第1話 婚約破棄、辺境送り、そして記憶
王宮の大広間では、天井いっぱいのシャンデリアがギラギラと輝いていた。
磨き抜かれた大理石は靴の先まで映し、貴婦人たちのドレスでは宝石がギラリ。扇の陰では噂話がザワッ。おまけに甘い香水が鼻の奥へグイグイ攻め込んでくる。
豪華。絢爛。息苦しい。
宝石箱をひっくり返したような夜なのに、私の周りだけ冬の隙間風でも吹いているみたいに冷たかった。
その中央に、私――リリアーナ・フィオーレは立っていた。
いや、正確には立たされていた。
隣には、金髪を一筋の乱れもなく撫でつけた王太子ローラン殿下がいる。
いつも通り、顔だけなら文句なしの王子様だ。顔だけなら。
彼は貴族たちを見渡し、鏡の前で百回は練習したような笑みを浮かべていた。
「皆様、本日はお忙しい中お集まりいただき、ありがとうございます」
朗々とした声が広間に響く。
私は微笑みを崩さないまま、指先だけをソッと握った。
今夜ここへ来るよう命じられたものの、何の説明も受けていない。婚約に関する正式な発表なら、当事者である私に一言くらいあって当然だ。
『まさか、婚約披露? それにしては私だけ何も聞いてないんだけど……』
『いや待って。当事者への事前説明、どこへ置き忘れてきたの?』
ところがローラン殿下は、チラリとも私を見ない。胸の奥で警鐘がチリン――では済まず、ガンガン鳴り始めた。
『これ、絶対に祝われる側の扱いじゃないわね?』
「実は皆様に、ご報告があります」
ざわめきが止む。
「リリアーナ・フィオーレとの婚約を、本日をもって破棄いたします」
シン……。
ほんの一瞬、大広間からすべての音が消えた。
言葉は確かに耳へ届いた。けれど理解が途中で盛大につまずき、頭の中に「婚約破棄」の四文字だけがポツンと取り残される。
ドクン。ドクン。
代わりに、自分の鼓動だけがやけに大きい。
『え? 今、婚約破棄って言った?』
『しかも大広間で? 観客つきで? 聞き間違いであってほしい条件が二つも揃ってるんだけど!』
次の瞬間、押さえ込まれていたざわめきが、堰を切ったようにドッと膨らんだ。
扇の陰で囁き合う令嬢。興味深そうに身を乗り出す貴族。気まずそうに目を伏せる老婦人。そのすべての視線が、私の肌に細い針のように突き刺さってくる。
「理由を申し上げます」
ローラン殿下は、まるで用意された報告書を読み上げるように続けた。
「リリアーナ嬢は、魔法の才能も中途半端。剣の腕前も平凡。家事の能力も、王太子妃として相応しいものではありません。何一つ秀でたものがない彼女では、将来の王太子妃を務めることはできないと判断いたしました」
クスリ。
どこかで、小さな笑い声が弾けた。
喉がからからに乾く。あら、飲み物はどこかしら――なんて現実逃避を始める程度には、私は追い詰められていた。
魔法の授業で居眠りし、剣術を面倒がり、家事を侍女任せにしてきた。否定はできない。
でも大勢の前で並べられると、私という人間そのものへ「価値なし」の札を貼られたようだった。
『えぇ……まさかの公開処刑スタイル?』
脳内の私が、両手で頭を抱えている。
笑ってしまいそうなほどひどい状況なのに、身体は笑い方を忘れていた。だから、せめて心の中では盛大にツッコむ。
そうでもしなければ、今にも膝が「本日の営業は終了しました」と崩れ落ちそうだった。
「さらに、王室の品格を保つため、リリアーナ嬢には辺境のスノーベル村で静かに暮らしていただくことになりました」
『追放まできたー! ベタすぎる展開にむしろ清々しいわ!』
心の中で盛大に叫んだものの、もちろん顔には出さない。
出したら最後、「反省の色もない」と追放理由が一つ増えそうだった。もう十分です。これ以上の追加注文は受け付けておりません。
婚約者としてだけでなく、王都からも「不要」と告げられた。その事実に胸が冷える。
それでも泣いて許しを請うつもりはない。声を荒らげれば、それすら「王太子妃に相応しくない証拠」にされるだけだ。
「以上で発表を終わります。新しい王太子妃については、改めてご紹介いたしましょう」
ローラン殿下が広間の奥へ手を差し伸べる。
そこから、美しいブロンドの女性が進み出た。
「セレスティア・ローズウェル嬢です」
セレスティア嬢は、薔薇色のドレスを揺らして一礼した。
悔しいけれど美しい。ただ、その指先はわずかに震えていた。彼女がどこまで知っていたのか、私には分からない。
私が婚約を破棄され、その息も整わないうちに次の相手が紹介された。
パチパチパチ、と盛大な拍手が降り注ぐ。
祝福の音なのに、私には扉を閉める音に聞こえた。
『ああ。私が知らなかっただけで、全部決まっていたのね』
『婚約破棄から次の婚約者紹介まで完璧ね。その段取り力で私への説明も入れておきなさいよ!』
悔しいはずだった。
傷ついていないわけでもない。
それなのに、拍手の波に包まれながら、胸のどこかで小さく息をつく自分もいた。
もう、誰かに決められた王太子妃を演じなくていい。
その安堵を喜んでいいのか、私はまだ分からなかった。
◇◇◇
ガタン、ゴトン。
王都を離れる馬車の中で、アンナは何度目か分からないほど同じ上着を畳み直していた。
布を撫でる指先が、かすかに震えている。
「リリアーナ様……申し訳ございませんでした」
「アンナが謝ることじゃないわ」
「ですが、私はお側にいながら、何も……」
アンナはそこで言葉を詰まらせた。
父の代からフィオーレ家に仕えてくれた人だ。王宮から用意された最低限の荷物をまとめ、誰に命じられたわけでもないのに、辺境までついてきてくれた。
私は畳まれた上着の上へ手を置いた。
「最後まで一緒にいてくれて、ありがとう」
アンナが顔を上げる。
「最後まで、ではございません」
「え?」
「スノーベル村へ着いた後も、お仕えいたします。ですから、最後などと仰らないでください」
静かな声だった。
でも、その言葉は広間の拍手よりもずっと強く、私の胸へ届いた。
私は今日、婚約も王都での居場所も失った。それでも、すべてを失ったわけではなかったらしい。
「そうね。ごめんなさい」
「謝られることではございません」
アンナはようやく、ほんの少しだけ笑った。
馬車は石畳を離れ、土の街道を進んでいく。車輪が窪みを越えるたび、座席が大きく軋んだ。
「でも、リリアーナ様。スノーベル村は王都から三日もかかる辺境です。お知り合いも、後ろ盾もない土地で暮らすなんて……」
「大丈夫よ。案外、私には向いているかもしれないわ」
「辺境暮らしが、でしょうか?」
「自由暮らしが、よ」
言い切ってから、少し格好をつけすぎた気がした。
『まあ、その自由に家も仕事も将来設計もついてこないんだけど!』
そう答えながら、窓の外へ目を向けた。
王都の白い城壁が、少しずつ遠ざかっていく。
自由になれた。それは本心だ。
礼儀作法、誰と話すかまで決められた予定、絶えず向けられる視線。王女の暮らしは、宝石で飾られた窮屈な檻だった。
私は興味を持てない役割を、こなすふりだけでやり過ごしてきた。
『婚約破棄、王都追放、辺境送り。今日の予定表、事故しか書いてないわね……』
泣き崩れずにいる自分が、少しおかしく、少し頼もしい。笑い飛ばさなければ立てないのなら、今はその強がりに助けてもらおう。
「これで自由になれたと思ってるの」
口に出すと、言葉の後ろに大きな空白があることへ気づいた。
自由になって、私は何をするのだろう。
王女でなくなった私に、何が残っているのだろう。
その不安から逃げるように姿勢を変えた――その瞬間。
馬車の車輪が、深い轍へ落ちた。
ガタンッ!
「きゃっ!」
身体がフワリと浮き、次の瞬間、頭を壁へゴツンとぶつける。
「リリアーナ様!」
「大丈夫。少しぶつけただけ……」
痛む場所を押さえた、その時だった。
バチン、と白い光が脳裏を走った。
見たことのないはずの、空へ伸びる建物。
黒く平らな道路を滑る鉄の箱。赤、青、緑と忙しく変わる信号。真夜中なのに、人の流れが途切れない街。
そして、暗闇の中にポツンと浮かぶ、ガラス張りの小さな店。
自動扉が、ウィーンと開く。
『いらっしゃいませー』
ピッ。ピッ。
バーコードを読み取る軽い音。揚げ物の匂い。肉まんケースの白い湯気。棚いっぱいに並んだ、色とりどりの商品。
「コンビニ……?」
知らない言葉が、ひどく懐かしい響きを伴って口からこぼれた。
「コンビニとは、何でしょうか?」
アンナが心配そうに私の顔を覗き込む。
「分からない。でも、知ってる……」
バラバラだった光景が、パチリ、パチリとつながっていく。
現代日本。
田中さとみ。
夜十一時から朝七時までの深夜シフト。
「私、前世でコンビニ店員だった」
「ぜんせ……?」
アンナの困惑した声も、半分しか耳に入らなかった。
『前世の記憶まできたー! 婚約破棄だけでもお腹いっぱいなのに、今日は情報量が多すぎる!』
レジ打ち、商品陳列、清掃、検品、発注。目は眠く、足は棒。それでも一人で深夜の店を回した夜が、身体の感覚ごと戻ってきた。
正直に言おう。
かなり大変な仕事だった。
酔った客に絡まれたことも、急な欠勤で休めなくなったこともある。
それでも、夜勤明けの警備員さんが温かい缶コーヒーを両手で包み、「生き返るなあ」と笑った顔を覚えている。
あの一言だけで、眠気が三割くらい吹き飛んだ。残り七割は根性でどうにかした。
タクシー運転手さん、病院帰りの看護師さん、始発を待つ学生。肉まんやおにぎり一つで、疲れた顔が少しだけ緩んだ。
深夜のコンビニは商品を売るだけでなく、暗い時間に「ここは開いている」と伝える灯りだった。
何一つ秀でていないと言われた私にも、誰かの夜を楽にした経験がある。
その事実が、冷えていた胸の奥へ、ポッと小さな火を灯した。
役立たずなんかじゃない。
少なくとも私は、真夜中に疲れた誰かが何を欲しがるのかを知っている。
「アンナ。この世界で、夜中に営業している店はある?」
「夜中に、ですか?」
「ええ。食べ物や日用品を買える店」
アンナは目を瞬かせた後、首を横に振った。
「聞いたことがございません。日が暮れれば店を閉め、皆様ご自宅へ戻られますから」
「夜勤の人は? お腹が空いたらどうするの?」
「干し肉や固いパンを持参して、水で流し込むくらいでしょうか」
前世で見た疲れた客の顔と、まだ会ったこともないこの世界の夜勤者が重なった。
需要がある。
なのに、提供する店は一軒もない。
頭の中で、カチリ、と商売人のスイッチが入った。
『これよ。この隙間市場!』
『追放されたと思ったら、未開拓市場の目の前に送られていた。ローラン殿下、もしかして私の事業支援者なの? 絶対に違うけど!』
「よしっ!」
パン、と私は膝を叩いた。
「世界初のコンビニを作るわ!」
「こんびに、を?」
「夜中でも明るく開いていて、温かい食べ物や必要な物をすぐ買える店よ。お腹が空いた人も、旅の途中で困った人も、扉を開ければほっとできるの。最初から二十四時間は難しくても、夜だけなら始められるかもしれないわ」
口にした瞬間、胸の奥で何かがパチンと切り替わった。
『キター! これよ、私がやりたかったこと!』
アンナの頭上に疑問符が三つほど見えた。それでも「頭を打ったせい」と片づけず、私の話を聞いてくれる。本当にありがたい。
「まずは村の様子を知ること。夜に働く人が何人いるか調べて、店を開けられる場所を探す。それから商品を考えるの」
白いご飯に具を包んだおにぎり。
割れば湯気がフワッと立つ肉まん。
冷えた指先まで温める、具だくさんのスープ。
思い浮かべた途端、何もないはずの馬車の中に、おいしそうな匂いまで漂ってくる気がした。
『棚には飲み物。入口には旅用品。レジ横には温かい軽食――ああ、考えるだけでワクワクする!』
「リリアーナ様」
「なに?」
「お顔に、色が戻りました」
アンナが目尻を下げた。
その言葉で、自分がずっと強張っていたことを知った。
「ええ。だって、私にもできることがあったみたいだから」
ローラン殿下を見返したい。
役立たずではなかったと証明したい。
そんな意地は、まだ胸の中にある。
でも、それだけではない。
温かいものを受け取って笑った、前世のお客さんたちの顔を、この世界でも見たいと思った。
◇◇◇
それから三日目の夕方。
お尻が馬車の座席と永遠の別れを望み始めた頃、ようやくスノーベル村へ到着した。
御者に礼を言って地面へ降りると、湿った土と草の匂いがした。目の前には、街道に沿って小さな家々が並んでいる。
「えっと……これが村?」
数えてみれば二十軒ほどしかない。
王都の一つの通りよりも小さく見えた。
『村……よね? 地図の余白じゃないわよね?』
『辺境とは聞いていたけど、辺境が全力疾走で迎えにきたわ!』
けれど、よく見れば崩れた家は一つもない。
茅葺きの屋根は丁寧に整えられ、畑には真っ直ぐな畝が並ぶ。軒下では赤い木の実が籠いっぱいに干され、どこかの家から焼きたてのパンの香りまで流れてきた。
小さい。けれど、寂れてはいない。
ここで暮らす人たちが、毎日コツコツ手をかけて守っている村なのだ。
『規模は小さくても、街道と宿と夜勤の人がいる。おまけに空き市場つき。これ、実は当たり物件なのでは?』
「リリアーナ様でしょうか?」
声をかけてきたのは、がっしりとした体格の年配の男性だった。
「はい。リリアーナ・フィオーレです」
「私は村長のガレオ・ストーンと申します。王都からお手紙をいただいておりました」
ガレオ村長は深く頭を下げた。
好奇の視線は感じる。畑仕事の手を止めた人も、家の陰からこちらを見る子どももいる。
けれど、広間で浴びた値踏みするような視線とは違った。
「長い道中、お疲れになったでしょう。まずはお住まいへご案内いたします」
元王女でも、追放者でもなく、長旅を終えた一人の人間として気遣われた。
それだけのことが、今はありがたかった。
「ありがとうございます。これからよろしくお願いいたします」
村を歩きながら、私はさっそく尋ねた。
「ガレオ村長。この村には、夜に働いている方はいらっしゃいますか?」
「夜に、ですか?」
「はい。衛兵や宿屋の方など」
ガレオ村長は顎へ手を当てた。
「衛兵詰所の警備が二名。街道の見回りを兼ねた宿屋の夜番が一名おります。宿屋には冒険者や旅人もよく泊まりますから、夜遅くまで起きている方もいるでしょうな」
たった三人。
『三人! 少ない! でもゼロじゃない!』
前世なら、店長が青い顔で売上表を見つめる客数だ。
けれど今の私には、商品も設備も人手もない。なら、むしろちょうどいい。
最初から百人を相手にする必要はない。
三人のうち、まず一人。
その一人に「助かった」と言ってもらえれば、そこが世界初の一歩になる。
「なぜ、そのようなことを?」
「この村の夜が、どんなものなのか気になったんです」
まだ計画は仮説にすぎない。私はそれ以上を言わず、案内された家を見上げた。
石造りの壁に茅葺きの屋根。こじんまりしているが、窓枠は新しく磨かれ、扉の蝶番には油が差してある。
中には家具と生活用品が一通り揃っていた。
「村の者たちと、できるだけ住みやすいよう整えました」
床を掃き、寝具を干し、欠けた食器を替えてくれた誰かの手間が、部屋の隅々に残っていた。
「本当に、ありがとうございます」
頭を下げると、ガレオ村長は少し困ったように笑った。
「大したことではございません」
家の一角を見ながら、一瞬だけ考える。
『ここを店に……いや、住む場所と店は分けた方がいいかもしれない。まず村を見なくちゃ』
結論を急ぐのは、前世の発注でも失敗のもとだった。
荷ほどきをするアンナを残し、私はガレオ村長と粗末な木の卓を囲んだ。
「村の方は、夜は何時頃に休まれるんですか?」
「日が暮れれば家へ戻り、八時頃には寝る者がほとんどです」
「もし夜中に店が開いていたら、便利だと思いますか?」
「夜中に店を?」
ガレオ村長は驚いた後、すぐに笑わず考えてくれた。
「衛兵たちは助かるでしょう。いつも干し肉をかじっていますからな。ただ、夜は人目が減ります。品物や金を置くなら、治安のことも考えなければなりません」
「確かに、その通りですね」
便利さだけでは店は開けない。働く人と商品を守る仕組みも必要だ。
治安。品物。お金。夜の人手。
頭の中の見えない帳面へ、課題が次々と書き込まれていく。
普通なら頭を抱えるところだろう。
なのに私は、口元が緩むのを止められなかった。
『問題があるなら、仕組みを作ればいい。うん。俄然、燃えてきた!』
◇◇◇
夕方、ガレオ村長が帰り、アンナも荷ほどきを終えた。
「ひとまず、今夜お休みいただける状態になりました」
「ありがとう。アンナがいなかったら、明日の朝まで箱を眺めていたかもしれないわ」
「リリアーナ様は、荷ほどきより先に事業計画を始めてしまいそうですから」
珍しく少しだけ呆れた口調だった。
私は笑いながら窓の外を見る。
午後六時半。
まだ空には橙色が残っているのに、向かいの店が戸板を下ろした。
バタン。
隣も、バタン。
その隣も、バタン。
まるで見えない合図が出たように、村中の店が次々と眠りに落ちていく。
『閉店が早い。早すぎる。前世なら夕方のピークはこれからよ!?』
家々の窓には小さな明かりが灯っている。
それでも街道は暗く、王都の夜に慣れた目には、村全体が眠りへ沈んでいくように見えた。
「少し歩いてくるわ」
「私もお供いたします」
「アンナは休んでいて。すぐ戻るから」
心配そうな顔を残し、私は外へ出た。
夜の空気は、思った以上に冷たい。
吐いた息が白くほどける。灯りのない街道では、靴の下で小石が鳴る音さえ、村の端まで届きそうだった。
暗い。
静か。
そして、不便。
『なるほど。これはコンビニの灯りが映える夜だわ!』
衛兵詰所の前を通りかかると、中から男たちの声が聞こえた。
「今夜も長いな」
「腹は減ったけど、また干し肉か」
「たまには温かいものを食いたいよな」
私は足を止めた。
『需要のほうから歩いてきたー!』
危うく詰所へ飛び込むところだった。落ち着け、私。夜道で突然「その悩み、商売にさせてください」と現れる元王女は、たぶんかなり怖い。
ガレオ村長から聞いた数字ではなく、実際にここで夜を過ごす人の声だった。
さらに宿屋の近くでは、旅装の男たちが荷物を確かめていた。
「明日の出発前に補給したいんだが」
「朝まで待つしかないな。店が開く頃には出発が遅れる」
「夜のうちに買える店があれば便利なんだがな」
前世でも何度も聞いた言葉だ。
こんな時間に開いていて助かった。
その一言が、眠気も忙しさも忘れさせてくれた。
胸の奥に灯った小さな火が、今度ははっきりと形を持った。
『あるわ。まだないけど、これから私が作る!』
次の瞬間、私は走り出していた。
冷たい風が頬を刺す。裾が足に絡む。王女らしい優雅な歩き方なんて、今だけは知ったことではない。
扉を開けると、アンナが椅子から立ち上がる。
「リリアーナ様! お怪我はございませんか?」
「大丈夫。それより、大発見よ! お客様がいるわ!」
「夜道でお客様を拾ってきたのですか?」
「拾ってないわ。需要を見つけたの!」
「その前に、外套をお脱ぎください。手がこんなに冷たくなっています」
アンナはますます分からないという顔をした。それでも有無を言わせず温かい布を渡してくるあたり、侍女として一枚も二枚も上手だ。
「分かったわ。これを羽織ったまま説明する」
私は衛兵と旅人の言葉を、身振りまでつけて一気に話した。
夜中に温かい食事を買えない。
早朝出発の前に補給できない。
誰もが不便を感じながら、「昔からそうだから」と諦めている。
困っている人がいて、私には解決できる知識がある。
これほど胸が躍る組み合わせがあるだろうか。
「この村に夜営業の店を作ったら、きっと喜ばれるわ」
アンナはすぐには答えず、私の話を最後まで聞いた。
「夜にだけ開くお店、ですか」
「ええ。最初は午後八時から朝六時くらい。おにぎり、肉まん、温かいスープ、お弁当。それから旅人が必要とする日用品も少し。暗い街道からでも分かるように、店の前には明るい灯りを置くの」
右の棚には保存食、左には日用品。頭の中では、まだ建物さえない店の扉が、カラン、と開いていた。
『落ち着きなさい。初日から王都進出まで語り始めたら、さすがのアンナもお医者様を呼ぶわ』
「ですが、お商売の経験は……」
「あるの」
思わず答えてから、言葉を選び直す。
「うまく説明できないけれど、私の中に経験が残っているの。それに、いきなり大きく始めるつもりはないわ。村を調べて、場所を探して、許可をもらって、小さく試す」
「治安についても、考えなければなりませんね」
「そうね。ガレオ村長にも同じことを言われたわ」
アンナの表情から、心配がすべて消えたわけではない。
それでも、先ほどまでの途方に暮れた目ではなくなっていた。私が前だけを見て話すうちに、彼女の視線も少しずつ、同じ未来へ向き始めている。
「失敗するかもしれない」
私は自分にも言い聞かせるように続けた。
「でも、もう誰かが決めた役を失敗しないよう演じるだけじゃない。自分で選んだことなら、失敗しても、そこから考え直せる」
広間で浴びた笑い声が蘇る。また役立たずだと証明してしまうのは怖い。
だからこそ、勢いだけで一人では始めない。
「アンナ。私と一緒に働いてくれない?」
「これまで通り、お側でお仕えいたします」
「それだけじゃないの」
私は首を横に振った。
「店の仕事を手伝ってほしい。給料も払うわ。アンナは荷物も予定もきちんと整理できるし、私が見落とすことにも気づいてくれる。忠義に甘えるんじゃなくて、その力を借りたいの」
アンナは目を見開いた。
やがて、畳んだ布を膝の上でソッと握る。
「私でも、お役に立てるでしょうか?」
「もちろん。私一人より、ずっと心強いわ」
「でしたら、喜んで」
その返事は、今日初めて私が自分の意志で手に入れた約束だった。
仲間、一名。
予定地、未定。
商品、未定。
資金――考えたくないので、ひとまず保留。
それでも、不思議なくらい負ける気はしなかった。
私は窓辺へ立った。
外の村は、もう完全な暗闇に包まれている。
でも、いつかあの道に一つの灯りが生まれる。
夜勤の衛兵が温かいスープを飲む。
旅人が、明日の食料を買う。
疲れた誰かが扉を開け、「まだ店が開いていた」とほっと息をつく。
そんな景色が、暗い窓の向こうに重なって見えた。
「明日から準備を始めるわよ。まずは村を歩いて、店にできる場所を探すの!」
「はい、リリアーナ様」
ローラン殿下に見返してやりたい。
中途半端だった王女にも価値があったと証明したい。
その気持ちは、まだ消えない。
けれど今は、それより先に思う。
この世界の長い夜を、少しだけ便利で、ずっと温かいものにしたい。
王女として与えられた人生ではなく、私が選んだ新しい人生が、ここから始まる。
『辺境追放からの、世界初のコンビニ開業!』
胸の中に、不安より大きなワクワクが膨らんでいく。
『ローラン殿下、覚えてらっしゃい。あなたが追放した“中途半端な王女”が、この世界の夜を丸ごと変えてみせるんだから!』
こうして私は、王女の肩書きを失ったその日に、世界一無謀で、世界一楽しそうな開店計画を手に入れた。
その直後、アンナが冷静に尋ねた。
「ところでリリアーナ様。開店資金は、いかほどお持ちなのでしょう」
「…………」
脳内に広げていた輝かしい未来の棚が、ガラガラガッシャーン! と一斉に崩れ落ちた。
夢は世界規模。
資金は辺境規模。
私の新しい人生、開幕早々から経営難である。
「ま、まずは明日、店にできる場所を探しましょう!」
「資金の確認が先でございます」
「アンナ、夢に現実を刺す手つきが鮮やかすぎない?」
「お褒めにあずかり光栄です」
暗い村の小さな家に、私たちの笑い声が初めて弾けた。
王女でなくなった夜。
私はようやく、自分で選んだ明日の話をしていた。




