071 稜太と再会
"カランカラン"
その日はすでにla jetの入り口にはCLOSEの札が掛かっていたが、扉の鍵は開いていた。時刻は夜の7時を過ぎた頃だった。
「総一郎…。」
店内の照明はいつもほどの明るさはなく、かろうじてカウンターの明かりがついているだけだった。客用のテーブル席には、一人総一郎が伏せていた。総一郎は来店に気付くと身体を力なく起こすも、それが迅だと分かると途端に顔がしわくちゃになった。そして再び突っ伏すと、そのまま呟いた。
「迅…。俺は死神かもしれん…。」
すると迅はすぐさま珍しく口調を荒げて言った。
「バカなこと言ってんじゃねぇッ!!じじぃもサキもぶち切れっぞッ。」
「…。」
すると総一郎はしばらくして再びゆっくりと身体を起こすと聞こえるか聞こえないかの震える声で続けた。
「俺にはいろいろ話してくれてたんだ…。でも…、救えなかった…ッ。」
「…、これはもっとずっと…、難しい問題だ。おまえ1人が抱え込むレベルの話じゃねぇッ。」
「…。」
「もうさせねえよッ。俺がぜってぇ、誰も死なせねぇッ。」
迅の目は、かつてないほどギラついていた。それはまるで総一郎とまだ出会ったばかりの頃の迅だった。するとあゆみが上から降りてきて、そのまま店の方に顔を出した。
「…あゆみ…。章は…?」
「泣き疲れて…、今私のベッドで寝ています。」
「そうか。悪いな…、あゆみもつらいのは変わらないのに…。」
「うんん、私は正直、まだ全然信じられなくて…。」
「…、確かにそうだな…。」
3人は今のこの気持ちをどこにどうやって運べば良いのか分からず、しばらく誰も何も話さなかった。それからしばらくして迅があゆみに言った。
「今夜はこのまま見てやってくれるか。」
「もちろん…。」
「悪いな…。また明日、迎えに来るから。」
「はい…。」
「じゃ…、総一郎。2人のこと、頼んだぞ。」
「…あぁ。」
総一郎は、何か明確な役割を与えられることで少しでも気を確かに保つことができるようにという迅のさり気ない配慮に感謝した。
どんなに悔やんでも、過去に遡りたくても、今まで通り日は昇り、そして沈んだ。そして週が開けた月曜日、章はいつものように登校前に詩帆の家を尋ねた。しかし玄関から出てきたのは美帆だけだった。
「詩帆ね…、とても登校できる状態じゃなくて…。体調不良でお休みしますって、さっき学校に電話したところなの…。」
「…そうですか。」
「学校は…、その…、稜太君のこと…、どこまで知ってるのかしら…。」
「それは…、俺にも分かりません。」
「…そうよね。」
「じゃ、明日また来ます。」
「あ…、うん…。」
それから次の日も、またその次の日も、章は毎日欠かさず詩帆の家を訪れた。しかし詩帆が部屋から出てくることはなかった。美帆も章の毎朝の来訪が詩帆にとってプレッシャーや更なるストレスにならないかと正直なところ気を揉んでいたが、章もつらい中彼なりの思いがあって来てくれているのだと思うと一方的に無下にもできず、美帆は突然変わってしまった日常にどう対処してよいのか分からないまま、ただただ時だけが過ぎていった。
それからひと月近くが経った。暦は11月になっていた。その最初の土曜日、学校は休みだったがその日も章は詩帆の家を訪ねてきた。それはまだ昼前のことだった。
「はーい。あら、章く…ッ。」
美帆は玄関の外に佇んでいる章の姿を視界に捉えるなり、思わず動揺して言葉を失った。章は珍しくキャップを深く被り、お腹の前に不自然にリュックを抱えていた。
「こんにちは、突然すみません。詩帆に会ってもいいですか。」
「え…。」
美帆はすぐに返事ができなかった。自分の憶測が果たして正しいかも分からない、だが何かが今章を詩帆に会わせることを激しく拒否した。しかし章は美帆の返事を待つことなく玄関の扉を自分でさらに開けズイズイと中に入っていった。
「ちょッ、ちょっと待って!!章君ッ!!」
美帆はとにかく詩帆を死守しようと必死に止めに入ったが、章は全く構うことなく下足場で靴を脱ぎ始めた。ただならぬ様子に気付いた佳克が奥から出てきた。すると佳克もまた章を目にした途端一瞬怯み、思わずその場に佇んだ。
「…章君ッ。」
「こんにちは。」
章はそんな佳克に何食わぬ顔で全く動じることなく挨拶をし、一旦その場に立ち止まった。そして改まって佳克に向き直り頭を下げた。そして再び顔を上げるとそのまま佳克を見つめ、黙って次の言葉を待った。佳克も、美帆と同じく動揺を隠せなかった。しかし章と見つめ合う中で、佳克は章の言わんとしていることを理解した。佳克は章を見つめたまま、ただ一度、ゆっくりと頷いた。すると章はもう一度佳克に頭を下げた。そして詩帆のいる2階へと階段を上っていった。美帆は思わず後を追おうとしたが、佳克がそれを静止した。美帆は両手を口に当て、悲痛な表情で章の後ろ姿を見つめていた。佳克はそんな美帆の肩にそっと手を乗せた。2人は寄り添いながら、黙ってその場に留まった。
(どうしてこんなことになってしまったの…?何がいけなかったの?私があの学校に行かなければ…、私が受験なんてしなければ…。私がピアノを弾けなかったら…、クラスの友だちともっとうまくやれてたら…。
…私が、章と出会っていなかったら…。そうだったら…、何だっていうの…!今さらそんなこと考えたって、仕方がないのに…!稜太はもう…、戻って来ないのに…。)
詩帆はその日もベッドの上で布団から出られないまま1人膝を抱えてうずくまり、そうだと分かっていても何とかこうならずに済んだもう一つの人生を何度も何度も繰り返し想像し続けていた。
(神様…、どうか稜太を返してください…。今度は私が守りますから…。だから…、どうか、どうか、どうか…、もう一度稜太に会わせて…ッ。)
「俺だ、入るぞ。」
突然ドアの向こうから章の声が聞こえた。詩帆は誰かが階段を上ってくる足音から、それは章だということには気付いていた。そしてその足音から、詩帆に入室を拒む選択肢はないとも悟っていた。案の定、章は一方的に部屋に入ってきた。そしてその勢いのまま、部屋の真ん中辺りまで来て立ち止まった。
「詩帆、こっちに来い。」
そう言うと章はキャップを脱ぎその場にあぐらをかいた。詩帆は強引で自分勝手にやりたい放題の章に少し不信感を抱き、ベッドの上から章を睨むとそのままそこに居座った。そんな詩帆を無視して、章はずっとお腹に抱えていたリュックをそっと床に下ろすと、チャックを開け中から何かを取り出そうとしていた。少しだけ姿を現したそれは、どうやら白い布で覆われ、その布は上部で固く結ばれていた。章はその結び目を握り持ち上げるとそっと床に置いた。それはとても重そうだった。章はその布をほどき始めた。詩帆は章がそれをほどく前にそれが何であるかを察し、思わず目を逸らした。しかし章はかまうことなくそれをほどき、とうとう中身が姿を現した。
「おいッ!詩帆ッ!ちゃんとこっちを見ろッ!!」
詩帆は応じない。
「いいか、これが稜太だ!これが現実だッ!いい加減に目を背けるなよ…!あいつはもうッ、いないんだ…ッ。」
さっきまでの凄んだ剣幕は、かすれた語尾と共に消えていった。そして章は俯きながら、消えそうな声を振り絞って言った。
「…俺まで1人にするなよ…。」
その声はとても弱々しく、まるで章までそのまま消えていってしまいそうで、詩帆は思わずはっとした。
「章…ッ。」
詩帆はその時生まれて初めて、章の本当の泣き言を聞いた気がした。今目の前にいる章はまるで小さな幼な子のようで、あの章がとても小さく見えた。詩帆は居ても立っても居られずベッドから飛び出し、そんな章に一直線に駆け寄ると、上から思い切り抱きしめた。章は俯いたまま、小刻みに身体を震わせていた。そして息を殺して泣いていた。
詩帆は、あれからも毎日学校に通い続けていた章を思い出した。行けないと分かっていても、毎朝自分を訪ねて来てくれていた。そして自分は行けず、稜太もいない学校に、章は毎日ひとりで通い続けていた。
(章はどんな思いで毎日を過ごしていたんだろう…。失った悲しみは、章も変わらないのに…。)
すると詩帆はにわかに章に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「章…ッ、ごめん…ッ。ごめんね…、ごめんね…ッ。」
そう言うと、詩帆は章をさらに強く抱きしめ何度も身体をさすった。すると章が涙声で言った。
「稜太は洋子さんと…ッ、長崎に行くそうだ。もう、東京には…ッ、戻らないって…。」
詩帆も一緒に涙を流しながら章の話を聞いた。
「…そう…。」
詩帆はそれから自分もこころが落ち着くのを待ち、ようやく章から身体を起こした。そしてゆっくりと、2人の前に置かれたそれに目を移した。無機質な白い陶器の入れ物が、静かにそこに座っていた。
(これが…、稜太…。)
変わり果てた姿だった。
詩帆は躊躇いながら、膝を滑らせゆっくりとそれに近付いていった。そしてそっと腕を伸ばし、指先でそれに触れた。とてもひんやりしていた。
(…ッ、…神様ッ、私はこんな…ッ、こんな姿で稜太と再会したかったんじゃない…ッ!!)
喉は痛いほど締め付けられていた。そして今も尚この残酷な仕打ちを到底受け入れられないまま、詩帆はそれをそっと持ち上げ、自分の膝の上に乗せると優しく抱きしめた。それは自分が思うよりもずっとずっと重かった。すると急に詩帆の中に稜太が一気に蘇った。それは今膝の上にいる稜太とは対照的に、笑い、はしゃぎ、走り、叫び、騒ぐ、まるで泳ぎ続けないと死んでしまう魚のようだった。そんな稜太が、あの日公園で後ろからすっぽりと自分を覆ってくれた稜太が、今はただ膝の上におさまっている、その非現実的な現象に、詩帆は頭がおかしくなりそうだった。でもやはりそれは、確かに稜太だった。
「重い…、重いね…。」
詩帆の目からはポロポロと大粒の涙が溢れていた。詩帆は泣きながらそのひんやりとした骨壷を何度も手のひらでさすり、懸命に自分の温もりを分け与え続けた。涙は止めどなく次々とその蓋を濡らした。
「…稜太…、稜太ぁ…ッ。
…りょうたぁぁーーーッ!!!」
詩帆はそれを力いっぱい抱きしめ、何度も何度も名前を叫んだ。章も小さくなったまま泣いていた。その様子を下で伺っていた美帆も、手で口を塞ぎ、声を殺して泣いていた。佳克は、そんな美帆にただ寄り添うことしかできなかった。
それからどれくらい時が経っただろうか。詩帆は泣き腫らしてもう動くことができなかった。しかし止まったはずの涙はそんな詩帆をお構いなしに、またしばらくすると勝手に目から溢れていた。その繰り返しだった。すると章が言った。
「行こう、詩帆。…最後に、連れてってやろう、俺たちの、思い出の場所に…。」
それを聞くと、詩帆はようやく僅かに顔を上げ、そして章の目を見つめ言った。
「…うん。」
詩帆は弱々しく答えた。そしてそう返事をするとそっとその骨壷を床に戻した。しかし詩帆はしばらくの間、その骨壷の蓋に手を当てたまま、じっとそれを見つめていた。そして再び顔を上げると、そのまま章の顔を見た。その目は先ほどとは明らかに違っていた。詩帆は黙って章を見つめていた。章もまた、そんな詩帆を黙って見つめ返した。すると詩帆は、再び視線を骨壷に戻した。そしてゆっくりと、その蓋を開け始めた。
中にはぎっしりと白い骨が詰まっていた。どうやら蓋をする時に押し付けられたためか、ほとんどがどこかしら欠け落ち、どれもほぼ原型を留めていなかった。しかしよく見ると、その中に一つだけ綺麗な形をした骨が目に止まった。詩帆はしばらくそれをじっくりと見つめていた。そして次の瞬間、詩帆は迷いなくゆっくりとその骨壷の中に向かって手を伸ばし始めた。章は黙って見守った。その間も詩帆の手は尚もゆっくりと伸びていった。そのどうしようもなく惹かれる、ただ一つの綺麗な欠片を目指して…。




