第38話 模倣店の崩壊
「リリアーナ様、レッドクリフ村の夜営業店のことなんですが……」
王都の視察団を見送った日の夕方、ミアが困った顔で声を掛けてきた。
「最近、ほとんど客が入っていないそうです。うちへ来る人が、『向こうはもう終わりだ』って」
胸のどこかで、やはり、と思った。
私たちの店を表面だけ真似し、安さを掲げて客を奪おうとした店だ。失敗して当然だという、小さく冷たい安堵まであった。
ほら見たことか。値段だけ下げ、同じ店を作ったつもりになるからよ。
『模倣店、自滅! 本家の勝利! ざまぁ――』
そこまで浮かんで、私は自分の内心にギョッとした。
いや、待って。
店主が悔しがるだけならともかく、その店で食べるのは普通の客だ。酸っぱい物や汚れた調理台まで、勝敗の演出にしていいわけがない。
「リリアーナ様?」
「今、ものすごく感じの悪いことを考えたわ」
「どんなことですか?」
「言葉にすると、もっと感じが悪くなるから秘密。でも、その気持ちで動かないようにする」
ミアは少し迷った後、頷いた。
「私も、『やっぱり夜明けの星の方がいいでしょう』って、ちょっとうれしくなりました。……でも、食べた方が具合を悪くしたなら、喜んじゃ駄目ですよね」
「気持ちは、勝手に出てくるわ。出てきた後、何をするかは選べる」
「何が起きたの?」
「衛生が悪いとか、品切ればかりだとか。でも、全部お客様から聞いた話です」
ミアは、自分で最後に付け加えた。
「では、まだ噂ね」
人の店が崩れる話は、面白いほど速く広がる。
王宮で私について広がった言葉も、誰が確かめたのか分からないまま、最後には事実の顔をしていた。
「今夜、レッドクリフから戻る商人さんが来るそうです。聞いてみますか?」
「聞くなら、買い物のついでに探る形にはしないわ。話してよい範囲だけ、本人に確かめましょう」
その夜、商人は温かいスープを飲みながら、実際に見たことを話してくれた。
「店の床に包み紙が残り、釣り銭も二度間違えられた。欲しい品は三つ続けて売り切れだったな」
「酸っぱい臭いのおにぎりがあった、という話は?」
「俺は見ていない。そう言っていた客は知ってる」
「店主が『安く売ってやっている』と言ったのは?」
「それは、この耳で聞いた」
「どんな時に?」
「釣り銭が違うと若い職人が言った時だ。店主は忙しそうでな。『安くしてるんだから、そのくらいで騒ぐな』と返した」
「間違いを認めずに?」
「ああ。だが、俺が見たのはその一度だ。いつもそうだとまでは言えん」
「ありがとうございます。そこを分けてくださって」
「噂話をしに来たみたいで、気分はよくないな」
「でも、見たことと人から聞いたことを分けてもらえたので、確認できます。『ひどい店らしい』の一言だけより、ずっと助かります」
「お前さん、あの店が潰れれば客が増えるんじゃないか?」
「増えるかもしれません。正直、それを少しうれしいと思った自分もいます」
「正直だな」
「きれいな顔だけしても、心の中まで清掃できませんから。せめて行動は、客の安全を先にします」
商人は目を丸くし、それから声を立てて笑った。
「店の床だけでなく、店主の腹の中まで点検中か」
「ええ。こちらは毎日、汚れが見つかります」
見たこと、聞いたこと、人から聞いたこと。
一つずつ分けてメモした。
翌朝、商業ギルドを通じ、レッドクリフ村の衛生担当へ確認する。時刻管理のない作り置きと、清掃記録の不備で、食品販売の一部が停止されていることは事実だった。
体調被害は確認中。店は調査が終わるまで、対象の商品を売れない。
「客が減ったことより、先に見るべき話がありましたね」
ミアの声から、競争相手への軽い好奇心が消えた。
「ええ。売れない店を笑う話ではなく、食べた人を守る話よ」
◇◇◇
翌日の午後、見覚えのない中年の男性が店の前に立っていた。
上着は上等なのに、袖口には白い粉が付き、目の下が落ち窪んでいる。
「リリアーナ様でいらっしゃいますか」
「はい。どちら様でしょう」
「レッドクリフ村で夜営業店を営む、グレゴリーと申します」
模倣店の店主だった。
彼は店へ入る前から、深く頭を下げた。
「お願いがあります。どうすれば、あなたのような店を作れるのか、教えていただけませんか」
声が震えていた。
競争相手に助けを求めるため、村を越えてきた。その屈辱は、想像できる。
追放直後の私は、元王女の自分が廃屋を借りたいと頭を下げるたび、残っていた誇りを一枚ずつ剥がされるように感じた。
目の前の彼も、同じように歯を食いしばっているのだろう。
けれど、私が味わった屈辱と、彼が客へ渡した危険は別だ。
つらそうでも、責任を薄めれば被害を受けた人が置き去りになる。
だから、すぐ助けると答えたくなった。
「お茶をどうぞ」
ミアが温かい器を置く。
グレゴリーは両手で包んだが、口を付けなかった。
「教える前に、確かめたいことがあります。販売停止になった品は、すべて隔離しましたか」
「はい」
「すでに買った方への告知と返金は?」
「村役場へ掲示を……。でも、返金まではまだ」
「従業員へは?」
「私の店です。責任は私が――」
「なら、なぜ清掃記録と温度札がなかったのか、ご自分の判断を説明してください」
彼の指が、器の上で固まった。
「困っているから、過去は気にしない、とは言えません。お客様が食べた物も、店で働いた人の時間も、なかったことにはできないからです」
「……私を責めたいのでしょう」
グレゴリーの声が低くなった。
「責めたい気持ちはあります。私たちの店を安さだけで真似された時、腹が立ちました。失敗したと聞いて、『当然だ』とも思いました」
「なら、笑えばいい。あなたは正しかった。私は間違えた。それを聞きに来たんです」
「違います」
思ったより強い声が出た。
「正しい私に頭を下げれば、酸っぱい品を買った人の代金が戻りますか? 娘さんの眠れなかった夜が返りますか? 私に負けた顔をするより、そちらへ向いてください」
グレゴリーの頬が、悔しさに歪んだ。
「簡単に言うな。掲示を出せば、村中に失敗が知れ渡る。返金すれば、残った金もなくなる。娘へ謝れば、どんな父親だったか認めることになる!」
「簡単だなんて言っていません!」
私も、会計台へ手をついた。
「怖いに決まっているでしょう。私だって、失敗を見せたらまた居場所を失う気がして、帳簿を隠したくなる。でも、怖いことと、しなくていいことは同じではありません」
店内がシン……と静まった。
アンナは止めなかった。
助ける前に、互いの言い訳を剥がすための話だ。
グレゴリーは長い間、湯気を見ていた。
「安さなら勝てると思いました」
やがて、絞り出すように話した。
「開店のために借金をした。早く客を集めなければ返せない。値段を下げ、材料を安い物へ替え、人を一人減らした。私と娘で穴を埋めればよいと」
「娘さんの勤務時間は?」
「昼の仕事の後、夜明けまで。清掃まで手が回らなくなり、売れ残りも捨てられなかった。注意されると、私は『安くしているのだから我慢しろ』と……」
客へだけでなく、家族へも言ったのだろう。
「娘は、三日前から店へ来ません」
「止めたのですか。それとも、来なくなった?」
「来なくなりました。『もう、お父さんの店で倒れたくない』と」
彼は、そこで初めてお茶へ口をつけようとした。しかし器が唇へ届く前に、手が震えて戻ってしまう。
「私は、家族なら最後までついてくると思っていた。給金が遅れても、眠れなくても、店が軌道に乗れば分かってくれると」
「家族は、無料で壊していい従業員ではありません」
「……はい」
店が崩れたのは、客足が消えた時ではない。
値札を守るために、支えていた人の眠りと声を削った時から、崩れ始めていた。
「立て直しはできます。ただし、私たちの店の真似をする前に、販売停止への責任を果たしてください」
「何をすれば」
「衛生担当の指示に従う。対象品を廃棄し、販売日と品名を掲示する。買った方へ返金し、体調不良なら医師へつなぐ。再検査を通るまで食品を売らない。従業員へ未払いの時間があれば支払う」
「それをしたら、店に戻る客は一人もいないかもしれません」
「戻るかどうかは、お客様が決めます。店を続けたいから、赦してもらうことまでは求められません」
「あなたなら、戻りますか」
「今は戻りません」
グレゴリーの肩がビクリと動いた。
「安全を確認できないからです。返金し、清掃し、再検査を受け、記録を続ける。それを見てから、買うかどうかを選びます」
「助けると言いながら、客にはならない?」
「助けることと、信用したふりをすることは違います。ここで私が一個買って『もう大丈夫』と笑えば、あなたは一日だけ楽になる。でも、本当に必要なのは、明日も時刻札を書くことです」
グレゴリーは目を閉じた後、ようやくお茶を一口飲んだ。
「それでも、やります。閉めるとしても、借りを残したまま逃げたくない」
その返事を聞いてから、支援の話を始めた。
◇◇◇
私たちが渡したのは、秘密のレシピではなかった。
手洗い、清掃、加熱、冷却、時刻札、廃棄、釣り銭、苦情、休息。どの食料店にも必要な基盤を、商業ギルドと衛生担当を通じて共有する。
「夜明けの星の名前を使わせてもらえませんか」
「使えません。こちらが品質を確認し続けられない店へ、保証のように看板を貸すことはできないわ」
「そこまで線を引くのですね」
「引きます。手を貸すのは、相手の店まで自分の物にすることではありません。あなたの店がまた失敗した時、『夜明けの星も同じだ』と言われるのが怖いという本音もあります」
「ずいぶん正直だ」
「聖女ではなく店主ですから。守るべき看板もあります」
「では、おにぎりの作り方は」
「炊いた米の安全な扱いは教えます。具の配合と仕入れ契約は、それぞれの店で作る部分です」
助けることと、すべてを明け渡すことは違う。
しかも、私一人が店へ乗り込み、正解を教える形にはしなかった。
衛生担当が販売停止品を十四個確認し、六個がすでに売れた可能性があるとして掲示を出した。グレゴリーは代金を返す袋を用意する。
アンナは、値札ごとの原価と賃金を分けた帳簿を作った。
「一銅貨のおにぎりを続けると、一個売るたび、誰かの賃金が減ります」
「値上げしたら、安さを期待した人が離れます」
「離れないよう隠すのではなく、今までの価格が続かなかった理由を掲示してください」
「値上げと失敗を同時に知らせろと?」
「はい。胃が痛くなるほど嫌な掲示です」
「あなたでも嫌なのですか」
「大嫌いです。『価格改定のお知らせ』なんて、書き出しだけで筆が三回止まります。でも、安さの裏で娘さんの給金を消すより、客へ説明して選んでもらう方がいい」
アンナは新しい値札案を、グレゴリーの前へ置いた。
「言い訳ではなく、材料、賃金、清掃時間を含めるための変更だと書きましょう」
ゼルドは仕入れを見直した。
品切れを恐れて多く頼み、売れ残りを翌日に回す一方、必要な包み紙や洗浄材が不足していた。まず二週間、三品だけに絞り、少量を確実に運ぶ。
ロウは床、棚、調理台の動線を確認した。
「掃除する人が悪いというより、この棚だと奥へ手が入らないっす」
固定棚を壁から離し、清掃具の置き場を決める。重い水桶を一人で何度も運ばなくて済むよう、小さな桶へ分けた。
ミアは接客を担当した。
「笑顔の練習を、すればいいでしょうか」
グレゴリーの質問に、ミアは首を振った。
「眠っていない人に笑顔を作らせても、長続きしません。まず勤務を分けてください。その上で、『いらっしゃいませ』より先に、間違えた時の『確認します』『申し訳ありません』を練習しましょう」
「客は、明るい店員を喜ぶのでは?」
「明るい方が話しかけやすい人もいます。でも、疲れているのに口角だけ上げたら、だんだんお客様が憎くなりませんか?」
グレゴリーが答えられず、視線を落とした。
「私も、つらい日に元気な声が出ないことはあります。そんな時はアンナさんに会計を代わってもらう。ロウさんは力仕事へ回る。誰か一人の笑顔へ、店全部を背負わせないんです」
「でも、交代すれば人件費が増える」
「だから、その人件費を払えない値段を先に直すんです」
ミアの声は柔らかいまま、少しも逃げなかった。
「愛想がないと、また言われませんか」
「静かな接客が好きなお客様もいます。笑顔を商品みたいに強制しなくても、挨拶をして、注文を復唱し、釣り銭を一緒に数えれば、敬意は伝えられます」
私はミアの横顔を見た。
初めて働いた頃、教えられる側だった少女が、今は人の働き方まで考えて言葉を選んでいる。
店を増やす力は、私の知識だけではなかった。
◇◇◇
グレゴリーの店は三日間、食品販売を止めた。
その間も日用品は、衛生担当が許可した区画だけで売った。返金へ来た客には理由を言い訳せず説明し、希望者へ代金を戻した。
娘のマリーと、もう一人の従業員には、未払いだった夜間手当を分割で支払う合意を結んだ。
再検査の日、調理台、保管箱、手洗い水、清掃記録、勤務表が確認された。
すべての問題が消えたわけではない。借金は残り、客の信用も戻っていない。
それでも、三品に限った一週間の再開許可が下りた。
ロウが共同便でレッドクリフを通った夜、店の前には四人の客がいたという。
「前みたいな行列じゃなかったっす。でも、床はきれいで、品切れは残数札で先に分かるようになってました」
「四人……」
胸の中で、うれしさがパッと灯る。
同時に、「たった四人」と言いたがる私もいた。
以前の列と比べれば寂しい。劇的復活、大逆転、大行列! そんな見栄えのよい報告ではない。
でも、その四人は、店が失敗を認めた後でも、自分で戻ることを選んだ人だ。
借り物の称賛百人分より、ずっと重い四人だった。
「グレゴリーさんの接客は?」
「注文を二回復唱してました。ちょっと固かったけど、釣り銭は客と一緒に数えてたっす」
「客は、何と言っていました?」
「そこまでは聞いてません。配達の途中で、店を調べに行ったわけじゃないから」
ロウも、見るべき境界を覚えている。
「立て直した、と言うのはまだ早いですね」
ミアが言った。
「ええ。でも、立て直す一日目には立てたと思うわ」
成功を一週間で断定すれば、また数字に追われて無理をする。
次は一か月後に、廃棄、勤務、苦情、返金の残りを見直す予定になった。
◇◇◇
その夜、グレゴリーと若い女性が店へ来た。
「娘のマリーです」
紹介された女性は、父親と同じ色の髪を短く結んでいた。
「父がお世話になりました」
「頑張ったのは、皆さんです」
「そう言ってくださるのはありがたいです。でも、全部よくなったわけではありません」
「マリー」
「お父さん、今日はお礼だけ言えばいいと思っていたでしょう。でも、助けていただいたからこそ、もう“元どおりです”みたいな顔をしたくないの」
グレゴリーは反論しかけ、深く息を吐いた。
「……そのとおりだ」
マリーは父を見た。
「お父さんは、店を守るためだと言って、私たちが疲れたと言うのを聞かなかった。謝ってくれましたし、勤務も分けました。でも、私はまだ夜勤へは戻っていません」
グレゴリーは言い返さず、頷いた。
「戻るかどうかは、娘が決めます。親子だから働いて当然だと思っていました」
「店が再開したから、家族まで元どおりになるとは限りませんものね」
私が言うと、マリーの表情が少し緩んだ。
「今は昼に、帳簿だけ手伝っています。雇用時間を書いて、お父さんにも休みを取らせるために」
「私は娘に管理されています」
「自業自得です」
「休憩の鐘が鳴ると、帳簿を取り上げられます」
「取らないと、お父さんは『あと一行だけ』を二十回やりますから」
「二十回は言いすぎだ」
「昨日、数えました」
ピシャリと返され、グレゴリーが黙る。
二人のやり取りに、ミアが小さく笑った。
グレゴリーは包みを会計台へ置いた。
「店で作り始めた、豆と香草の平焼きです。夜明けの星の品を真似るのではなく、レッドクリフでよく採れる豆を使いました」
「販売品なら、代金を払います」
「お礼として持ってきたのですが」
「改善途中の店から、商品を無償でもらって成功談にすることはできません。皆で食べる分を買わせてください」
グレゴリーは驚いた後、正式な領収札を切った。
平焼きは少し固かったが、香草の香りは豆によく合っていた。
「まだ、改良できますね」
「はい。そう言ってもらえる方が安心します」
「今度は、ほかの村の商人へ私が教えたいと思っています」
「何を教えますか?」
「失敗した値付けと、販売停止になった時の手順を。うまい接客や料理は、まだ教えられません」
完璧な店主になったわけではない。
けれど、分からないことを分からないと言える店主にはなり始めていた。
◇◇◇
二人を見送った後、ミアが平焼きの残りを包んだ。
「競争相手を助けて、損をしたと思いますか?」
「短い目で見れば、戻った客がいる分は競争が増えたでしょうね」
「それでも、よかった?」
「ええ。ただし、私が器の大きな人だからではないわ」
誰かを助ける話は、助けた側を立派に見せる物語になりやすい。
でも、衛生担当が検査し、アンナが帳簿を作り、ゼルドが仕入れを組み、ロウが棚を動かし、ミアが接客を教えた。グレゴリー自身が返金し、マリーが父へ境界を引いた。
「一人では、できなかったからです」
その時、入口の鐘が鳴った。
入ってきたのは客ではなく、立派な封書を持った使者だった。
「リバーサイド村長、フレデリック・マールより、正式な面会のお願いです」
封書には、川沿いで夜勤をする人々のため、夜明けの星の二号店を作れないかと書かれていた。
表面だけを真似た店の失敗を、私たちは今、見てきたばかりだ。
次は、自分たちの手で店を増やす。
同じ看板を掲げるなら、献立より先に、判断と責任をどう渡すかを考えなければならなかった。
「二号店……」
声に出した瞬間、胸の中で祝砲がドドン! と鳴った。
「まだ面会のお願いです」
アンナが一発で鎮火する。
「分かっているわ。需要、許可、建物、警備、採算、人員、地域の意見」
「よくできました」
「子供扱いしないで!」
ミアとロウが笑いながら、レッドクリフ店の失敗記録を卓へ運んだ。
浮かれるのは一分。
その後は、看板より先に渡すべき仕組みを全員で洗い出す時間だった。




