第31話 町医者と薬棚
「リリアーナさん、少しご相談があります」
午前一時を回った頃、村医者のエルウィン先生が店へ入ってきた。
慌てているように見えたのは、上着の留め具が一つずれていたからだ。けれど、息を切らしてはいない。患者を運び込んできたわけでもなさそうだった。
「急患ですか?」
「いえ、今夜は違います。驚かせてしまいましたね」
先生はずれた留め具を直し、温かい麦茶を一口飲んだ。
「ただ、今夜も診療所の戸を叩かれました。腹が重いから何か欲しいという人と、仕事で手を擦りむいた人です。二人とも急を要する状態ではありませんでした」
「それでも、夜中に具合が悪くなると不安ですよね」
「ええ。一方で、診ずに薬だけ渡すわけにはいかない。毎夜すべての戸口へ応じていれば、朝の診療で判断を誤るかもしれません」
眠らない医師は、頼もしい医師ではない。
疲労で見落としを起こせば、本人の善意とは関係なく患者が傷つく。
「そこで、相談なのです。こちらで扱っている封緘済みの包帯や軟膏を、もう少し正式な夜間用の棚にできないでしょうか」
「薬を増やす、ということですか?」
頭の中では、もう棚の配置がパァッと広がっていた。
夜中でも包帯が買える。痛みに困った人へ必要な物を渡せる。診療所が閉まった後も、村の不安を受け止められる。
『夜間医療棚、キター! これぞ夜営業の本領――』
そこまで考えて、私は自分の勢いへブレーキを踏んだ。
相手はおにぎりではない。試食して「ちょっと酸っぱいわね」で済む棚でもない。
「……すみません。今、便利という言葉だけで走りかけました」
「顔に出ていました」
「そんなに?」
「新商品を思いついた時と同じ顔でした」
「薬を商品開発と同じ熱量で扱ったら駄目ね。まず、先生のお話を最後まで聞きます」
「増やすかどうかも含め、仕組みを作りたい。店員が症状を判断するのではなく、どこまでなら販売でき、どこから医師を呼ぶのかを決める仕組みです」
私は、店の奥にある小さな医療用品棚を見た。
これまでも、薬師が封をした包帯や消毒用の洗浄液、診察を受けた人が同じものを買い足すための軟膏は扱っている。ただし、症状を聞いて私たちが薬を選ぶことはしない。
便利にしたいからこそ、越えてはいけない線があった。
「やりましょう。ただし、棚より先に『売らない条件』を決めたいです」
エルウィン先生は、ゆっくり頷いた。
「私も、それをお願いしに来ました」
◇◇◇
翌日の夕方、診療所で最初の会議を開いた。
エルウィン先生のほか、薬師ギルドから一人、店からは私とアンナが参加した。ミアは通常どおり午前零時までで、医療品を一人で販売する担当にはしない。
「まず、『安全な薬』という札は使わないでください」
薬師が、私の下書きへ赤い線を引いた。
「危険のない薬はありません。植物由来でも、体質や併用している薬によっては害になる。保管を誤れば、同じ包みでも中身は変わります」
「では、『医師推奨』も?」
「万能の保証に見えるので避けましょう。『医師と薬師が取扱範囲を確認』なら事実です」
原案は、たった二行で半分が消えた。
「私の渾身の説明文が……」
赤線だらけの紙を持ち上げると、原文より訂正の方が目立っている。
「『安全』『安心』『誰でも』。勢いのよい言葉ほど、見事に全滅ですね」
「薬の札では、勢いより誤解の少なさが大切です」
「分かっています。分かっていますけど、三語とも商売人が大好きな言葉なのよ。封印するの、かなりつらいわ……!」
薬師は笑わず、赤線をもう一本足した。
「今、『天然だから負担が少ない』も消しました」
「追い打ち!」
少しだけ落ち込んだ私へ、エルウィン先生が笑う。
「消えた分だけ、事故になる言葉が減ったと思いましょう」
棚へ置く物は三つに分けた。
一つ目は、清潔な布、包帯、冷却用の布袋といった、薬効をうたわない用品。
二つ目は、薬師が一回分ずつ封緘し、対象と使い方を記した一般用の品。ただし、購入できる年齢や状態を限定する。
三つ目は、診療所で一度診察を受けた人が、医師の札を示した時だけ同じ封緘品を受け取れる反復用の棚だ。
店で薬草を煎じたり、粉を量り直したりはしない。封が破れている物、期限の読めない物、保管温度から外れた物は売らない。回収の連絡が来た時のため、仕入れた組番号と数だけを帳面へ残す。
「期限を過ぎた物は、安売りに回せません」
「もったいなくても、ですね」
「ええ。店で捨てず、薬師ギルドへ戻してください」
売る前より、売らないための決まりの方が多かった。
けれど、命に関わる棚なら、それが正しい。
次に、説明札を作った。
文字の横に、手を洗う絵、封を確かめる絵、決められた量を越えない絵、異常が出たら使用を止める絵を置く。
けれど、絵だけを見たロウは、首を傾げた。
「この丸は、一日一回ですか。それとも一回につき一包ですか」
「……どちらにも見えますね」
絵は、文字を読めない人を助ける。だからといって、絵なら誤解されないわけではない。
会計時には、成人担当者が説明を読み上げる。買う人にも、自分の言葉で使い方を言い直してもらう。分からなければ売らず、医師か薬師へつなぐ。
そして、棚の一番目立つ場所には、商品ではなく赤い札を置いた。
息が苦しい人。呼びかけへの反応が鈍い人。けいれんしている人。血が止まらない人。何度も吐いて水も飲めない人。幼い子どもや、妊娠している人。
絵の下には、大きく一文だけ書いた。
『薬を選ばず、医師を呼びます』
「幼い子は、熱の高さだけで決めないでください」
エルウィン先生が念を押す。
「元気があるか、水を取れるか、呼吸や意識はどうか。店員が判定するのではなく、心配な様子が一つでもあれば連絡してください」
「連絡を受ける先生が、毎晩眠れなくなりませんか?」
「そこも決めましょう」
診療所と薬師ギルドで当番を組み、深夜の連絡を交代で受ける。当番には夜間手当を払い、呼び出しがあった翌朝は別の者が通常診療の最初を担当する。
村だけで人が足りない夜は、町の診療所と伝令魔法の連絡をつなぐ。伝令が不調の時は、二人一組の夜警が患者を運ぶ。
「善意だけでは、一週間は続いても一年は続きません」
私が言うと、エルウィン先生は苦笑した。
「医者が店主に休めと言われる日が来るとは思いませんでした」
「先生が倒れたら、いちばん困るのは村の人です」
こうして、一週間後。小さな棚に『夜間医療用品』の札が掛かった。
その隣には、商品より大きな赤札と、診療所へつながる伝令石が置かれた。
◇◇◇
棚を開いて最初の夜。
「お願いします。子どもが、熱を出して……」
若い母親が三歳ほどの男の子を抱き、店へ駆け込んできた。
男の子の頬は赤い。母親の肩へ頭を預けたまま、店の灯りにもほとんど反応しない。
私は一瞬、棚へ目を向けた。
何かを渡せば、この人を安心させられる。
そう思った自分が、怖かった。
「お子さんは、呼びかけると目を開けますか?」
「少しだけです。熱は八度くらいで、夕方は水も飲んだのに、今は嫌がって……。解熱の薬があるんでしょう?」
赤い札に当てはまる。
「今は、こちらで薬をお選びできません。すぐエルウィン先生へ連絡します」
「どうして! 薬を売る棚を作ったのに!」
母親の声に、店内が静まった。
「朝まで待てないから来たんです。お金なら払います。お願いですから、何かください」
「この子、ずっと熱いんです。夕方から抱いて、冷やして、水も飲ませようとして、それでも元気がなくなって……。私が何か間違えたんでしょうか。もっと早く先生を呼べばよかった? お願い、何でもいいから、この子を楽にして!」
母親の声が途中から崩れた。
その腕の中で、男の子は目を閉じたままだ。
棚へ手を伸ばしたくなる。
包みを一つ渡し、「これで大丈夫」と言えたら、母親の涙を今すぐ止められるかもしれない。
『何かしなきゃ。早く。役に立たなきゃ』
焦りが耳の奥でドンドン扉を叩く。
でも、私が欲しいのは「助けた店主」という安心ではない。目の前の子どもへ必要な診察だ。
怒っているのではない。
怖いのだ。
抱いた小さな身体が熱く、何をすればいいか分からない。その恐怖の前では、店の決まりなど、子を助けない言い訳に聞こえる。
だからといって、境界を曲げてよいわけではなかった。
「待たせません。売らないのは、何もしないという意味ではありません」
「同じです! 何も持たずに帰れって言うんでしょう!」
「帰しません。ここから先生へつなぎます。移動も、一人にはしません」
「でも、棚には薬があるじゃない!」
「あります。だからこそ、私が勝手に選べば危険なんです。三歳のお子さんに何を、どれだけ使うかを決められるのは、私ではありません」
「じゃあ、この店は何のために――」
「先生へ届く扉になるためです!」
思わず声が強くなった。
母親の肩がビクリと跳ね、私はすぐ息を整える。
「ごめんなさい。怒っているのではありません。私も怖いんです。何か渡して、手遅れになるのが。だから、ここで止めます」
私は伝令石を取り、アンナへ合図した。
「アンナ、今夜の当番を。ロウ、夜警へ二人一組の移送を頼んでください。お母様は、ここでお子さんを抱いたままで大丈夫です」
「でも、薬は……」
「三歳のお子さんがぐったりして、水を嫌がっている。私が棚から薬を選ぶより、医師が今、診るべき状態です」
伝令石の向こうから、エルウィン先生の声がした。
『呼吸は苦しそうですか。けいれんは。発疹はありますか』
私は勝手に答えず、質問を一つずつ母親へ伝えた。
先生の指示で、男の子を厚着から解き、移送までの間、母親と一緒に呼吸と反応を見守る。薬も飲み物も、私の判断では与えない。
夜警が到着すると、アンナが診療所まで付き添った。
母親は店を出る直前、私を振り返った。
「怒鳴って、ごめんなさい」
「謝らなくていいんです。怖い時は、穏やかになんて話せません」
「この子は、大丈夫でしょうか」
大丈夫です、と言ってあげたかった。
でも、それも私が決めてよい言葉ではない。
「先生のところまで、もうつながっています。私たちも、ここで連絡を待ちます」
扉が閉じたあと、棚には一つも売上が立っていなかった。
それなのに、今夜この棚があってよかったと、私は初めて思った。
◇◇◇
翌朝、エルウィン先生から短い連絡が届いた。
『処置を終え、母子とも診療所で休んでいます。詳しいことは本人たちのものなので、店の帳面には書かないでください』
回復した、成功だった、と早く言いたくなる心を押さえた。
店が知る必要があるのは、引き継ぎが完了したことまでだ。
三日後、母親が男の子の手を引いて来店した。
男の子はまだ少し頼りない足取りだったが、自分で棚の木彫りの鳥を指さした。
「先生に早く診てもらえて、落ち着きました」
母親はそれだけ話し、頭を下げた。
「あの夜、薬を売ってもらえなかった時は、見捨てられたと思いました」
「そう聞こえてしまう言い方をしたのは、私の方です」
「でも、本当に欲しかったのは薬じゃなくて、この子を診てくれる人だったんですね」
「あの夜、私も薬を渡したくてたまりませんでした」
「リリアーナさんも?」
「ええ。あなたが泣いているのに、棚の前で手を止めるのが苦しかった。何か売れば、すぐ役に立てた気になれたから」
「では、どうして止められたんですか?」
「一人で決めなかったからです。赤札を書いた先生と薬師、移送を決めた夜警、付き添ったアンナ。あの決まりは、迷った私を止めるためにもあったんです」
母親は男の子の手を握り直した。
「あの時は、本当に腹が立ちました」
「はい」
「でも今は、怒鳴っても決まりを曲げないでくれて、よかったと思っています」
胸の奥が熱くなった。
感謝されたい気持ちはある。正直、たっぷりある。
けれど、この感謝は「薬を売った店」ではなく、「売らずにつないだ店」へ向けられたものだった。
私は、男の子の前へしゃがんだ。
「元気になってきて、よかったです」
それ以上は聞かなかった。
病名も、使った薬も、店の売上には必要がない。
◇◇◇
別の夜、隣村から来た男性が腰を押さえて棚を見ていた。
「昔から腰が痛むんだ。この軟膏が効くか?」
以前の私なら、軽い痛みならこちらです、と言いそうになったかもしれない。
「私には、効くかどうかを判断できません。診察を受けて、同じ軟膏を使うよう言われたことはありますか?」
「いや。医者へ行くほどじゃないと思ってな」
「では、今夜こちらを選んでお売りすることはできません。急に強くなった痛みや、足の動かしづらさがあるなら、今夜の当番へ連絡します。そうでなければ、明日の診察時間をご案内できます」
「薬棚なのに、売らないことが多いな」
男性は不満そうに言った。
「はい。売るより先に、間違えないための棚ですから」
「それじゃ、儲からんだろう」
「その通りです。商売人の心は今、棚の陰でしくしく泣いています」
「なら、売ればいいじゃないか」
「分からない物を売って悪化したら、もっと泣きます。たぶん帳簿ごと滝のように」
「変な店だな」
「よく言われます。でも、薬で『おすすめはこちらです!』と勢いよく押せるほど、変にはなりたくないんです」
男性は不満そうな顔のまま、それでも診療時間の札を受け取った。
「商売が下手だ」
「自覚はあります」
男性は少し笑い、翌日の診療時間を書いた札を受け取った。
後日、診療所から反復用の札を持って来た時も、私は病名を尋ねなかった。札の番号、封緘、期限だけをアンナと二人で確認し、決められた品を渡した。
「今度は売るんだな」
「今度は、先生が選んだ物ですから」
便利とは、誰でもすぐ買えることだけではない。
迷わず正しい相手へつながることも、便利なのだ。
◇◇◇
一か月後、医師、薬師、店の三者で最初の監査をした。
夜間医療用品について尋ねた人は二十一組。
包帯など薬効をうたわない用品だけで足りた人が九組。診察済みの反復品を受け取った人が五組。医師へ連絡した人が七組。そのうち、店員が何かを売って済ませた例は一つもない。
品違いと封の破損品販売はゼロだった。ただし、絵札を逆向きに読んだ人が一人いたため、矢印の形を直すことになった。
「診療所へ来る人が減ったかどうかは、成功の基準にしません」
「数字が減った方が、成果らしく見えますけれど」
私は二十一組の欄を見た。
「『受診が三割減りました!』なら、見栄えはいい。王都へも自慢しやすい。でも、我慢して来なくなった人まで成功へ数えたら、その数字は怖いです」
「店主としては、派手な数字が欲しいですか?」
「欲しいです。喉から手が出るほど。大きな成果を書いて、追放した人たちへ突きつけたい夜もあります」
「正直ですね」
「でも、そのために具合の悪い人を小さく数えたら、私が一番嫌いな王宮の数字と同じになる」
王宮の報告書では、民の暮らしが一行の増減に変わった。
今の私は、その一行の向こうに、熱い子どもを抱いた母親の顔を知っている。
エルウィン先生が監査書へ書き込む。
「必要な人が受診を控えたなら、減少は失敗です。見るべきは、危険な人を取りこぼしていないか、誤った品を渡していないかです」
店に残す連絡簿も見直した。
日時、当番へ連絡したか、引き継ぎが完了したか。それだけにする。名前、病状、購入品は診療所側の記録で管理し、店の客情報や売上分析には使わない。
その監査を聞きつけ、王都の医師組合から二人が視察に来た。
「夜間の薬棚を各地へ広げれば、診療所の負担を減らせるのでは?」
視察員の問いへ、私は首を横に振った。
「棚だけを真似ることはできません。医師と薬師の確保、地域の許可、夜間当番への手当、回収経路まで揃って初めて動きます」
「では、この店の発明は薬棚ではないと?」
エルウィン先生が、赤い札を指した。
「売ってよい物より、売らずに呼ぶ条件を先に見えるようにしたことです」
視察員は、赤札の文面を一字ずつ写していった。
完成品として持ち帰るのではなく、自分たちの町で誰が責任を負えるかを調べるところから始めるという。
「次は、月に一度、健康についての説明会も開けませんか?」
エルウィン先生が提案した。
「相談コーナーを常設するのではなく、医師か薬師が担当する予約制で。傷の洗い方や、受診を急ぐ目印を説明する程度にしましょう」
「店員が健康相談に答える形にはしないのですね」
「ええ。それから、参加した人の名前や病気を、店の名簿へ残さないこと」
名前や好みを知れば、もっと親切にできる。
私はずっと、そう思っていた。
けれど、知っていることが多いほど親切とは限らない。とくに、身体や暮らしの弱い部分は、必要のない相手へ渡さないことも守りになる。
会計台の下には、常連客へ何か還元できないかと書き始めた紙がある。
私はその紙を取り出し、最初の一行へ付け足した。
『参加は自由。名前や買った物を、必要以上に集めない』
薬棚が教えてくれた境界は、次の仕組みにも必要だった。
その夜、常連客が腹を押さえて会計台へ来た。
「何か効く物をくれないか」
以前の私なら、役に立ちたい一心で棚を探したかもしれない。
今は赤い札を取り、エルウィン先生への連絡手順を確認する。
「ここでは選べません。先生を呼びます」
「何も売ってくれないのか?」
「はい。分からない物を売らないことが、今できる一番の対応です」
役立てない悔しさはある。
それでも私は棚へ手を伸ばさず、伝令札へ手を伸ばした。




