第2話 夜の村は真っ暗
スノーベル村で迎える、二日目の朝。
鶏の声で目を覚ました私は、見慣れない木目の天井をしばらく眺めていた。
薄い寝台。干した草の匂いが残る布団。窓の向こうには、王宮の尖塔ではなく、朝霧をまとった畑がある。
昨日までの私なら、起きれば侍女が湯を運び、今日の予定を告げてくれた。けれど、今は誰も私に公務を求めない。
胸の奥が、ほんの少し空洞になる。
だから私は、その空洞を埋めるように跳ね起きた。
「市場調査をしましょう」
朝食の席で宣言すると、向かいにいたアンナがスプーンを止めた。
「しじょう……ですか?」
「この村の誰が、いつ、何に困っているのかを調べるの。昨夜聞いた話だけで店を始めたら、ただの思いつきでしょう?」
「昨日は、絶対に成功するとおっしゃっていたような……」
「成功すると信じることと、確かめずに突っ走ることは別よ」
前世の店長の口癖を借りて、私は胸を張った。
田中里美だった頃、発注を任されたばかりの私は、暑くなるという予報だけを信じて冷たい麺を大量に仕入れたことがある。ところが当日は土砂降り。棚には売れ残った麺が並び、店長は怒る代わりに、廃棄伝票を私へ渡した。
『予想は数字にして、数字は現場で確かめるんだ』
あの紙の重さは、今も手に残っている。
「まずは立地。次にお客さん。それから、今あるお店と喧嘩をしない商品」
「喧嘩、ですか?」
「私たちが便利になるほど、困る人が出たら長続きしないもの」
口にしてから、王宮にいた自分はそれをどこまで考えられていただろうと思った。正しい制度を作れば、民は皆喜ぶ。そう信じ、数字の向こうにいる顔を見ようとしなかったこともある。
アンナはしばらく私を見つめ、それから静かに笑った。
「では今日は、顔を見に行く日ですね」
「ええ。アンナも一緒に来てくれる?」
「もちろんです。ただし、知らない方について行くのと、暗くなってからお一人で出歩くのは禁止です」
「子供じゃないわよ」
「昨夜、道の窪みで二度つまずいた方がおっしゃっても、説得力がございません」
反論できない。
私は咳払いでごまかし、紙と炭筆を鞄へ入れた。
◇◇◇
朝の村は、昨夜とは別の生き物のようだった。
畑では鍬が土を返し、鍛冶屋からは鉄を打つ澄んだ音が響く。宿屋の裏では薪が割られ、パン屋の煙突から流れる香りが、空腹でもないのに足を止めさせた。
「活気があるじゃない」
「皆、日があるうちに仕事を終えなければなりませんから」
王都では夜も魔道灯が街路を照らしていた。けれど魔石は高価だ。小さな村では、太陽こそが誰にも平等な照明なのだろう。
「おはようございます」
畑の畦から声をかけてきたのは、日に焼けた中年の男性だった。土のついた手を慌てて服で拭き、深々と頭を下げる。
「元王女様、このような所へようこそ」
元王女様。
歓迎の言葉なのに、その呼び名だけが胸へ小さく刺さった。私はもう王女ではない。けれど、村の人にとっては、何者になったのか分からない余所者でもある。
「顔を上げてください。私はリリアーナです。あなたのお名前も伺っていいかしら」
男性は驚いたように瞬きをした。
「ロバート・クラウスと申します。娘のミアと、この畑をやっております」
「ミアさん」
「ええ。落ち着きのない娘ですが、今度ご挨拶に伺わせます」
働き手候補、という言葉が頭に浮かびかける。だが、私は慌てて飲み込んだ。会ったこともない娘を、頭数として数えるのは失礼だ。
「ぜひ。お仕事の邪魔をしてごめんなさい」
「滅相もない!」
ロバートは大きく手を振ったが、別れ際の表情は少しだけ柔らかくなっていた。
雑貨屋、肉屋、パン屋、鍛冶屋、宿屋。
順に回ると、小さいながらも村の暮らしに必要なものは一通り揃っていることが分かった。棚は王都ほど豊富ではない。けれど、どの店にも店主の工夫があった。雑貨屋では農具の柄を無料で締め直し、肉屋は塩漬け肉の切り方まで客に教えている。
「品揃えだけなら、まとめて扱う店に勝ち目はある。でも、それだけでお客さんを奪ったら駄目ね」
「リリアーナ様のお店は、皆さんが閉めた後に開くのでしょう?」
「そう。まずは昼の商売を邪魔しない。売ってほしい物を卸してもらえれば、こちらも助かる。パン屋さんのパンを夜に売る方法だってあるわ」
すべて自分で作ろうとしていた昨夜より、店の輪郭が少しだけ現実に近づいた気がした。
◇◇◇
街道沿いの小さな衛兵詰所には、王国の紋章が掲げられていた。
それを見上げた瞬間、謁見の間で浴びた視線が蘇る。私は無意識に足を止めた。
「戻りますか?」
アンナは理由を尋ねずに言った。
「いいえ。紋章がお客さんになるわけじゃないもの」
扉を叩くと、筋骨たくましい男性が顔を出した。
「はい……おお、元王女様!」
「リリアーナです。昨日からこちらで暮らしています。ご挨拶に伺いました」
「衛兵のベルトです。こっちはハンス。辺境まで大変だったでしょう」
奥から現れた痩せ型のハンスも、礼儀正しく頭を下げる。二人の机には、紙包みからのぞく黒いパンと干し肉が置かれていた。
「それがお昼ですか?」
「昼と、今夜の夜食です」
ベルトは照れたように笑った。
「夜勤はお腹が空きませんか?」
「慣れていますよ。ただ、夜中に食えるのは固いパンと干し肉くらいで」
「贅沢を言えば、温かい物が欲しいですけどね」
ハンスの声には、願いより諦めの方が濃かった。
「でも、昔からそういうものですから」
――仕方ない。
里美だった頃、夜中の三時に作業着のまま来店する配送員も、救急外来を終えた看護師も、よくそう言っていた。
『この時間は、仕方ないから』
それでも、湯気の立つカップを渡すと、皆ほんの少し肩を下ろした。便利とは、怠けるためだけのものではない。頑張り続ける人が、もう一歩だけ歩くための手すりにもなる。
「もし、夜中でも温かい軽食を買える店があったら、利用しますか?」
二人は顔を見合わせた。
「夜中に開く店?」
「仮の話です。値段も、昼のお店とかけ離れないものとして」
「それなら毎晩でも行きたいな」
ベルトが即答し、ハンスも身を乗り出す。
「スープがあったら嬉しいです。冬の見回りの後なんて、指が動かなくなるので」
『キタ━━━━(゜∀゜)━━━━!!』
心の中で、前世仕込みの万歳が盛大に炸裂した。
危ない。今の私は元王女。ここで机へ飛び乗って勝利の舞を踊るわけにはいかない。
口元を引き締める。背筋を伸ばす。炭筆を構える。
完璧。どこから見ても冷静な市場調査――のはずだった。
「あの、リリアーナさん」
「はい?」
「炭筆、逆さまですよ」
ハンスが遠慮がちに教えてくれた。
スン……。
「これは、その……握り心地を確認していたの」
「左様でございますか」
アンナの声から感情が消えた。お願い、そこで納得しないで。むしろ笑って。
温かい物。夜中。毎晩でも利用したい。欲しかった答えが三つまとめて飛び込んできたのだ。ここで平静な顔を保てた自分を褒めたい。
私は紙に、温かい物、価格、冬、と書き留めた。
「夜の見回りは二人だけですか? 危険な場所は? 店に明かりがつけば、かえって賊を呼びませんか?」
喜ぶ顔だけ見て帰りそうになった私の横で、アンナが質問を重ねる。
ベルトは顎を撫でた。
「街道沿いで、詰所から見える場所なら目は届く。ただ、女二人で夜通しというのは勧められませんね」
私は新たに、安全、と大きく記した。
夢には、戸締まりが必要らしい。
◇◇◇
宿屋『銀の狼』は、二階建てのこぢんまりした建物だった。
主人のウォルターは、人の良さそうな丸い顔で私たちを迎えてくれた。朝に発った冒険者が何組かおり、次の客は夕方に来るという。
「皆さん、夜はどう過ごすんですか?」
「食堂で情報交換をしたり、装備を手入れしたり。夕食は出しますが、厨房を片づけた後までは対応できません」
「夜食を求められることは?」
「ありますよ。ですが、うちも朝食の仕込みがありますからね」
申し訳なさそうに笑うウォルターへ、私は首を振った。
「責めているのではないんです。もし夜に軽食や保存食を買える店ができたら、宿泊客へ案内していただけるかと思って」
「それは助かります。ただし、うちの夕食まで取られてしまうと困りますが」
穏やかな声の中に、商売人の警戒が混じる。
「夕食を出すつもりはありません。食堂が閉まった後の軽食と、早朝出発の方の補給です。それに、宿で夕食を食べた方には少し安くする仕組みも考えられます」
「ほう」
ウォルターの眉が上がった。
私一人の便利ではなく、村全体の便利にする。その方がきっと強い。
宿を出たところで、幌を連ねた荷馬車が街道を通った。御者の掛け声と、車輪が石を噛む音が近づき、やがて土煙だけを残して遠ざかる。
「王都と地方を結ぶ商隊です。週に二、三度は通ります」
アンナの説明に、私は紙へ仕入れと書き足した。
「毎日届くわけではないのね」
「冬は雪で遅れることもございます」
売り切れれば困る。仕入れすぎれば腐る。魔道具の冷蔵箱があったとしても、王都のコンビニのような毎日配送は望めない。
「最初から何十種類も並べるのは無理ね。少なく仕入れて、売れ方を見る」
「それなら、資金も抑えられます」
「アンナ。私の手持ちがいくらあるか、帰ったら一緒に数えてくれる?」
「承知しました」
返事の後に、短い沈黙が落ちる。
「……私たちの、と数えてもよろしいでしょうか」
私は足を止めた。
アンナは前を向いたままだった。仕える主人が追放されたせいで、彼女も王宮での暮らしを捨てた。それなのに私は、まだ自分一人の挑戦のように語っていたのだ。
「ええ。私たちの資金よ。でも、お給料は必ず別にする。そこだけは譲らないから」
「頑固でいらっしゃいますね」
「経営者ですもの」
今度のアンナの笑みは、侍女が主人へ向けるものより、少し近く見えた。
◇◇◇
午後五時半。
まだ西の空に赤みが残っているのに、パン屋は『本日終了』の札を掛け、肉屋は鎧戸を下ろし始めていた。六時の鐘が鳴る頃には、雑貨屋も鍛冶屋も静かになる。
そして、日が沈んだ。
「……本当に真っ暗」
家々の窓には細い明かりがある。だが店先の灯は一つもない。昼間はあれほど働く音で満ちていた道が、黒い布を掛けられたように沈んでいる。
夜は、客がいない時間ではない。
客になる人まで、見えなくなる時間なのだ。
夕食を終えた午後八時、私は外套を羽織った。
「少しだけ、見てくるわ」
「お一人で出歩くのは禁止だと、今朝申し上げました」
「気づかれずに聞きたいの。こちらが質問すれば、元王女相手だから気を遣うでしょう?」
「ならば私も離れて――」
「アンナがいたら、暗闇でも侍女だと分かるわ」
唇を引き結ぶアンナの手を、私は両手で包んだ。
「衛兵詰所と宿屋の前だけ。半刻で戻る。危険を感じたら走る。約束する」
「……半刻を過ぎたら、ベルトさんを連れて捜します」
許されたわけではない。条件付きで見逃してもらったのだ。
月明かりを頼りに進む道は、昼よりずっと長く感じた。物音のたびに肩が跳ねる。王宮の夜道には警備兵も魔道灯もあった。夜に働く店を作りたいと言いながら、私は夜の怖さを何も知らなかった。
衛兵詰所の窓から、声が漏れてくる。
「腹減ったな」
「さっき食っただろ。干し肉」
「あれで腹が膨れるなら苦労しねえよ」
昼の聞き取りに答えた二人の、飾らない本音だった。
宿屋の軒下では、三人の冒険者が荷袋を広げている。
「保存食が一日分足りない」
「朝まで待てば出発が遅れる。森を日暮れ前に抜けられなくなるぞ」
「昨夕に買っておけと言っただろう」
ただ買えないだけではない。朝の遅れが、旅の安全まで左右する。
「早朝に出る人は多いのかしら……」
思わず漏らすと、一人がこちらを見た。
「涼しいうちに距離を稼ぎたいからな。お嬢さん、こんな時間に一人か?」
「す、すぐそこの者です。ありがとうございます」
私は頭を下げ、足早にその場を離れた。
暗闇の中で、胸の鼓動だけがやけに大きい。それでも恐怖の奥で、計画の芯が熱を持っていた。
温かい夜食。出発前の保存食。そして、客にも働く側にも安全な場所。
必要としている人は、本当にいる。
◇◇◇
扉を開けると、アンナが砂時計を握って立っていた。
「ただいま」
「あと砂三粒で、衛兵詰所へ向かうところでした」
「ごめんなさい」
素直に謝ると、アンナは怒る機会を失ったように息を吐いた。私は冷えた手を温めてもらいながら、見聞きしたことを机の紙へ並べた。
「お客さんは三つの層に分けられるわ。まず、毎晩働く衛兵さん。次に、宿へ泊まる冒険者や商人。最後に、急に必要な物ができた村の人」
「三番目は、毎日いらっしゃるとは限りませんね」
「ええ。だから最初の売上は、衛兵さんと旅人を基準にする」
主力は、おにぎり、温かいスープ、肉まんに似た蒸しパン。補う商品としてパン、菓子、飲み物。冒険者には日持ちする携帯食と、手当てに使う布などをまとめた補給品。
思いつくまま話していると、アンナが紙の端を指した。
「作る時間と人手は?」
「……最初は品数を絞る」
「夜通しお店を開けた後、昼にすべて作るおつもりですか?」
「交代で眠れる形を考える。営業時間も、いきなり毎日ではなくていいかもしれない」
「資金は?」
「手持ちを確認して、足りなければもっと小さく始める」
「既存のお店との関係は?」
「昼には競わない。できるだけ村で作った物を仕入れる」
答えるたび、夢から余分な飾りが削られ、代わりに骨が入っていく。
「それから、店の場所ね。街道沿いで、宿屋と衛兵詰所に近いこと。二人から見える範囲なら安全にもつながる」
アンナは一つずつ読み返し、ようやく頷いた。
「昨日より、ずっとお店らしくなりました」
「昨日はお店じゃなくて、私の興奮だったもの」
自分で言うと、二人で笑ってしまった。
窓の外は相変わらず暗い。
王都なら、私はあの闇を遠い場所から眺め、治安維持や街路灯の予算を考えただろう。今は、その中で空腹を抱える人の声を知っている。
ローランに見返したい。
役立たずではないと証明したい。
その気持ちは消えていない。けれど、それだけのためなら、寒い夜に立つハンスたちの顔はこんなに鮮明に浮かばないはずだ。
「アンナ。明日から、店にできる建物を探しましょう」
「はい」
「世界で最初だからって、世界一大きな店にする必要はないわ。まずは、今夜困っている人の手に届く店を作る」
アンナは砂時計を机へ置き、私の紙の一番上に線を引いた。
そこへ二人で、最初の方針を書き込む。
――小さく始める。夜に灯す。長く続ける。
その文字を眺めていたら、くぅ、と小さな音がした。
私はアンナを見る。
アンナも私を見る。
「今のは私ではございません」
「まだ何も言ってないわ」
「お顔に書いてございました」
市場調査に夢中で、夕食を軽く済ませすぎたらしい。夜食を売ろうという人間が、開店前から夜中に空腹である。説得力だけは満点だ。
「……温かいスープ、私も欲しい」
「では、最初のお客様はリリアーナ様ですね」
アンナが笑い、私も笑った。
真っ暗な村のどこかで、今も誰かのお腹が鳴っている。
まずは、その音へ届く店を作ろう。




