第24話 生産者を守る契約
朝の仕入れを終えて店へ戻ると、ロバートが入口の脇に立っていた。
いつもなら荷車を引きながら畑の話をする人が、今日は手ぶらだった。帽子の縁を何度も指でなぞっている。
「ロバートさん。何かありましたか?」
「相談したいことがありまして」
閉店後で客はいない。私はアンナに頼み、会計台の奥へ椅子を三つ出した。
ミアは仕込みを終えて帰るところだったが、父の顔を見るなり足を止めた。
「お父さん?」
「心配させたくなかったんだが……最近、別の商人から、作物を市場価格の半分以下で売れと言われている」
「半分以下?」
ミアの声が鋭くなった。
「ちょっと待って。半分って……それじゃ種や肥料を払ったら、何が残るの? お父さんたちが寒い中で畑へ出た時間は? 腰が痛いって言いながら収穫した分は、どこへ行くのよ!」
「ミア、落ち着け」
「落ち着けないよ! そんな値段で買おうとする人より、黙っていたお父さんにも腹が立つ!」
普段の明るい声が、悔しさで震えている。
ロバートは娘を見られず、帽子を握る手へ力を込めた。
「断ったよ。そうしたら、今後は一切買わない、他の商人にも話すと言われた。うちだけじゃない。何軒か同じ話をされている」
「どうして今まで黙ってたの」
「お前は店で忙しい。それに、親が困っているから仕入れてくれ、とは言いたくなかった」
「だからって、一人で困りきってから来るの? 私、そんなに頼りない?」
「違う。頼りになるからこそ、お前の働く店へ父親の事情を持ち込みたくなかったんだ。『娘がいるから高く買ってもらった』なんて言われたら、お前まで肩身が狭くなる」
「そんなの……」
言い返しかけたミアの声が詰まる。
父の理屈が分かるからこそ、怒りの置き場所がないのだろう。
「困っていることを知らないまま働く方が――」
ミアは言いかけ、唇を結んだ。
娘としては父を助けたい。店員としては、仕入れ価格を感情で決められない。
「まず、事実を確認させてください」
私はロバートへ尋ねた。
「提示された価格と数量が分かる紙はありますか」
「これです」
差し出された木札には、ホワイトルート一キロにつき六銅貨。市場の最近の平均は十二銅貨ほどだから、確かに半額だった。ただし、小ぶり品もすべて一括で引き取る条件が書かれている。
「安い理由が、全量買い取りだからという可能性はあります。それでも、断った後の言葉が本当なら問題です」
「俺の聞き違いではない」
「疑っているのではありません。相手の名を出して動くなら、記録が必要なんです」
他の農家にも、個別に話を聞く。市場の取引記録はガレオへ閲覧を頼む。商人組合には、この価格が輸送費や傷みを含めても妥当か確認する。
「今日すぐ、相手を悪徳商人と決めません。でも、ロバートさんが来月の種代に困るのを、調査が終わるまで放ってもおきません」
「店で、全部買ってくれるんですか」
「買える量だけです。買い切れない量まで約束すれば、後で私たちが同じことをします」
今すぐ「全部任せて」と言えたら、どれほど格好いいだろう。
元王女、悪徳商人から農家を華麗に救済! 拍手喝采! 悪者は悔し涙!
『……なんて、ベタな爽快展開なら気持ちいいけれど、畑の収穫量は拍手では減らないのよ!』
店の棚にも、客の胃袋にも限界がある。
正義感だけで二百キロ買い、腐らせ、翌月から買えませんと言えば、希望を持たせてから突き落とすぶん、もっと残酷だ。
ロバートは少し驚き、それから深く頷いた。
「その言葉なら、信用できます」
◇◇◇
調査には三日かかった。
同じ価格札を受け取った農家は五軒。うち三軒は「断れば冬以降は買わない」と言われた時刻と場所を記憶していた。商人組合の記録では、輸送費を差し引いても六銅貨は低すぎるという回答だった。
相手商人への苦情は、村と組合が正式に扱う。
店にできるのは、その結論を待つことではなく、必要な仕入れを透明な条件で続けることだ。
「一年の取引契約を作りたいと思います」
ロバート、アンナ、村の書記を交え、最初の話し合いを開いた。
「最低価格を決めます。ホワイトルートは一キロ十五銅貨」
「十五……」
ロバートはすぐ喜ばなかった。
「ありがたい値段です。でも、無理をしていませんか。店が苦しくなったら、途中で下げられる方が困る」
「その疑いは正しいです。私も今、『農家を守る格好いい店主』になりたい気持ちを必死で椅子へ座らせています」
「リリアーナ様にも、そんな気持ちが?」
「ありますとも! ここで机をドン! と叩いて『何キロでも買いましょう!』と言えたら最高に気持ちいいわ。でも翌月、帳簿を見たアンナに私がドン! と叩かれます」
「私は人を叩きません。無謀な計画へ赤字で線を引くだけでございます」
「その赤線、時々打撃より痛いのよ」
張りつめていたロバートの口元が、ようやく少し緩んだ。
「市場より高い」
「店が使う数量を安定して揃えていただく分、選別と納品時刻も含めた価格です。ただし、無制限には買えません」
私は直近三か月の使用量を出した。
スープ、おでん、祭り、家庭向け材料。通常月は百二十キロ前後。冬の最大月でも百六十キロを越えていない。
「毎月の予定は百二十キロ。需要が増えた場合の上限を百六十キロとします。それ以上は、前月までに双方が同意した分だけ」
「豊作で二百キロ採れても、全部は買えない?」
「はい。代わりに、他の店や市場へ売ることを禁止しません。独占契約ではありません」
ロバートは腕を組んだ。
「十五銅貨を一年、変えないんですか。肥料や種が上がったら?」
「三か月ごとに見直しましょう。種、肥料、運送、市場価格を互いに出す。下げる場合も上げる場合も、一方だけでは決めない」
「不作で百二十キロ出せなかったら?」
「病害や天候なら罰金はなし。分かった時点で知らせていただき、代替の根菜か別の仕入れ先を一緒に探します」
救う側と、救われる側。
そういう契約にはしたくなかった。
ロバートが不作の責任をすべて負うのも違う。店が売れ残りをすべて抱えるのも続かない。
互いに「できない」と言える場所を、紙の上に作る。
◇◇◇
品質の区分では、意見がぶつかった。
「形が揃い、色つやのよい物を上級二十銅貨。大きさまで見事な物を特別二十五銅貨に」
私が案を読むと、ロバートは首を横に振った。
「曲がっていても、味のよい根はある。見栄えだけで値を下げられたら、今の商人と変わらない」
「でも、店頭へ並べるなら、形も――」
言いかけて、ロバートの目を見た。
怒鳴ってはいない。けれど、土で荒れた指が膝の上で固く組まれている。
「俺たちは、曲げようとして根を曲げたわけじゃない。石を避けて育っただけです。味も見ずに『見苦しいから半値』と言われるのは、正直、悔しい」
最後の一言が、ズキリと刺さった。
形が期待どおりでないというだけで価値を下げられる悔しさを、私は知っているはずだった。
婚約者の望む王女ではない。王宮の役に立たない。だから外へ。
野菜と自分を同じにするつもりはない。それでも、「見た目が基準に合わないから価値が低い」という判断を、私はあまりに簡単に口へしていた。
反論できなかった。
私は王宮の食卓を基準にしていた。まっすぐで傷のない野菜だけが、美しい皿へ載った。裏でどれほどの作物が弾かれたか、考えたこともない。
「では、用途で分けましょう」
基準の十五銅貨は、鮮度がよく、傷みがなく、スープやおでんへ安全に使える物。曲がりや大きさは問わない。
二十銅貨は、甘みと水分が安定し、煮崩れしにくい区画の物。二十五銅貨は、味に加え、贈答や丸ごと販売に向く見た目の物。ただし、その区分は全体の一部だけとする。
小さすぎる物や表面に傷がある物も、傷みがなく納品日に加工できるなら、スープ用として十二銅貨で別に買う。
「安い加工用を増やすため、わざと雑に扱われたら?」
アンナが尋ねる。
「収穫時の傷と、生育中についた形の違いを、ロバートさんと店の二人で確認する。判断が割れたら、村の書記に記録してもらいましょう」
「店側が上級ばかり欲しがったら?」
「必要な用途別数量を前月に伝えます。余った上級品を基準価格へ落として買うことはしません」
支払いは納品から三日以内。検品で問題があれば、捨てる前に本人へ連絡する。契約は一年だが、三十日前の通知で終了できる。重大な衛生違反や支払い遅延があれば、是正期間を置いたうえで早期解除できる。
店も契約外の緊急仕入れができる。農家も他の買い手へ自由に売れる。
書き終えると、羊皮紙は最初の案の倍の長さになっていた。
「こんなに細かい契約は、読める気がしません」
ロバートが困った顔をした。
羊皮紙の端を持ち上げる。端が作業台から垂れ、まだ垂れ、もう少し垂れた。
「長いですね」
「長いです」
「畑の畝より長く感じます」
「私も途中から、契約書を書いているのか長編物語を書いているのか分からなくなりました」
「主人公は誰っすか?」
「ホワイトルートでしょうね。苦難を乗り越え、十五銅貨で買われる感動巨編よ」
「読んでみたいっす」
「今、目の前にあるわ。最後まで読めたら感想を提出して」
「やっぱり遠慮するっす」
「今日は署名しないでください。家へ持ち帰り、ご家族と読んでください。村の書記にも、ロバートさん側の立場で説明してもらいます」
「今、決めなくていいんですか?」
「急がせて結んだ約束は、長期契約とは呼べません」
「持ち帰ったら、家族に『こんな好条件、早く署名しろ』と言われるかもしれません」
「それでも、分からない言葉へ印は押さないでください。私へ遠慮して質問を飲み込むのもなしです」
「断っても?」
「悔しいです。たぶん今夜、枕へ顔を埋めて『振られたー!』と叫びます」
「契約の話ですよね?」
「契約にも失恋はあるのよ。でも、断る自由のない契約は、もっと嫌いです」
◇◇◇
ミアは、価格の話し合いへ参加しなかった。
「店の人間で、父の娘でもあります。どちらかへ有利なことを言ってしまいそうなので」
自分からそう申し出たのだ。
代わりに、ホワイトルートが何曜日に、どの商品で、どれだけ売れたかをまとめた。おでんの家庭向け材料も含め、数字だけを双方へ渡す。
「お父さんに怒っていますか?」
その日の夕方、仕込みを終えたところで私が尋ねると、ミアは布巾を畳む手を止めた。
「怒っています。困っていることを隠されたから。でも、お父さんが私の働く店へ、情けで買ってもらいに来たと思われたくなかった気持ちも分かります」
「大人は、子どもを心配させないことが親の役目だと思うのかもしれない」
「私、もう店では教える側にもなったのに。家へ帰ると、まだ何も知らない娘なんです」
「『心配させたくなかった』って言われたら、それ以上怒れないじゃないですか。お父さんは優しい顔をして、私が怒る権利まで持っていくんです。ズルいです」
畳み終えた布巾の角を、ミアはギュッとつまんだ。
「私だって心配したい。困っているなら一緒に悩みたい。娘だから何もできないんじゃなくて、娘だから話してほしかったんです」
私は返す言葉を探した。
王宮では、私も同じだった。国の収支を学んでも、婚姻の決定には何も知らない娘として座らされた。
「知らされないことは、守られることと同じではないわね」
「はい。でも今夜、父を責めるだけにはしません。どういうとき相談してほしいか、私から話します」
ミアは畳んだ布巾を棚へ置いた。
「それから、私は父の代わりに契約しません。自分で読んで、自分で決めてもらいます」
「立派な判断よ」
「リリアーナ様から、契約は本人が理解して結ぶものだと教わりましたから」
教えたことを、教えた私以上に守ろうとする。
ミアはもう、守るだけの相手ではなかった。
◇◇◇
四日後、ロバートが署名済みの契約書を持ってきた。
「家族で読みました。書記にも、三つ質問しました」
「納得できましたか?」
「一か所だけ。三か月ごとの価格見直しに、こちらから資料を出せない場合でも、店の資料だけで下げないと足してください」
「もっともです。市場記録か、双方が認める第三者の数字を必要条件にしましょう」
書き直した箇所を二人で読み、署名し、村の書記が証人印を押した。
「よろしくお願いします」
手を差し出すと、ロバートは強く握り返した。
「こちらこそ。よい物を作ります。ただ、不作のときは正直に言います」
「私も、売れないときは早く伝えます」
約束は、立派な言葉を並べるためではない。
都合の悪い事実を、遅すぎる前に言うための道具だ。
◇◇◇
ロバートの話を聞いた五人の農家も、契約を希望した。
「同じ紙に署名すればいいんですね」
年配のヨハンが言う。
「作物が違えば、価格も収穫時期も違います。まず、それぞれの畑と販売先を教えてください」
豆を作る人は乾燥場所が足りない。葉物農家は日持ちが短く、納品回数を増やしたい。卵を出す家は、冬の産卵数を約束できない。
一枚の契約を複写するのではなく、共通部分と個別部分を分けた。
店が直接買えるのは、使用予測の範囲だけ。それを越える分は、五人が共同で市場へ運び、輸送費を分担する案をゼルドへ相談した。
一か月後、最初の精算日。
ロバートのホワイトルートは、基準品が中心だった。煮崩れの少ない区画の物に、二十銅貨の加算がつく。見た目だけで二十五銅貨になった物は少ない。
「特別品ばかりでなくても、これだけ残るのか」
「明細に間違いがないか、ここで一緒に確かめましょう」
「リリアーナ様を疑うわけでは」
「疑っていいんです。むしろ疑ってください。私だって桁を間違えるし、計算中におでんの匂いがすると数字が卵に見えることがあります」
「それは大丈夫なんですか?」
「アンナがいるので、かろうじて」
「かろうじて、では困ります」
背後から即座に訂正が飛んできた。
ロバートは受け取った明細を、代金より長く見ていた。
「加工用まで用途が決まっているのが助かります。以前は、曲がった物を持ち帰るしかなかった」
店にも変化があった。
納品予定が分かるため、おでんとスープの仕込み数を早く決められる。急な相場高騰で、値札を一晩ごとに変える必要も減った。
ただ、畑が一週間で急に美しくなったわけではない。
ロバートたちは土の水分と収穫日を記録し、出荷時に用途別の籠へ分け始めた。変化は地味で、腰を曲げる仕事は以前と同じだけ重い。
契約が農業を楽にするのではない。
重い仕事の先に、いくらで、どれだけ売れるかを少し見えやすくするのだ。
◇◇◇
三か月後、共通の取引枠組みに参加する農家は十五軒になった。
夜明けの星が十五軒の全収穫を買うわけではない。店向け、市場向け、他村の食堂向けを共同で整理し、支払い期限と検品基準だけは共通の言葉で確かめる。
その日、ロバートは二十代前半の青年を連れてきた。
「息子のカールです。町の工房で働いていました」
「ミアのお兄さんですね。初めまして」
カールは父より慎重に頭を下げた。
「父が帳面をつけるようになって、農業が勘だけの仕事ではないと初めて知りました。すぐ継ぐとは言えません。でも、春の植え付けから手伝い、半年学びたいと思っています」
「戻れば必ず儲かるとは、お約束できません」
「分かっています。だから、自分の目で確かめます」
ロバートは息子に畑を継がせられると浮かれず、週の勤務日と工房を辞める時期を話し合っていた。
未来が決まったのではない。
選び直せるだけの見通しが、一つ増えたのだ。
同じ頃、隣町の商人組合から、契約と共同出荷の仕組みを視察したいという書状が届いた。
「成功例として広げられますね」
ミアが言う。
「成功した部分だけでなく、店が買える量に上限があることも伝えましょう。最低価格だけ真似して、売れない作物を抱えたら続かないもの」
アンナが、実際の契約書と最初の失敗案を両方まとめた。
その束を棚へ収めたところで、入口の鈴が鳴った。
冒険者ギルドのエリオットが、厚い注文表を抱えて立っている。
「朝早くに申し訳ありません。遠征の補給について、急ぎご相談があります」
安定した仕入れの次に待っていたのは、これまでで最も大きな注文だった。
「こちらです」
エリオットが注文表の束を会計台へドサッと置く。
帳面ではない。もはや鈍器である。
「……何人分ですか?」
「まず五十人分を、週三回」
桁が大きい。束も厚い。責任はさらに重い。
腕が鳴るより先に、持ち上げようとした腰がミシッと鳴った。
「リリアーナ様。大注文は逃げませんので、二人でお持ちください」
アンナと一緒に紙束を抱え、私は打ち合わせ卓へ運んだ。
大きな仕事ほど、最初から一人で持たない。




