第12話 常連という宝
夜営業を始めて1週間。
昼過ぎの店内で、私は7日分の売上記録に埋もれていた。
床には紙、紙、紙。
うっかり寝転んだら、元王女ではなく巨大な帳簿の一部として発見されそうである。
「リリアーナ様。そこで動かないでください」
アンナが、恐ろしく真剣な声で言った。
「私が紙を踏みそうだから?」
「すでに1枚、お尻の下です」
「えっ、嘘! どの時間帯!?」
「午前3時から4時です」
「売上の谷を身体で押し潰していたわ!」
慌てて立ち上がり、皺になった紙を伸ばす。
前世のコンビニなら、会計の機械が商品と時刻を自動で記録してくれた。
ここでは売るたび正の字を書き、閉店後に3人で数える。
地味。ひたすら地味。
でも、その1本の線の向こうには、お客様の顔がある。
「午前0時から1時。ここが一番大きな山ね」
時間ごとの売上を棒の長さで描き直す。
「開店を待って来てくださる方と、衛兵の交代、旅人の到着が重なる時間です」
アンナが最初の山を指した。
「午前2時から3時にも、もう1つ山があります!」
ミアが別の紙を持ち上げる。
「宿で出発準備を終えた冒険者と、遅い巡回の衛兵さんが多いです。甘い物も、この時間に増えています」
「夜中に疲れると、甘い物が欲しくなるものね」
「ベルトさんのことですか?」
「個人名は出していないわ!」
「でも、ベルトさんの欄だけ菓子の正の字が真っ黒です」
衛兵の威厳と甘党情報は、どうやら別管理らしい。
「ハンスさんはスープとおにぎり2個が多いです。ベルトさんは同じ組み合わせに甘い菓子。ディランさんは肉まん2個とお茶ですね」
「マーカスさんは大盛り。遠征前は保存食も買っています」
ミアが、知っている顔を思い出すたび嬉しそうに笑う。
「ただし、この紙だけを見て注文を決めつけないこと」
「いつも同じ物なのに、ですか?」
「今日も同じ物が欲しいとは限らないでしょう? 『いつものですか』と、必ず確認するの」
「覚えているなら、黙って出した方が格好よくありませんか?」
「格好よさで注文を外したら、余った肉まんを抱えて私が泣くことになるわ」
「リリアーナ様の涙を防ぐためですか?」
「お客様の選ぶ自由を守るためよ! そのついでに私の涙と廃棄も守られる!」
好みを覚えることは、相手へ近づくことだ。
だからこそ、踏み込んではいけない線も覚えなければならない。
「記録するのは、ご本人が店で話してくださったことだけ。住んでいる場所、給金、家族、来なかった理由を、勝手に尋ね回らないこと」
「心配でも、ですか?」
「危険がありそうなら衛兵へ相談する。でも、店へ来ない自由もあるわ」
田中里美だった頃、毎朝決まった時刻に牛乳を買う老人がいた。
ある日から、パタリと来なくなった。
数週間後、杖をついて戻ってきて、入院していたと知ったときは本当にほっとした。
毎日会っていたのに、名前すら聞いていなかった寂しさも覚えている。
名前を知り、無事を願うことと、その人のすべてを知る権利があると思い込むことは違う。
ミアは少し考え、客別の記録に作っていた『家族』の空欄を消した。
「必要なとき、ご本人から聞けばいいんですね」
「ええ。それで十分よ」
「店側だけがお客様を見ているのではございませんよ」
アンナが紙を並べ直しながら微笑んだ。
「昨夜、ハンスさんが『リリアーナ様は寝ているか』と私へ尋ねました。目の下が黒い、と」
「あ、あれは魔灯の影よ」
「店の灯りは、顔色までよく見えるそうです」
「高性能すぎる照明も考えものね!」
記憶されているのは、お客様だけではないらしい。
◇◇◇
午前0時。
鐘と一緒に扉を開けると、ハンスが最初に入ってきた。
「今夜もよろしく。外は冷えるぞ」
「いらっしゃいませ。いつものスープと、おにぎり2個でよろしいですか?」
ミアが確認する。
「いや、今日はおにぎり1個にする。詰所へ戻る前に、巡回がもう1周増えたんだ。食べすぎると走れん」
「でしたら、小さな塩むすびを1個足しますか? 通常のおにぎりより軽いですよ」
「それがいい。腹が鳴らない程度で、足は重くならなさそうだ」
確認したから、その日の違いが分かった。
もし何も聞かず2個出していたら、「いつもの」は親切ではなく押しつけになっていた。
続いてベルトが入ってくる。
「ベルトさんも、いつもので?」
「食事は同じでいい。甘い物は、何か新しいのがあるか?」
「蜂蜜飴が入りました。試食は小さな欠片ですが、味を見ますか?」
「ぜひ!」
返事が速い。
さすが甘味への警戒心が驚くほど低い衛兵である。
蜂蜜飴を舐めたベルトは、目を細めたあと、値札を見て少し考えた。
「うまい。でも今夜は、いつもの安い飴にする。蜂蜜は給金日の楽しみに取っておくよ」
「かしこまりました!」
断られても、ミアの笑顔は変わらない。
「買わなくても怒らないのか?」
「試食したら絶対に買う決まりなら、試食じゃなくて罠ですから!」
「それもそうだな」
提案は、売上のために逃げ道を塞ぐものではない。
選ぶ材料を増やし、いらない時には気軽に断れるものだ。
2人は会計後、店の隅で短くスープを飲んだ。
見回りの経路を相談し、10分もしないうちに詰所へ戻る。
酒場のように長居する場所ではない。
それでも、次の仕事へ戻る前に肩を下ろせる数分が、2人の夜の一部になり始めていた。
◇◇◇
その翌夜、午前0時を過ぎてもハンスが来なかった。
ベルトだけが店へ入り、「今夜は1人分」と告げる。
「ハンスさんは――」
ミアが反射的に尋ね、途中で口を閉じた。
来ない理由を、こちらから詮索しない。
「街道で荷車の車輪が外れたんだ。怪我人はいないが、戻るのは遅くなる」
ベルトが自分から説明した。
怪我人なし。
その言葉に、私もミアも同時に息を吐く。
「スープを1杯、取り置けるか? 冷えきって戻ると思う」
「販売期限は午前3時です。それまでなら保温できます。過ぎた場合は売らず、短時間で作れる新しい薄めのスープへ替えます」
「そこまでしてくれるのか?」
「代金をいただく以上、期限を過ぎた物を『友情の味です』とは出せません」
「厳しいんだか優しいんだか、分からんな」
「両方を目指しています!」
午前2時30分。
泥だらけのハンスが扉を開けた。
カラン、と鳴った鈴に、ミアが顔を上げる。
「お帰りなさい。お怪我はありませんか?」
「ない。腹だけ減った。あと、腰が泣いてる」
「腰の涙は拭けませんが、スープならあります」
取り置き札のついた杯を渡すと、ハンスは目を丸くした。
「俺が来ると分かってたのか?」
「ベルトさんが頼んでくださいました。代金も預かっています」
「あいつが?」
ハンスは何も言わず、最初の一口を飲んだ。
凍えて赤くなっていた指が、杯の周りでゆっくり緩む。
「……明日は俺が、あいつの飴を買っておく」
「蜂蜜飴ですか?」
「値段を見てから決める」
感動の友情が、急に現実的な予算会議へ着地した。
でも、それでいい。
店が覚えた「いつもの」が、人から人へ渡ることもあるらしい。
◇◇◇
午前1時ごろ、若い冒険者が扉を開けた。
「よう。今夜もちゃんと開いてるな」
「いらっしゃいませ、ディランさん」
20代前半のディランは、この1週間で3度来ている。
背負った剣は入口の留め具へ固定し、店内では触れない。最初に説明した約束を、毎回きちんと守ってくれる人だ。
「肉まん2個とお茶――で、よろしいですか?」
「ああ。いや、今日は温かい茶にしてくれ。明日から北の森へ行くんで、腹を冷やしたくない」
「1週間の遠征ですか?」
「薬草採取の護衛だ。危ない場所じゃないが、雨が続けば帰りは遅れる」
ミアの手が一瞬止まる。
「保存食は足りていますか? 無理にここで買わなくても、宿で用意されているなら大丈夫ですけれど」
「宿の分はある。ここの携帯食も予備に2つ欲しい」
私は販売期限と、濡らさない包み方を説明した。
「帰ってきたら、また『いつもの』を頼むよ」
軽い調子だった。
けれど、その言葉は店の中へホワリと温かく残る。
「必ずご本人に確認してからお出しします」
「そこは黙って出して、俺を感動させてくれよ」
「1週間後には、森の薬草茶へ心変わりしているかもしれないでしょう?」
「俺の肉まんへの愛は、そんなに軽くない」
「では帰ってから、熱く語ってください」
ディランは声を上げて笑い、包みを掲げた。
「分かった。行ってくる」
「行ってらっしゃいませ。無事に帰ってきてくださいね!」
いつもの送り出しが、今夜だけは旅の無事を願う言葉になった。
◇◇◇
午前1時30分。
今度は、大柄な冒険者マーカスが入ってきた。
「よう。今夜も腹が減った。いつもの大盛りを頼む」
「大盛りですね。今夜は、それだけでよろしいですか?」
「遠征用も足してくれ。明日からの依頼が長引きそうなんだ」
「何日分をお持ちですか?」
「3日分。残りは依頼主が出すことになっている」
「では予備は1日分で十分です。多く持つと荷物が重くなります」
「売る側が減らしてどうするんだよ」
「必要以上に売ったら、次から相談していただけなくなるでしょう?」
「商売人らしいんだか、らしくないんだか」
「長く商売する気は満々です!」
マーカスが喉を鳴らして笑った。
大盛りの食事、翌朝用のおにぎり、保存食1日分。
合計80銅貨。
今夜もっとも大きな会計だ。
だからといって、特別に丁寧にするわけではない。
8銅貨の塩むすびを1個買う人にも、同じように保存時間を伝える。
「いつも助かる」
「こちらこそ。無事に戻って、また必要な分を選んでください」
「次は腹を2つ持ってくる」
「どこで増やすんですか!?」
「それくらい食いたいって話だ」
ミアが本気で驚いたので、マーカスはお腹を押さえて笑った。
店は客の財布を覚える場所ではなく、帰りを待てる場所でありたい。
◇◇◇
午前2時になると、新しい顔も数人入ってきた。
それでも店内のおよそ8割は、すでに名前か顔を知る人だ。
「常連さんが増えると、売れる数を予想しやすくなりますね」
客足が途切れた間に、ミアが言う。
「ええ。でも、8割を安心とだけ考えるのは危険よ」
「どうしてですか?」
「勤務が変わったり、遠征へ出たりすれば、一度に客足が減る。それに顔なじみだけで盛り上がったら、初めての方が入りづらいでしょう?」
ちょうど、入口で見知らぬ商人が足を止めていた。
ハンスたちが作った会話の輪を見て、扉へ手を掛けるか迷っている。
「いらっしゃいませ。初めての方には、商品を順にご説明します」
私が声をかけると、商人はほっとしたように入ってきた。
顔なじみの客たちも話を止め、棚の前をサッと空ける。
「常連さんを大切にすることと、常連さんだけの店にすることは違うんですね」
「そういうことよ」
店が人をつなぐのは、内輪を作るためではない。
初めて来た人も、その夜だけ同じ灯りの下へ入れるようにするためだ。
◇◇◇
営業後、アンナが硬貨を数え終えた。
「今夜の売上は520銅貨。1週間の一夜平均より、およそ1割高いです」
「よしっ!」
握った拳を上げかけ、私は途中で止める。
「材料費と賃金と魔石費を引く前ですね。分かっています。分かっているけど、今だけは喜ばせて」
「まだ何も申し上げておりません」
「アンナの顔が言っていたの!」
お金の話になると、幻の注意まで聞こえるようになってしまった。
「顔なじみのお客様は、新規のお客様より、平均購入額が約1.8倍あります」
「好みが分かっているので、選ぶ時間が短いです。それに保存食や新商品も、説明を信じて試してくださいます」
ミアが答えた。
「でも、その信頼を使って毎回余計な物を勧めないこと。必要そうな時だけ、断りやすい言い方で」
「『絶対おいしいですから買ってください』ではなく、『試してみますか。今日はやめても大丈夫です』ですね」
「ええ。売上のために、断りづらくさせたら駄目よ」
来店の山へ合わせ、製造計画も変える。
午前0時の開店時にはスープとおにぎり。
午前1時に、2回目の肉まんを蒸し上げる。
午前2時以降は甘味を選ぶ人が増えるため、菓子を前へ補充する。
「果物の砂糖漬けも、この時間に出しますか?」
「ええ。少量試食を置きましょう。ただし、時間が来たから必ず売れるとは思わないで。天候や仕事で流れは変わるわ」
翌夜、その計画を試した。
午前0時。ハンスへ、湯気の立つスープ。
「希望があれば、刻み葱と胡椒を添えられます」
「今夜は胡椒を少なめで頼む。巡回中にくしゃみが止まらなくなったら、怪しい奴より俺の方が目立つ」
「衛兵の位置を知らせる薬味は困りますね」
午前1時。蒸したての肉まんを並べ、希望する客へ塩味のたれを別皿で出す。
「つけても、そのままでも大丈夫です」
「俺は半分だけつける。2つの味を食えるからな」
午前2時すぎ。ベルトへ果物の砂糖漬けを試食で渡す。
「珍しいな。今日は買わないけど、妻が好きそうだ」
「次の夜に予約受け渡しできます」
「じゃあ、小さな包みを1つ頼む」
昼の通常営業を始めなくても、家族が必要とする物を夜に買い、持ち帰ることはできる。
計画どおりに商品が動き、棚の補充も前より慌てずに済んだ。
数字が役に立った。
ミアの記憶が役に立った。
アンナの準備が、全部を実際の手順へ変えた。
「やったわ。これなら毎晩――」
言い切る前に、アンナが窓の外を指した。
雨雲が、モクモクと月を隠している。
「毎晩同じ、とは限りません」
「最後まで言わせてよ!」
◇◇◇
次の夜、激しい雨が降った。
旅人は早めに宿へ入り、午前0時の山は小さくなる。
反対に、川の水位を見回った人たちが午前2時すぎに戻り、温かいスープを求めた。
「肉まんは余りそうなのに、スープが足りません!」
ミアが鍋と蒸し器を交互に見る。
「昨日の棒グラフでは、午前0時にスープが一番売れるはずでした!」
「棒グラフは命令書じゃないわ。晴れた1週間の地図よ。雨が降れば、人の道も変わる」
「では、追加を?」
「薄切り野菜なら短時間で火が通る。量を確認して、必要な分だけ作りましょう」
追加のスープを仕込み、肉まんは次の組を蒸すのを止める。
閉店後、記録へ天候の欄を追加した。
「数字があれば、未来が分かると思っていました」
ミアが、少ししょんぼりして言う。
「私も前世で何度も思ったわ。でも数字は、前に何が起きたかを正直に教えてくれるだけ。次に何が起きるかは、周りを見て考えなくちゃ」
「なら、毎日同じ正解はないんですね」
「ないわ。だから3人で店にいるのよ」
私は数字の読み方を知っている。
ミアは、お客様の顔と小さな変化を覚えている。
アンナは、計画が人の無理になっていないか確かめる。
誰か1人の正解では、夜は回らない。
◇◇◇
片づけながら、ミアが客別の記録を見つめた。
「常連さんを飽きさせないことが大切だと思っていました」
「私もよ。でも、毎回変化を押しつけられたら疲れるでしょう? 同じ味へ帰ってきたい夜もあるわ」
「変えるかどうかも、聞けばいいんですね」
「ええ。覚えていることを見せるより、今日のその人を見るの」
客の好みを記した紙の余白へ、私は新しい1行を書いた。
――『いつもの』は、確認して初めて『いつもの』になる。
常連は、安定した売上の数字ではない。
店が覚え、客にも覚えられ、無事な帰りを待ち合える関係だ。
ディランの名前の横には、『1週間後』と小さく記す。
売上予測のためではない。
扉が開いたとき、心から「お帰りなさい」と言うために。
その夜、扉の鈴がカランと鳴った。
「ただいま。胡椒少なめのスープ、まだあるか?」
ハンスだった。
「あります。お帰りなさい」
「それと、甘い菓子も1つ頼む」
会計台の陰で、ベルトがサッと振り向いた。
「お前も甘い物を買うのか」
「『お前も』?」
シン……。
「いや、今のは言葉の綾だ」
「じゃあ、俺以外の誰が甘い物を買っていると思っていた?」
「さあ。夜は暗いから、人違いかもしれん」
「この店、昼みたいに明るいぞ」
「ベルトさん。詰所用の蜂蜜飴、ご予約されますか?」
ミアが助け舟を出した。
「する。2袋」
「俺の口止め料か?」
「1袋は俺のだ!」
顔を見合わせた2人が、同時に吹き出す。
私は何も聞かなかった顔でスープを注いだ。
常連の好みは覚える。
本人が守りたい威厳は、できるだけ守る。
そして今日の注文は、毎回きちんと聞く。
夜明けの星に、「いつもの」という小さな宝が増えていた。




