ほんの一瞬だけ、その言葉が浮かんだ。
値下げで潰され、仲間も店も奪われる――そんな想像で、眠れない夜は一度や二度ではない。少しくらい溜飲が下がっても罰は当たらない、と思いたい私もいた。
けれど。
けれど裏口で荷物を抱える店員は、私に買収を持ちかけたヴィクター・ヴェルナーではない。寒さで赤くなった手も、途方に暮れた顔も、勝ち負けの印には見えなかった。
「リリアーナ様。少しよろしいでしょうか」
アンナが応募書類を三枚持ってきた。
「今週だけで、ヴェルナー商会を退職した方から3件の応募がありました」
「3人も?」
「はい。面接に来ること自体を、裏切りだと思っている方もいるようです」
「仕事を替えるだけで裏切り者扱い? 辞めるにも覚悟が要るじゃない」
「長時間勤務と、現場の意見が届かないことは共通しています。ただし、まだ本人たちの申告だけです」
「同じ人から聞いた話を、3人分に数えてはいない?」
「面接前の申告ですので、まだ事実確認はしていません。勤務部署は別です」
アンナは書類を裏返した。
「それから、採用枠は2人です。元ヴェルナーだから優先も排除もしない、ということでよろしいですね」
「ええ。前の職場の秘密を持ってくる人は採れない。それも最初に伝えましょう」
相手が弱った時に顧客名簿や仕入れ先を奪えば、やっていることはヴェルナー商会と変わらなくなる。
私が欲しいのは、敵の秘密ではない。
ここで働きたい人の、これからだった。
◇◇◇
最初の面接へ来たのは、ハルトという青年だった。
ヴェルナー商会王都支店で3年。売り場と、焼き菓子の仕込みを担当していたという。
「面接を始める前に、確認します」
私はアンナ同席の席で、説明書を読み上げた。
「前の店の顧客名、仕入れ価格、契約先、未公開の製法は聞きません。ご自分で作った控えを持っていても、ここへは提出しないでください」
「それでは、私が役に立つことを示せないのでは」
「あなた自身が経験した仕事なら話せます。どんな時に困り、どう対応し、ここで何をしたいかを聞かせてください」
「商会の看板ではなく、ハルトさん自身が覚えたことを見ます。失敗も含めて話してください」
ハルトは膝の上で組んだ手を見つめた。
「正直に言います。私は、安定した賃金が欲しいです」
「大切なことです」
私が答えると、彼は顔を上げた。
「もっと立派な志を言うべきかと思っていました」
「生活が続かなければ、良い仕事も続きません」
「妹がいるんです。春から学校へ行くはずで……給料が遅れた月、母から『今月は送らなくていい』と手紙が来ました。そんな時ほど、送らなくていいわけがないんです」
言葉の最後が、グシャリと潰れた。
「なのに私は職場で、お客様に笑えと言われたり、笑う時間があるなら棚を埋めろと言われたり……どっちなんだよって。もう、分からなくなりました」
「……それから、売る物を恥ずかしいと思わずに働きたいです」
値下げ競争が始まってから、材料の変更が続いたという。小麦は品質のばらつきが大きい物へ替わり、バターを減らし、保存日数を延ばした。
「変更したことは、お客様へ説明しましたか?」
「値札には、書きませんでした。原材料表は裏にありましたが、以前と同じ商品名で売りました」
「あなたは、どうしたの?」
「最初は従いました。家族へ送る金が必要でしたから」
ハルトの指が強く組まれる。
「苦情が増えて、売り場の責任者へ表示を変えたいと頼みました。でも、『安くしたのだから客も分かっている』と。私は、その返事をそのままお客様へ言ったことがあります」
彼は自分を、ただ命令に苦しんだ善人として飾らなかった。
「その方は、どんな顔をしましたか?」
「怒りませんでした。パンを置いて、もう来ないと言いました」
「怒鳴ってくれた方がましでした。『お前は嘘つきだ』と殴られた方が……いや、殴られるのは嫌です。嫌ですけど! でも、あの人は私の顔も見なくなったんです。私は毎朝、その人が孫に持っていく丸パンを包んでいたのに。名前だって知っていたのに!」
ハルトの拳が膝の上で震えた。
「店へ立つたび、次は誰を追い返すんだろうって。けれど辞めたら給料がない。残れば、自分の口で客を追い返す。どちらを選んでも最低だと思いました」
怒鳴られるより、その静かな背中がつらかったのだと、ハルトは言った。
その後、接客に時間をかけるな、苦情は書面だけ受け取れ、売上につながらない案内はするな、と指示が増えた。人が辞めても補充されず、一人当たりの閉店作業が長くなった。
「退職した理由は、良い接客ができないからです。それも本当です。でも、一番は、次の給料が全額出るか分からなくなったからです」
「きれいな理由だけじゃありません。怖かったんです。店が沈むなら、巻き込まれる前に逃げたかった。今ここで格好をつけたら、採ってもらえても、また同じ嘘をつくことになるから」
「分かりました」
アンナが記録を閉じた。
「お話は採用の判断にだけ使います。商会へ問い合わせる場合も、在籍期間と職務、懲戒の有無に限ります」
話が誠実に聞こえても、一人の証言だけでは決められない。残る2人にも同じ面接を行った。人員削減、材料変更の説明不足、本社承認なしでは現場が動けない点は一致したが、割増料金の時期や上司の発言は食い違った。アンナは、違いも違いのまま記録した。
◇◇◇
翌日、アンナが公開情報と店頭観察をまとめた。同じ曜日と時間帯で3回数えた客は、半年前の商工会調査より少ない。公開求人は2か月で5件、営業時間短縮は2回。ただし帳簿は非公開で、寒波の日の納品遅れ一件だけを常態とは決めつけられない。
「十分よ。これ以上は探らないで」
店を守る調査と、弱った相手の懐をのぞくことは違う。
夜になると、客たちも向かいの店について話した。
「前よりパンが硬くなったよ」
ディランが言う。
「安くなったんじゃないの?」
ミアが尋ねる。
「最初はな。でも先週は、夜間取扱料が付いていた。値札の横に小さく書いてあって、会計で気づいた」
「会計の店員、俺が『聞いてない』と言ったら、泣きそうな顔で『書いてあります』と繰り返した。あいつも何十回と言わされてるんだ」
衛兵のハンスは、薄くなったスープよりも、返品の説明が人によって違ったことを不満に思っていた。
「疲れていたんだろうとは思う。でも、同じ商品なのに、交換できると言う店員と、できないと言う店員がいたんだ」
「客は占い師じゃないんだ。今夜当たる店員が交換派か拒否派かなんて、扉を開ける前に分かるかよ」
ハンスの怒りは、声を荒らげるより重かった。
不満のすべてを、面白がるように並べさせない。
「個人の悪口にはしないでくださいね」
私が言うと、ベルトがうなずいた。
「分かってる。俺だって夜勤明けは愛想が消える」
ヴォルガーはしばらく迷ったあと、自分の経験を話した。
「私は一度、入店を断られました。魔族へ売る品はない、と」
店内の空気が固くなる。
「誰が言ったのですか?」
「名前は知りません。若い店員でした。店の方針か、その人の判断かも分かりません」
「抗議は?」
「その場を離れました。揉めれば、魔族が暴れたという噂だけが残るかもしれないと思って」
ヴォルガーは穏やかに言ったが、握った杯の中でスープが揺れていた。
「嫌だった、と言っていいんですよ」
ミアの声には、怒りよりも悔しさがあった。
「ええ。嫌でした」
「腹が立ちました。怖くもありました。私はただ買い物をしたかった。それだけなのに、自分が危険ではないと証明してからでなければ、パン一つ買えないのかと……悔しかった」
いつも言葉を整えるヴォルガーの声が、珍しく震えた。
「ここでは、証明なんていりません」
ミアはカウンターから身を乗り出した。
「入ってきて、こんばんはって言って、お腹が空いたって愚痴って、肉まんにするかおでんにするか真剣に悩めばいいんです。私たちが困るのは、魔族だからじゃなくて、後ろに列ができるほど悩まれた時です!」
「私は昨日、7分悩みました」
「それです! そこは反省してください!」
ヴォルガーが吹き出し、固まっていた空気が少しだけほどけた。
ヴォルガーは初めて、はっきりと言った。
その一件を商会全員の罪にはしない。けれど、分からないから無かったことにもしない。誰が判断し、どう是正するか。店の信頼は、失敗した時の道筋で決まる。
◇◇◇
その翌週、レオナルド・ブランクが店へ来た。
同じレオナルドという名でも、先日来店した宮廷顧問レオナルド・ブラックソーンとは別人だ。ヴェルナー商会王都支店を任されている男で、以前は私たちの店を値下げで追い込もうとした。
今夜のレオナルド・ブランクには、支店長の徽章がなかった。
「閉店後に、少しお話をいただけませんか」
「店の営業に関することですか。それとも、ヴェルナー商会との交渉ですか?」
「どちらでもありません。私個人の相談です」
私はアンナの同席を条件に、午前4時の閉店後に席を設けた。
「どうすれば、あなたのような店を作れるのでしょう」
レオナルド・ブランクは、冷めた茶へ手をつけずに言った。
「私の支店は、客が減り、従業員が辞め、本社からはさらに経費を下げろと言われています」
「ヴェルナー商会の経営相談なら、お答えできません」
「分かっています。ただ、どこで間違えたのかが、もう自分では――」
「本当に、分かりませんか?」
彼の言葉が止まる。
「材料を替えた。店員を減らした。苦情へ時間を使うなと命じた。夜間の割増料金を、分かりにくい表示で加えた。あなたは、そのどれも知らなかったのですか?」
「本社の方針でした」
「あなたは支店長です」
「分かっています!」
レオナルド・ブランクの拳が机を打った。茶がビクリと跳ねる。
アンナが一歩前へ出たが、私は片手で制した。
「……分かっているんです。毎晩、あの看板を見るたびに。部下の目が死んでいくたびに。ですが、私に何ができたというんですか。本社へ逆らえば、私一人が切られる。家族もいる。積み上げた立場もある。正しいことを叫んで無職になれば、それで立派ですか!」
「立派かどうかを聞いているのではありません」
「では何を!」
「怖かったと、最初からそう言ってください。本社の方針という四文字の後ろに隠れないで」
言い切った途端、胸が痛んだ。
私だって追放された時、王女の身分も家族の庇護も失った。怖さを知っている。だからこそ、その怖さを部下へ押しつけてよいとは言えなかった。
沈黙が落ちた。机の向こうにいるのは、分かりやすい悪役ではない。命令へ逆らえず、だからといって責任も消えない、疲れた男だった。
「私は、反対意見を本社へ2度送りました」
レオナルド・ブランクが、かすれた声で言う。
「却下されました。その後は、書かなくなった。自分の地位を失うのが怖かったのです。代わりに、もっと速く働けと店員へ言った。辞めた者を、根性がないとまで言いました」
「根性がなかったのは私です。上へ三度目の手紙を書かず、下へ怒鳴った。支店長室の扉を閉め、現場のため息を聞こえないふりをした。……最低でしょう」
「ええ。最低です」
レオナルド・ブランクが、殴られたような顔をした。
「そこは慰めてくださらないのですか」
「今の話のどこに、慰められる材料がありました?」
「一欠片もありませんでした……」
「でも、最低だったと自分の口で言えたなら、次に何をしないかは選べます」
「その人たちには?」
「謝っていません」
「なら、商売の方法より先に、することがあるのではありませんか」
彼は長くうつむいた。
「……はい」
「安さは悪くありません。数字も必要です。でも、品質を変えたなら説明する。店員が危険や無理を言える。苦情を集めて、同じ失敗を繰り返さない。その約束がなければ、安さは信頼を削って作る値段になります」
「夜明けの星では、誰が支店長へ反対できるのですか?」
「全員です」
私は即答した。
「もちろん、何でも意見どおりにはできません。でも、理由を記録し、返事をする。アンナは私が無理をすれば止めます。ミアはお客様に伝わらない表示を見つけます。ロウは現場で持てない荷物の量を教えます」
「店主が、間違う前提なのですね」
「人間ですから」
その答えに、レオナルド・ブランクは初めて茶を一口飲んだ。
◇◇◇
一週間後、ヴェルナー商会王都支店の扉へ閉店告知が貼られた。
継続的な赤字により、営業を終了する。
予約品は本店で引き渡し、返品は30日以内に受け付ける。従業員の賃金については、順次精算する。
「勝った、ってことですか?」
ロウが小さな声で尋ねた。
「私たちの店が残ったという意味ではね」
「やったー、って飛び跳ねてもいいのかと思ってました。あんなに嫌なことをされたし……リリアーナ様が倉庫で頭を抱えてたのも知ってます」
「見てたの?」
「見えました。隠れるなら、肉まんの箱の後ろは狭すぎます」
「今それを暴露する!?」
恥ずかしさで耳が熱くなる。あれは隠れていたつもりだったのに。
「ざまあみろって言いたい。でも、あの人たちの給料まで消えてほしくない。……グチャグチャです」
「それでいいのよ。悔しかったことまで、立派に忘れなくていい」
私は閉じた扉を見つめた。
「私もホッとしてる。でも、私たちを傷つけた人と、パンを並べた人は別よ」
私は、看板を外す職人たちを見た。
「でも、向こうで働いていた人が職を失うことまで、勝利と呼びたくないわ」
アンナは、商工会の再就職窓口と、未払い賃金の相談先を紙へまとめた。夜明けの星で全員を雇うことはできない。それでも応募に来た人へ、別の選択肢を渡すことはできる。
ハルトは通常の選考を経て、2つある採用枠の1つに決まった。希望していた調理ではなく、まず表示と品出しの研修から始める。
「雇っていただいたことを、前の店の人へ言いづらいです」
「言わなくていいわ。でも、ここへ来たことを恥じる必要もありません」
その日の夕方、レオナルド・ブランクが再び現れた。
「もう、支店長ではありません」
閉店告知より、その一言の方が、彼には重いようだった。
「お願いがあります。私を雇っていただけないでしょうか」
その一言を吐き出すまでに、彼の喉は何度も動いた。
「元支店長という肩書は、ここでは役に立ちませんよ」
「分かっているつもりです。ですが、怖い。年下の者に教わり、失敗を見られる。以前の部下には、今さら善人ぶるなと恨まれるでしょう」
「それでも?」
「逃げたままなら、一生『本社が悪かった』と言い続ける。それだけは嫌なんです」
「以前の部下が応募していることは、知っていますか?」
「はい。顔を合わせたくない者もいるでしょう」
「あなたを採ることで、誰かが安心して働けなくなるなら受け入れられません」
「承知しています」
「前職の情報は持ち込まない。支店長待遇にはしない。通常の身元確認と面接を受ける。採用されても、最初は一般スタッフとして30日間の試用。過去に関わった応募者の採否には、一切関与しない」
「すべて受け入れます」
「もう一つ。あなたに傷つけられた人が、すぐ許すとは思わないでください」
レオナルド・ブランクは、深く頭を下げた。
「許してもらうためではなく、同じことをしないために学びたいのです」
面接の結果、彼は2つ目の枠で試用されることになった。
初日は、ミアから挨拶と商品説明を、ロウから荷受けの手順を教わった。
「お客様は神様ですから、何でも言うことを聞く……ではないですよ」
ミアが先に釘を刺す。
「違うのですか?」
「お客様も店員も人です。だから、約束した物をきちんと渡して、困っていたら一緒に考えます。でも、危ないことや誰かを傷つけるお願いは断ります」
「『お客様のため』って言えば、店員が倒れるまで働かせてもきれいに聞こえます。でも私は、ロウさんが倒れたら商品より先に担架を探します。たぶん」
「たぶんを入れないでほしいっす」
「絶対です! 絶対に担架が先です!」
「安心したっす」
「私は、その両方を忘れていたようです」
レオナルド・ブランクは、商品棚へ向かってまで頭を下げそうになり、ロウに止められた。
「頭を下げるより、重い箱を上に置かないでほしいっす。落ちたら危ないんで」
「……はい、先輩」
年下のロウへの返事に、店内で笑いが起きた。
◇◇◇
閉店後の振り返りで、レオナルド・ブランクは失敗を3つ書いた。
挨拶が長すぎて列を止めた。商品名を知っているつもりで確認を飛ばした。空いた棚を隠そうとして、補充予定を客へ説明しなかった。
「数字を追うことが悪いのではありません」
私は彼の記録を見ながら言った。
「欠品の回数も、待ち時間も、苦情も、次を良くするための数字です」
「信頼は、数字の外にあると思っていました」
レオナルド・ブランクは首を振った。
「違いました。信頼がなければ、数字が長く続かないのですね」
その時、裏口の呼び鈴が鳴った。
雪まみれのゼルドが、大きな図面を抱えて立っていた。
「リリアーナ様。3か月準備していた夜間集配センターですが、試験運転の結果が出ました」
疲れを忘れた顔で、彼は笑う。
「いよいよ、本格稼働へ進めます」
二人の新人が、同時に顔を上げた。
一つの物流が終わり、新しい扉が開こうとしていた。
ゼルドが図面を広げようとし、今度はレオナルド・ブランクがサッと蒸し器を移動させた。
「図面に肉まんの匂いがつくと伺いました」
「もう共有されてるんすか、その失敗」
ロウが吹き出す。
失敗が笑い話として次の人へ渡る店なら、同じ失敗は少し減らせる。
商会が疲弊しても、働く人の暮らしは止めない。
新しい物流は、図面を置く場所から皆で決めることになった。




