第23話 商品開発3:おでん、出汁の衝撃
「寒いな」
午前一時過ぎ、店へ入ったハンスの肩には、細かな雪が積もっていた。
扉が開いた瞬間、ヒュオッ! と白い風まで店へ飛び込んでくる。
「さっむ! ちょっと待って、今の風、刃物を隠し持っていなかった!?」
思わず両腕を抱くと、アンナがすぐ扉を閉め、留め金をカチリとかけた。
「風の所持品検査はできませんが、隙間風は明日オルフ様へ相談いたします」
「元王女を一撃で庶民の悲鳴に戻すなんて、冬将軍、恐るべしね……」
「最初から、かなり庶民的だと思うっす」
「ロウ。今それを言う必要あった?」
「なかったっす」
外套を入口の留め具へ掛け、両手で温かいスープの器を包む。それでも指のこわばりは、すぐには消えない。
「今夜は、見回りが長かったんですか?」
「北の柵まで行ってきた。風が抜ける場所でな。肉まんも一つもらうよ」
ハンスはスープを飲み、肉まんを半分に割った。
温かい物を二つ買っても、食べ終わる頃には、外套の表面がまた冷たくなっている。
「もっと、ゆっくり温まれる物があればいいのに」
私が呟くと、ハンスが器から顔を上げた。
「今のスープでも十分ありがたいぞ」
「ありがたいのと、改善の余地があるのは両立します。それに、その指。まだ真っ赤じゃない」
「見回りならこんなもんだ。食べたら、また外へ戻る」
「また、あの風の中へ?」
「仕事だからな」
ハンスは何でもないことのように笑った。
けれど、器を置いた指は、わずかに震えている。
暖かい店内から「頑張って」と送り出すだけなら簡単だ。外へ出る人の腹の中へ、少しでも長く残る温かさを渡せないだろうか。
「足りないと言いたいのではありません。汁だけでなく、いろいろな具を同じ鍋で煮て、好きな物を選べたらどうかしら」
「肉も入るのか?」
「魚、卵、根菜。腹の具合に合わせて」
「俺は卵がいいな」
ハンスの返事は早かった。
前世の冬、レジ横の鍋から立つ湯気を思い出す。
大根、卵、練り物。透明な出汁の中で、具の色と味が少しずつ重なる料理。
「おでんを作りましょう」
来た。
前世の冬、レジ横でグツグツと湯気を上げ、疲れ切った帰宅客の足を吸い寄せていた、あの茶色い大鍋。
『冬の最終兵器――おでん、キター!』
ただし、ここは異世界。大根も、ちくわも、便利な温度管理機もない。
記憶どおり並べれば完成、とはいかない。むしろ、ここからが本番だ。
「おでん?」
「具を選べる、出汁の煮込み料理よ」
その夜、注文記録の余白へ、ハンスが最初に選んだ『卵』と書いた。
◇◇◇
翌日の市場で、私はロバートのホワイトルートを手に取った。
白く太い根菜で、煮るとやわらかくなり、わずかな甘みが出る。以前からスープに使っているが、今回は輪切りのまま主役にしたい。
「大きく切ると、火が通るまで時間がかかりますよ」
ロバートが断面を見せる。
「皮の近くは筋が残る。下茹でしてから、煮汁へ入れた方がいい」
「味を染み込ませるには?」
「煮立て続けるより、一度火を弱めて休ませることですね。うちでは冬の煮込みをそうします」
前世のおでんへ、村の煮込みの知恵が重なる。
卵は、殻にひびのない物を仕入れ、別鍋で固く茹でる。殻をむいた時刻を記し、同じ夜のうちに使い切る。
問題は魚の具だった。
魚屋へ相談すると、店主は小ぶりの川魚を三尾並べた。
「焼くには細いが、骨から身を外して叩くなら使える。売り物にならず、家で汁にする魚だ」
「では、その身で団子を作りたいんです」
「魚を団子に?」
店主は眉を上げたが、すぐ包丁を持った。
「小骨が残れば危ない。まず俺が身を外す。店で叩いた後も、指で二度確かめろ」
厨房では、身を冷やしたまま細かく叩き、塩を少しずつ加えた。粘りが出たところへ卵白と、ロバートが根から取ったでんぷんを混ぜる。
「粉を入れすぎると、魚の味が消えますね」
ミアが一回目の団子を噛んで言った。
「形はきれいだけど、パンみたいっす」
「魚団子を作ったはずなのに、魚が遠い……。どこへ行ったの、魚! 帰ってきて!」
半分に割って鼻を近づけても、でんぷんの匂いが堂々と居座っている。
「見た目だけなら、すごく立派ですよ」
「ミア、その慰め方は失敗を確定させるわ」
「食べれば腹にはたまるっす」
「ロウの採用基準、食べられるかどうかの一段しかないの!?」
ロウも首をひねる。
二回目はでんぷんを半分にした。今度は湯の中で一個が崩れた。
ポロッ。ホロホロ。バラバラ……。
団子だったものが、鍋の中で自由を求めて散っていく。
「待って! 自由にならないで! あなたたちは団子として一つにまとまる使命があるの!」
「呼びかけても戻らないっすよ」
「分かってるわよ! 悔しいから言ってるの!」
穴あき匙で魚の欠片を追いかけながら、私は唇を尖らせた。
三回目。塩を加えて練る時間を少し延ばし、でんぷんは一回目の三分の二。丸めた団子を別鍋で十分に茹でてから割ると、中心まで白く火が通り、歯を押し返す弾力も残った。
「これなら魚を食べた感じがあります」
「採用ね。ただし、毎日作れる数は魚屋さんの入荷次第」
大きな魚を、この料理のためだけに安く買い集めるつもりはない。小ぶりでも鮮度のよい魚を生かせる日だけ、数を作る。
◇◇◇
おでんの命は、具をつなぐ出汁だった。
けれど、出汁そのものがこの世界に存在しないわけではない。
村では骨を煮た汁も、野菜の煮汁も昔から使われている。夜祭りでは私たちも、焼き野菜から出汁を取ったスープを出した。
今回したいのは、強い味を一つ作ることではない。
魚骨、焼いた根菜の端、干し茸。それぞれの薄い味を重ね、具を長く煮ても濁りすぎない汁にすることだ。
「使える端材と、捨てる物を混ぜないでね」
私は仕込み台を二つに分けた。
よく洗い、傷みのない野菜の端は出汁用。土の落ちない皮や、保存時刻を越えた物は廃棄。魚骨は魚屋で血を洗い、軽く焼いて臭みを抑える。
一回目は、すべてを最初から大鍋へ入れた。
三時間後、汁は濃い茶色になり、魚の香りが野菜を覆っていた。
「力強い味っす」
ロウが慎重に言う。
「おでんの具より、この汁が主役になりそうです」
「ええ。具を入れたら『そこをどけ、俺が出汁だ』って押し返されそうね」
「出汁、かなり偉そうっす」
「作った私に似たと言いたいの?」
「そこまでは言ってないっす!」
ロウがブンブン首を振る。振りすぎて目まで回しそうだ。
味見した私は、眉間を押さえた。
『濃い。とにかく濃い。魚と野菜が鍋の中で肩を組んで、味覚へ突撃してくる!』
不味くはない。けれど、これでは具を選ぶ料理ではなく、強烈な汁へ何を沈めても同じ味になる。
ミアの評価はもっと正確だった。
二回目は、魚骨を短い時間で引き上げ、干し茸は火を止める少し前に加えた。煮立たせず、表面が揺れる火加減を保つ。
布で濾すと、淡い琥珀色の汁が落ちた。
塩を入れる前に、全員で味を見る。
「薄いのに、後から魚と野菜が来るっす」
「根菜を入れたら、もっと甘くなりそうですね」
「これを土台にしましょう」
塩は最後に少しだけ。具からも味が出るため、最初に完成させすぎない。
そこへ、下茹でしたホワイトルート、殻をむいた卵、別鍋で火を通した魚団子、にんじんに似た赤い根菜を入れる。
静かな鍋の中で、具がゆっくり色づいていった。
湯気には、魚だけでも、野菜だけでもない香りがある。
「これが、出汁を重ねるということなんですね」
ミアが小皿の汁を飲んだ。
「私の記憶だけでは作れなかったわ。ロバートさんの煮方と、魚屋さんの骨の扱いがあってこそよ」
レシピの上へ、材料だけでなく教わった人の名も書き加えた。
◇◇◇
販売前に、もう一つ決めることがあった。
大鍋へ生の具を次々に足せば、何がいつ火を通ったか分からなくなる。
卵、魚団子、根菜は別々に下ごしらえし、鍋へ入れた時刻を札へ書く。営業中は湯気が立つ温度を保ち、鍋の底と表面を交代で確かめる。追加する具は、別鍋で十分に加熱したものだけ。
当夜の分は当夜で終える。残った汁へ翌日の具を継ぎ足さない。
「せっかく味が深くなったのに、もったいなくないっすか?」
「何日も継ぎ足す技術は、温度と衛生を安定して管理できてから。今は一晩ごとに作る」
器は厚手の木椀にした。熱が手へ直接伝わりにくく、置いたとき倒れにくい。持ち帰りは蓋付き容器を持参した客だけにし、夜道を歩きながら飲まないよう伝える。
価格は具ごとに分けると会計が複雑になる。
初回は、ホワイトルート一切れ、卵一個、魚団子二個から二つを選び、出汁を添える一椀二十五銅貨。追加の具は一つ六銅貨から。原価の高い卵だけは八銅貨とした。
「好きな物を選べるのが、おでんの楽しさよ」
「全部入れたい人は?」
「追加で買えます。でも、最初から大盛りを勧めない。食べきれる量を聞きましょう」
初日は十二椀分だけ。
鍋の大きさに惑わされて、売れる量まで大きく見積もらない。
◇◇◇
午前零時。
最初に店へ入ったハンスは、大鍋の前で足を止めた。
「本当に作ったのか」
「卵を選ぶと聞きましたから」
「あの一言で?」
「ええ。お客様の一言を拾って形にするのが、うちの店です」
「俺はてっきり、思いつきを口にしただけだぞ」
「店主の前で食べ物の要望を口にするなら、覚悟してください。だいたい試作表に捕まります」
「怖い店だな」
「便利な店と言って」
蓋を開けると、白い湯気が立ち上がった。
「卵と、ホワイトルートを」
「魚団子はよいの?」
「初めての物は、ベルトに先に食わせる」
ちょうど扉を開けたベルトが抗議した。
「俺を毒見役にするな。魚団子と卵をくれ」
二人は窓際の席へ座った。
「器も汁も熱いので、最初は匙で少しずつ。外へ持って出ないでください」
ハンスが出汁を一口飲み、黙った。
「どう?」
ベルトが先に尋ねる。
「塩は強くないのに、味が残る。スープより静かな味だな」
「静かな味って何だ」
「知らん。でも、そうなんだ」
ベルトは魚団子を半分に割った。
「これはうまい。でも俺は、もう少し歯応えがある方が好きだ」
次の試作で、魚を粗く残す分も作ると記録する。
ディランは根菜を二種類。別の衛兵は卵を二個。夜食を済ませてきた客は、出汁とホワイトルートだけを選んだ。
財布を開いて迷った若い荷運び人には、出汁と小さな根菜一切れの十銅貨椀も案内した。
「具を選べる料理が、銅貨を多く持つ人だけの楽しみになっては困るもの」
アンナは原価を確かめ、根菜の切れ端ではなく、最初から小さく切り分けた分を別の器へ用意した。安い方だけ見劣りする盛り方にはしない。
十二椀は午前三時前に売り切れた。
喜びより先に、鍋の札を『本日終了』へ替える。
「追加はないのか?」
「今夜、安全に用意した分はここまでです。明日の予約を承ります」
「鍋はまだ大きいのに、十二椀だけか」
「そう言われると、私の商売人魂も『今すぐ追加! 売れるだけ売れ!』って大暴れしているんです。もう胸の中で机をドンドン叩いています」
「なら、足せばいいじゃないか」
「駄目です。生の魚団子を入れた時刻が分からなくなったら、食べる方を危険にさらす。売上に負けて決めた手順を曲げたら、次も曲げます」
言い切ると、追加を求めた客は少し驚き、それから肩をすくめた。
「そこまで言うなら、明日予約するよ。卵と根菜で」
「承りました!」
売り逃した。悔しい。ものすごく悔しい。
でも、明日の信頼まで売らずに済んだ。今夜は、それでよし。
残念そうな顔もあったが、その場で生の具を足すことはしなかった。
◇◇◇
数日後、ハンスが蓋付きの小鍋を持ってきた。
「出汁を分けてもらえないか。妻が風邪をひいて、食欲がないんだ」
「診療所には?」
「昼に診てもらった。薬も受け取っている。温かい物なら少し飲めそうだと言ってな」
私は安堵し、出汁だけを小鍋へ注いだ。
「これは治療にはなりません。今夜のうちにもう一度しっかり沸かし、飲み残しは明日へ持ち越さないでください。味が濃ければ湯で薄めて」
「分かった。代金は?」
「出汁にも材料と仕事があります。十銅貨です」
善意だから無料にするのではなく、続けられる形で渡す。
翌夜、ハンスは空の小鍋を返しに来た。
「妻が、久しぶりに一椀飲めた。医者からも、食べられる物を少しずつと言われてる。ありがとう」
「よかった。熱が上がったら、また診療所へ」
「ああ。それで、妻が作り方を知りたいと言ってる」
その言葉に、私は一瞬だけ返事が遅れた。
『作り方を教えたら、売れなくなる』
頭の中で、銅貨に羽が生えてパタパタ飛んでいく。
待って。行かないで、私の売上! せめて原価を置いていって!
笑い飛ばしたいのに、喉の奥が少し硬くなった。
これは料理一つの話ではない。店だけが作れる便利さを増やせば、村はますます店を必要とする。それを「成功」と呼ぶのは簡単だ。
でも、店が閉まっただけで家の食卓まで困るなら、それは便利ではなく依存ではないか。
家庭で作れるようになれば、店へ買いに来る人は減るかもしれない。
新しい料理を生み出したことは、店の強みだ。配合を秘密にすれば、客はここへ来る。
けれど、誰かの家の鍋を空にして、店の大鍋だけを満たすことが、私の望んだ便利さだろうか。
「基本の作り方を紙にします」
「いいのか?」
「ええ。家で作る時間がない夜は、店を使ってください。家族と鍋を囲める日は、家で作ってほしいわ」
「商売人が、そんなことを言っていいのか?」
「よくないかもしれません。今、私の中の商売人が床を転げ回って抗議しています」
「じゃあ、やめるか?」
「やめません。売上が減るのは悔しい。でも、あなたの奥様が『店へ行かなければ飲めない』より、『家でも作れるけれど今日は店に頼ろう』と選んでくださる方が、私はうれしい」
きれいごとだけではない。
信頼されれば、忙しい夜には戻ってきてもらえるかもしれない。材料や道具という別の商いも生まれる。
利益と親切は、いつも殴り合う敵同士ではない。座る椅子を増やせば、同じ卓につけることもある。
ハンスの表情がほどけた。
◇◇◇
翌日の午後、店の入口へ『家庭のおでん作り』と書いた紙を貼った。
魚骨は必ず魚屋へ下処理を頼むこと。知らない川草や茸を自己判断で入れないこと。卵と魚団子は中まで火を通すこと。作った日のうちに食べきること。
味の配合だけでなく、安全の手順も一緒に書いた。
オルフは妻に頼まれたと言って紙を写し、ロバートは「ホワイトルートの煮崩れない切り方」を余白へ追加した。魚屋は、家庭向けに骨と身を分けた小さな組を作り始めた。
「店の客を減らしてしまいませんか?」
ミアが心配そうに尋ねた。
「少しは減るかもしれない。でも、店でしか作れないから買うのと、作れるけれど今夜は任せたいから買うのでは、信頼が違うと思う」
「私も家で父と作って、味を比べてみます」
「その結果、家の方がおいしくても正直に教えてね」
「それは少し言いにくいです」
「大事な調査よ」
笑いながら、私たちは次の鍋を仕込んだ。
予想に反し、店の注文は大きく減らなかった。家で作った客が「魚団子が崩れた」「出汁が濁った」と相談へ来て、次は材料だけ買う。忙しい夜は完成した一椀を選び、休日には家族で鍋を囲む。
店と家庭が、客を奪い合う必要はなかった。
◇◇◇
一週間後、魚屋が帳面を持って訪ねてきた。
「魚団子に使える小魚の注文が、前の三倍になった」
「捕りすぎになりませんか?」
「冬は今のところ大丈夫だ。ただ、毎週この量が続くなら、網を入れる場所と日を決めないと川が痩せる」
ロバートからも、ホワイトルートの問い合わせが増えたと聞いた。
「うれしい悲鳴、で済ませてはいけませんね」
アンナが仕入れ帳を開く。
人気が出れば、店は多く欲しがる。生産者は売れるうちに多く作ろうとする。けれど、来月も同じ量が売れる保証はない。値段が上がりすぎれば、村の家庭が買えなくなる。
「店が必要な量と、買える価格を先に伝えましょう」
「農家や魚屋の側にも、出せる量と、続けられる価格があります」
ミアが言った。
「ええ。一方だけが決めるのではなく、両方の約束を紙にする」
大鍋の湯気は、店の中だけに留まらず、村の家々へ広がり始めた。
次に守るべきは、その温かさを支える人たちだった。
「ところで、味の染みた卵が一つ残っていたはずですが」
アンナが鍋をのぞく。
全員の視線が、モグモグしているロウへ集まった。
「……品質確認っす」
「感想は?」
「出汁、しみしみ。心、ホカホカっす」
スン……。
宣伝文句としては悪くない。無断試食としては完全にアウトだ。
私は仕入れ契約の紙へ向かう前に、試食記録と在庫数が一致する仕組み、と大きく書き足した。




