第32話 ポイント札は正義
「最近、お客様へ、もう少し目に見える形でお礼ができないかと考えているの」
営業を終えた朝、私は会計台の下から一枚の紙を取り出した。
昨夜、薬棚のことで書き加えた一文が一番上にある。
『参加は自由。名前や買った物を、必要以上に集めない』
本音を言えば、私は昨夜からずっとウズウズしていた。
常連さんへのお礼。再来店のきっかけ。仕込み数を読む手掛かり。こういう話を前にすると、私の頭の中の商売人は営業明けでも元気いっぱいに起き出す。
『新制度、キター! 十回来たら一つお得! 常連さんも店もニッコニコ!』
……と、昨夜までなら勢いだけで叫んでいた。
しかし今、紙の一番上には薬師に叩き込まれた教訓が、赤い縄のように横たわっている。
便利のためなら何でも集めていいわけではない。善意は足が速く、気づけば相手の暮らしへ上がり込んでいる。
「お礼、ですか?」
ミアが箒を止め、ロウは運んでいた空箱を床へ置いた。
「何度も来てくださる方に印を渡して、十個集まったら小さな特典を選べるようにするの。ポイント札、と呼ぼうと思います」
「ぽいんと……?」
「買い物をすると、札に一つ印が増える。十個で、おにぎりや温かい汁物と交換できる仕組みよ」
前世では珍しくもなかった。
客にまた来てもらい、買い物の傾向も知る。そんな仕組みを扱う仕事も経験したことがある。
「札にお名前を書くんですか?」
ミアに聞かれ、私は用意していた別の紙を見た。
名前。年齢。仕事。よく来る時刻。好きな品。
そこまで分かれば、一人一人へ合わせた品を準備できる。昨夜までなら、迷わずそう説明しただろう。
けれど、薬棚の連絡簿から病状を外した時、エルウィン先生は言った。
知る必要のない相手が、知らないままでいることも守りになる、と。
「いいえ。何も書かなくて使える札を基本にしましょう」
口にした瞬間、用意していた顧客名簿案が脳内でバサバサッと崩れ落ちた。
名前、年齢、仕事、来店時間、購入品、好み。商売人から見れば宝の山。けれど、客から見れば「どうして店がそこまで知っているの?」という恐怖の山にもなる。
ああ、惜しい。でも、惜しいから集めてよいなら、世の中の秘密は全部商人の帳面行きである。そんな世界、怖すぎるわ。
「なくした時は、どうするっすか?」
「無記名なら戻せない。それでも復元を希望する人だけ、名前と札の番号を別帳へ登録する。ただし、買った物までは記録しないわ」
ミアが、ほっとしたように箒を動かした。
「私、好きな物を覚えていただけるのはうれしいです。でも、いつ来たかを毎回書かれていたら、ちょっと怖いかもしれません」
「聞いてくれてありがとう。親切に使える情報は、別の誰かには監視に使えるものね」
「でも、品の人気は知りたいっすよね?」
「おでんが何杯売れたか、どの時間に客が何人来たかは、今の売上帳でも分かるわ。誰が何を買ったかと結びつけなくても、仕入れは改善できる」
人を数字へ変えなくても、必要な数は数えられる。
「よし。まずは札の試作品ね」
「それならオルフさんっす!」
ロウが即答した。
◇◇◇
「朝から来たと思えば、今度は客に木切れを配りたいだと?」
オルフは呆れた顔をしながら、私の図を裏返した。
「木切れではありません。感謝がたまる札です」
「言い方を飾っても木札だろうが」
「木札ですけど! ただの木札ではありません。お客様が『あと少しで星がそろう』と胸を躍らせ、私たちは『また来てくださった』と感謝できる、夢と再来店を背負った木札です!」
「背負わせすぎだ。木が泣くぞ」
「では、少し軽くして、感謝と再来店だけで」
「夢を下ろすな。そこだけ妙に現実的だな、お前は」
むう。元王女を「お前」呼ばわりする職人なのに、商売の見栄だけは容赦なく削る。その遠慮が、今はありがたい。
「十個の丸を彫って、印を押せるようにしたいんです。持ち歩ける大きさで、角は丸く。店の名前も入れてください」
「百枚作るなら、芸術品にはできんぞ」
元の案では、一枚一枚へ細かな星空を彫ってもらうつもりだった。
でも、札が高価になれば、特典より札そのものの費用が大きくなる。仕事を頼む以上、オルフの手間も無料にはできない。
「同じ型で彫れる簡素な星にしましょう。試行分は五十枚。材料費と工賃を見積もってください」
「使い回しは?」
「十個たまって交換した札は店で回収し、表面を削り直せるなら再利用します」
「なら、厚みが要るな」
オルフは端材の箱から、乾燥した樫の板を選んだ。
「印を客が真似たらどうする?」
「そこまで考えていませんでした」
「客を疑うためじゃない。紛らわしい印で客を疑わずに済むよう、先に作るんだ」
彼が考えたのは、二つに割れた星の印だった。
店の押し具には星の上半分、木札の十個の枠には下半分があらかじめ彫られている。正しい位置へ押した時だけ、一つの星になる。
完全に真似られないわけではないが、軽い特典のために細工するには手間がかかる。
「それでも偽物が出たら?」
「人前で盗人扱いはするな。いったん交換を止めて、俺のところへ持ってこい。木目と刃の跡を見れば分かる」
「オルフさん、優しいですね」
「違う。俺の札で喧嘩されるのが嫌なだけだ」
翌日、完成した木札は手のひらに収まる大きさだった。
十個の小さな半星が輪になり、中央には『夜明けの星』の文字がある。見本へ一つ印を押すと、欠けていた星がぴたりと完成した。
「これ、集めたくなるっすね」
ロウが子どものように札を光へかざす。
「集めるために、いらない物まで買わせてはいけないわ」
私は自分にも言い聞かせた。
光へかざされた札の半星は、いかにも「埋めてください」と誘ってくる。
集めたい。そろえたい。あと一つなら買ってしまいたい。前世の私だって、期限間近の印を見て、欲しくもない甘い物を会計台へ置いたことがある。
そして帰り道、「私、何と戦っていたの?」と袋を見つめた。
あの虚無を、客へ売れない。
◇◇◇
制度の決まりは、札より時間がかかった。
一会計につき一印。ただし、一枚につき一晩一つまで。多く買った人ほど早くたまる仕組みにはしない。
十印で交換できるのは、原価を確認した指定品から一つ。小さなおにぎり、日替わりの汁物、麦茶、保存に問題のない焼き菓子。
薬や医療用品、予約品、ほかの職人から預かっている委託品は対象にしない。在庫が切れている時は、次回まで印の埋まった札をそのまま使える。
「どんな商品でも一つ、の方が喜ばれませんか?」
ミアが聞いた。
「高価な品を選ぶ人が悪いような空気になるでしょう? 選べると言っておいて、これは駄目と会計台で争うより、最初から範囲を示した方がいいわ」
「じゃあ、一番安い麦茶を選んだ人が損した気分にならないっすか?」
「値段の差は小さくする。それに、特典は競争ではないと掲示しましょう。札を持つ人が使えるから、家族へ渡しても、友人へ譲ってもいい」
「でも、譲っていいなら、十個たまった人が偉いわけじゃないんですね」
ミアが少し残念そうに言う。
「偉くないわ。夜勤が多かった人、家族の買い物を任された人、たまたま店の近くで働いている人。それぞれ事情が違うもの」
「表彰式はなしっすか? 俺、鐘を鳴らす役ならできますよ。ジャーン! 十個達成ーっ! って」
「絶対に駄目。次の人が九個だったら、悔しくて不要なお菓子を買うでしょう」
「じゃあ、小声で。……十個達成っす」
「囁いても競争は競争よ」
ロウがしょんぼり鐘の真似をやめ、ミアが吹き出した。
私も笑ったけれど、羊皮紙には太く書いた。
『十個は、勝ち負けではありません』
押し間違えた場合は、店員名と時刻を裏へ書き、二人で確認して直す。常連だから一つ多く、初めての客だからなし、という扱いはしない。
登録を希望する人には、別帳へ名前と札番号だけを書く。
何のために記録するか。誰が見られるか。最後に利用してから半年で登録を消すこと。途中で消してほしいと言えること。
それを短い説明札にし、読めない人には声に出して伝える。
「ポイント札を断った方には?」
「もちろん、今までどおりの接客よ。断った理由も書かない」
特典を受けない自由があるから、参加は自由と言える。
最後に収支を計算すると、十回来店ごとの特典原価だけでなく、札の工賃、押し具、説明の時間も費用になることが分かった。
「来店が増えるはず、で埋めてはいけませんね」
アンナが帳面を指す。
「まず五十枚、四週間の試行。費用が続かなければ特典を小さくするか、制度を止める。その場合も、すでにたまった札は期限まで交換できるようにしましょう」
「始めたら永遠に続ける、ではないのですね」
「続けられない約束は、最初からしない方がいいもの」
◇◇◇
導入初日の午前零時。
私は会計台の横へ木札と説明板を並べた。
「本日から、希望する方へポイント札をお渡しします。一晩に一つ印がたまり、十個で掲示中の品一つと交換できます」
「一度に十個買えば、十個押してくれるのか?」
ベルトが早速尋ねた。
「いいえ。一晩一つです」
「商売人なら、十個買わせるところじゃないのか」
「必要のない十個を買っていただくより、必要な一個で明日も暮らしていただきたいので」
「きれいなことを言って、売上が落ちたら泣くぞ」
「泣きますよ! 店主ですもの! 売上帳の数字が沈めば、私の心も一緒にズブズブ沈みます!」
店がドッと沸いた。
「ですが、泣くなら店の奥で泣きます。お客様に不要な物を抱えさせて、その銅貨で涙を拭くような商売はしません」
「そこまで言うなら一枚もらおう。お前が奥で泣かない程度には来てやる」
「ありがとうございます。ですが、必要な夜だけで結構です。毎晩来てくださったら、今度はベルトさんの睡眠が沈みます」
その横で、ハンスが札を一枚手に取った。
「俺はやってみたい。夜勤へ来るたび、一つ星が増えるんだろう?」
「はい。無記名と、紛失時に戻せる登録ありを選べます」
「無記名でいい。なくしたら、俺の不注意だ」
「登録しないことは、不注意ではありませんよ。残したくない情報を残さない選択です」
ミアがハンスのおでん一杯を会計し、木札へ押し具を当てた。
コツン、と小さな音がする。
欠けていた星が一つ、きれいにつながった。
「おお。これは妙にうれしいな」
「第一号です」
「十個たまったら、夜勤明けのベルトに汁物を譲ってやるか」
「なぜ俺なんだ」
「さっき泣くぞと言った罰だ」
店内に笑いが起きた。
ほとんどの客が札を受け取ったが、三人は断った。
旅の途中で荷物を増やしたくない人。特典に興味がない人。店に行く回数を数えられたくない人。
理由を話さず断った人もいた。
私たちは誰にも聞き返さず、同じように礼を言って会計を終えた。
◇◇◇
問題は、三日目に起きた。
「あと一つ、何か買えば印をもらえるんですよね」
薄い銅貨袋を握った若い鉱夫が、菓子棚を見ていた。
会計台には、夜勤用のパンと水がある。それだけでも今夜の印はつく。
「追加しなくても、一つ押しますよ」
「でも、昨夜も押してもらったから……今日もっと買えば、もう一つ」
「一晩に一つです」
「二回、店を出て入り直したら?」
冗談めかしていたが、銅貨を数える指は真剣だった。
その人の後ろには、早く会計を済ませたい客が並んでいる。規則を繰り返すだけなら簡単だ。
「入り直しても増えません。特典のために、今夜必要なお金まで使わないでください」
「俺の金だ。どう使おうと勝手だろ」
声が尖った。
並んでいた客がスン……と静まり、若者の耳が赤くなる。
ここで説教をすれば、彼は買わなかったことより、人前で貧しさを暴かれたことを覚えるだろう。
私は声を少し落とし、彼と説明板の間へ体をずらした。
「はい。買うことを止める権利は私にはありません。でも、もう一つ印が増えるように思わせたなら、店の説明が足りませんでした」
私は説明板の『一晩一つ』へ指を置いた。
「このパンと水だけで、今夜の星は一つ完成します。お菓子が本当に欲しいならお売りします。印のためなら、必要ありません」
鉱夫はしばらく菓子を見つめ、やがて銅貨を袋へ戻した。
「……じゃあ、パンと水だけで」
「ありがとうございます」
「別に、金がないわけじゃないからな」
「はい。お菓子を買わなかっただけです。今夜のご注文は、パンと水。それ以上でも、それ以下でもありません」
若者は私を見た。
まだ少し悔しそうだったけれど、銅貨袋を隠すように握っていた指は、ゆっくりほどけていった。
押印の音が、初日の歓声より重く聞こえた。
閉店後、私は説明板へ新しい一文を足した。
『多く買っても、印は増えません。暮らしに必要な分をお買いください』
「売上が増えるなら、成功だと思っていました」
私が言うと、アンナは集計用の小石を箱へ戻した。
「必要な物を選んだ結果なら、うれしいことです。特典を失う怖さで買わせたなら、店が不安を売ったことになります」
「不安まで商品棚へ並べるなんて、品ぞろえが豊富すぎますね」
「しかも、仕入れ値は安く、後味は最悪です」
「……アンナ、たまにものすごく辛辣よね」
「リリアーナ様がお調子に乗られた時だけです」
即答だった。ぐうの音も出ない。
ポイント札は正義だ。
そう言い切れるほど、仕組みは単純ではなかった。
◇◇◇
四週間後、ハンスの札に十個目の星ができた。
「一番乗りですね」
ミアが言うと、店内にいた客が拍手しかけた。
「競争じゃないぞ」
ハンス自身が、笑って手を振った。
「俺が誰かに勝ったわけじゃない。眠い夜にここへ来て、温かい物を十回食った。それを店が星で覚えていてくれた。それだけで、十分うれしいんだ」
その言葉に、私は一瞬返事ができなかった。
王女だった頃、誰と会い、何を言い、どこで失敗したかを記録された。あれは私を大切に覚えるためでなく、役に立つかを測る記録だった。
この札は違う。
人を縛らず、名前すら求めず、それでも「来てくれてありがとう」だけは小さな星として残せる。
「夜勤が十回あっただけだ。それで、特典は日替わりの汁物にする」
「今夜お召し上がりになりますか?」
ハンスは入口の外を見た。
巡回を終えたベルトが、腕章を外してこちらへ向かっている。
「いや。あいつに渡してくれ。勤務中は店で休めなかった分だ」
「札を持つ方が使える決まりですから、直接お渡しください」
ハンスは埋まった札をベルトへ差し出した。
「ほら。泣く前に食え」
「四週間も覚えていたのか、お前」
ベルトは呆れながらも札を受け取り、湯気の立つ野菜汁を選んだ。
交換した札は回収し、削り直し箱へ入れる。新しい札を受け取るか尋ねると、ハンスは頷いた。
「また頑張ってためる、とは言わんぞ。夜勤の日に飯を食えば、そのうちたまる。それくらいがちょうどいい」
「私も、そう思います」
四週間の試行で配った札は四十七枚。断った人は十一人。十印に達したのはハンス一人だった。
特典を目当てに余分な買い物をしようとした人は、確認できただけで三人。押し間違いが二件、紛失が一件。登録を選んだ人は七人で、購入品は誰についても記録していない。
売上は少し増えたが、祭りの準備時期とも重なっていた。札だけの効果とは言えない。
一方、夜ごとの総数を見ると、温かい汁物が早い時間に足りなくなる傾向は分かった。個人名ではなく、時間帯ごとの販売数を基に仕込みを調整できた。
商業ギルドと近隣の村から仕組みを見たいという人が来た時も、私は成功談だけを渡さなかった。
「札の製作費、特典の原価、押し間違いへの対応。それから、買いすぎを促していないかの確認が必要です」
「詳しい顧客名簿がなくても、役に立つのですか?」
「誰が何を買ったかまで知らなくても、何が何時に売れたかは分かります。それで足りる改善も多いです」
「常連の好みを把握した方が、喜ばれるのでは?」
「会話の中で覚えることと、本人の知らない帳面へ生活を並べることは違います。覚えてほしくない人もいます」
視察員は、木札の図より長く、注意点を書き写した。
◇◇◇
その日の夕方、村の老人ゲルハルトが店を訪れた。
杖を持つ手が少し震え、入口から会計台まで歩くだけで二度足を止めた。
「皆が星の札を楽しんでいると聞いてね。わしも一枚、もらえるかい」
「もちろんです。登録なしでも使えます」
木札を渡すと、ゲルハルトは中央の星を親指でなぞった。
「きれいな物だ。だが、十個たまるのは来年かもしれんな」
「そんなに先にはならないと思いますよ」
「この頃、暗くなってから歩くのが怖くてね。足腰も弱った。おでんを家で食べたい夜はあるが、転んだらと思うと諦めるんだ」
私は、彼のまだ一つも完成していない半星を見た。
同じ決まりを全員へ適用するだけでは、同じように利用できることにはならない。
ポイントがたまらないことより先に、商品そのものへ手が届かない人がいる。
「ゲルハルトさん。もし、店の方からお宅へ品物をお届けできるとしたら、利用したいですか?」
「家まで?」
「はい。ただし、安全に続けられる方法を考えてからになります」
ゲルハルトは驚いた後、木札を胸元へ大切にしまった。
「それなら、暗い道と相談せずに、おでんを頼めるな」
その言葉は軽かったのに、杖を握る手から力が抜けたのが見えた。
店へ来られないのは、怠けでも気まぐれでもない。
夜道の石一つ。冷えた坂道一つ。それが若い私たちには小さくても、ゲルハルトには夕食を諦めるだけの壁になる。
札を五十枚作って「全員に同じ機会です」と胸を張っても、その壁は消えない。
くっ。新制度を一つ完成させたと思ったら、次の課題が入口から杖をついてやって来た。
商売というもの、どうしてこうも終わりがないのか。
……でも、終わらないから面白い。
ポイント札は、来てくれた人へ感謝を返す仕組みだった。
次に必要なのは、来られない人へ店の方から近づく仕組みだった。
「リリアーナ様。こちら、落とし物です」
ミアが星の木札を一枚持ってきた。
「名前は?」
「登録なしなので、分かりません」
「それでいいのよね。困るけど、正しい」
誰の物か分からない札を、落とし物箱へ入れる。
便利さのために名前を集めすぎなかった証拠が、さっそく私たちを困らせている。
「次は、本人だけ分かる印を選べるようにしましょうか」
正義の仕組みなんて大げさな物ではない。
困りながら、近づきすぎない距離を一つずつ探す仕組みだった。




