072 11月の空
2階から下りてくる足音に気付いた美帆と佳克が、すぐさまリビングから出てきた。そこには章がいた。しかしその後、少し遅れて詩帆も下りてきた。その姿に美帆は思わず驚いた。詩帆は、いつ買ったかも覚えていない膝丈のキュロットパンツにトレーナー、さらにその上には普段部屋で着ているパーカーを羽織っていた。しかし美帆はそのチグハグなあり合わせの服装に驚いたわけではなかった。普段はいつでもどこでも制服で済ましてしまう詩帆が、今日はそれを選ばなかったことに思わず驚いたのだ。しかし詩帆もこれから一緒に出掛けるのだと分かると、美帆はようやく状況が一歩前進したことに少しほっとしたような、しかしながら自身の監視下から離れてしまうことに対する一抹の不安も隠せない、そんな複雑な顔をしていた。その機微な心情を察し、章は言った。
「必ず無事に連れて帰ります。行ってきます。」
そう言うと章は再びキャップを深く被り靴を履き始めた。詩帆も後に続いた。詩帆は何も言葉を発しなかった。しかし靴を履き終わると、2人に向けて上手く笑いきれていない不完全な笑顔を見せた。そこからは詩帆なりの一生懸命に2人を安心させようという気持ちが汲み取れた。美帆と佳克はそのまま2人を送り出した。
もう11月だというのに、その日は日差しがとても温かく穏やかだった。詩帆は約ひと月ぶりに外の世界に触れた。空は高く、空気はカラリとしていた。
2人はまず学校に向かうために地下鉄に乗り込んだ。詩帆はこれまで4年半通い続けとうに慣れているはずの通学路に、久々に肌で感じるその景色やら何やらがまるで外国にでも来たかのような不思議な感覚に陥っていた。若干そわそわと落ち着きのない様子の詩帆を、章はさり気なくフォローしていた。学校の最寄り駅に着いてからも、章は詩帆の前をゆっくりと歩いた。詩帆はそれがまた不思議な感覚だった。これまで特に意識していたわけではなかったが、2人でどこかに行く時は、いつも必ず詩帆が前を歩いていた。そうしないと章は目的地に辿り着けないからだ。詩帆は幼い頃からずっとそうやって過ごしてきた。そのためか、そんな章の後ろ姿を見ながら歩くこの構図がこれまたそわそわして落ち着かなかった。
そんなことに気を取られていると、2人はあっという間に学校に着いた。正門のすぐ目の前には旧校舎があり、それを見上げればいつも昼休みに過ごしていた音楽室が目にとまった。2人とまだ出会う前、帰りにいつも1人でこの門を通る時にあの音楽室から詩帆のピアノが聴こえてきたと稜太は話していた。それがすべての始まりだった。2人はしばらくの間その音楽室を見上げていた。その間何も言葉を交わさなかったが、2人とも自分の目と耳を通して、当時の稜太を想像していた。
2人はその後学校の敷地には入らずに、再び詩帆たちの家の方へと歩き出した。今度は電車に乗らずに地上を歩いた。3人でla jetに向かう日、稜太は時々この道を走った。章と詩帆が乗るアシスト付きの自転車だとあまり感じないが、極々緩やかな上り坂が延々と続くこの道を、稜太はいい運動になると嬉しそうに走っていた。2人はその後自宅には寄らず、そのままばぁちゃんの原宿のマックに向かった。
そこは定期テストの最終日によく3人で寄り道をした店だった。その日もトレーは3枚用意した。章の向かいで詩帆の左隣りになる席には、章のリュックが置かれていた。そこはいつも稜太が座っていた席だった。稜太のトレーには、バーガーと飲み物の他に2人からお裾分けされたポテトが乗っかっていた。2人は無言のまま自分の分を食べ終わると、稜太の分をまた半分こにして食べた。気のせいか、全く味がしなかった。それが何だか嬉しく思えた。しかしそれは、泣き過ぎて鼻がおかしくなっているせいだった。詩帆の目からは涙が溢れていた。詩帆はその涙を無視して食べ続けた。
マックを出ると、今度はいつも通りla jetに向かった。2人は線路沿いの道を歩いた。
「…重い…?」
詩帆は章に尋ねた。
「いや、大丈夫だ。」
章は前を向いたままそう返事をした。
そしてその道の途中から現れるガードレールを目にした時だった。尚も走る稜太は、そのガードレールをハードル走のように何度も左右に行ったり来たり飛び越えながら走り、マンションの前の花壇にも不用意に乗っかっては高々とジャンプをする、そんな稜太の姿が鮮明に目の前に現れた。こんなに常々生き生きと元気が有りあまっていた稜太が、今は章に抱き抱えられながら大人しく歩いている。すると詩帆はまた急に喉が締め付けられていった。そして今度はもう目も開けていられず、ぎゅっときつく結んだ唇はへの字に曲がり、顔はしわくちゃになっていった。やがてむせり出し、詩帆の目からは再び大粒の涙がポロポロと溢れ出た。前を歩いていた章が、そんな詩帆に気が付いた。すると章は詩帆に歩み寄り、優しく頭を撫でた。詩帆は人目も憚らずにその場に仁王立ちになり泣いた。何度袖で涙を拭っても、どこにこれだけの水分が隠れているのか不思議に思うくらい涙は流れ続けた。そんな詩帆を、やがて章はそっと自分の右胸の辺りに抱き寄せた。涙と鼻水で服が汚れるのは必須だった。しかしそんなことは章は全く構わなかった。2人の間には稜太がいた。稜太も一緒に詩帆が泣き止むのを待っていた。やがてしばらくして落ち着くと、章は自分の被っていたキャップを詩帆の頭にグイッと被せた。しかしそれは頭に乗せるというよりは、つばが思い切り下を向き、すっぽりと顔を覆っていた。詩帆はそのキャップにそのまま手を当てた。当然前は見えなかった。すると今度は章が詩帆のもう片方の手を握り、そしてゆっくりと歩き出した。章の反対の手は、尚も稜太を支えていた。詩帆はもう何年振りかも分からない章の、今はもうすっかり大きくなったその手のひらに、幼い頃には想像もできなかった絶大な安心感を抱きながら、引かれるがまま章の導く方へと身を委ねた。
その後、あの狭くて急な坂道を下り、2人と稜太はla jetに到着した。2人はそのまま脇の階段を降りて行き、ミニスタジオへと入っていった。すると中にはすでに先客がいた。
「章…。…娘…。」
そう口にしたのはカズさんだった。
「ごめん…、だいぶ遅くなった。」
「いいのよ。」
そこにはカズさんの他にトシさんジロウさん、そしてあゆみと総一郎がいた。
「それが…、稜太か…?」
カズさんは柄にもなく恐る恐る章に尋ねた。
「うん。」
そう言うと章は用意されているテーブルにリュックを置くと、中から白い布に包まれた骨壺を取り出し、そっとみんなの見える場所に置いた。あゆみと総一郎は、今日2回目の対面だった。2人は今朝章と共に総一郎の運転する車で稜太の家を訪ね、そのまま章と稜太を詩帆の家で下ろし、2人はla jetで稜太とのお別れ会なるものを準備してくれていたのだ。
「その写真…。」
そう言った詩帆の目線の先には、写真立てに納められた一枚の写真が飾られていた。それは渋谷のあの箱のステージで歌う稜太だった。観客席から捉えられた稜太はフードを深く被り頭上からのいくつものスポットライトで逆光となり表情はほぼ分からなかった。しかしただ黒いシルエットとしてしか写っていないその姿は、紛れもなく稜太だった。そしてそれはまさに最たる輝きを放っていた瞬間で、総一郎がこの一瞬を忘れないためにとスマホでとっさに撮った一枚だった。当然それが遺影になるとは総一郎も思ってもいなかった。詩帆の目からはまた涙が溢れた。
「わてがステージに誘ったりしたから…。」
「それは関係ないよ!そとそもは…、私が2人に受験を促すような態度をとってたから…ッ。」
「あの学校を勧めたのは俺だ。」
「いや、la jetに連れて来ようと決めたのは俺だから…。」
皆誰しもが自責の念に駆られていた。しかしそんな彼らに詩帆は言った。
「私も…、最初はそうだった。ずっとずっと…、稜太がこうならない人生を、どこで間違えたのかを、ずっとずっと考えてた…。でもね…、今日、稜太と出会ってからの、思い出の場所巡ってて、稜太の姿がたくさんたくさん見えたんだ。出会ってない人生になれば、それが全部、なくなっちゃうんだよ…。その写真の中の稜太も…。」
皆は各々にその写真の中の稜太を見つめた。詩帆は続けた。
「だから…、彼が歌に出会えたあれやこれやを後悔するのは、きっと彼が存在したことそのものを否定することになるから…。」
「そやな…。あん時の稜太は、ほんっまにすごかった。ほんまやッ!こんなうん十年やってきおったわてら玄人なんかがぴ〜〜んッ!!て一瞬で爪弾きにされてなッ!」
「うん、あれは素人やけど、素人やなかった。」
カズさんに続くトシさんの台詞に、ジロウさんも黙ったままうんうんと頷いていた。話せば話すほど、その才能がもう輝くことはないという事実に悔しさが込み上げるも、皆は口を揃えて稜太のことを称讃し続けた。そして思い出話に花を咲かせた。皆各々に涙を流し、そして笑っていた。
気付けば時刻はもう夜の9時になろうとしていた。稜太は今夜中に洋子の元へ帰す約束をしていたので、再び総一郎の運転する車に、章とあゆみ、そして詩帆も乗り込んだ。オイスターズは稜太との別れ際、命が続く限り歌い続けることを誓った。
昼間は日差しがとても温かく穏やかだったが、夜には木枯らしが吹き荒れていた。季節は着実に冬に向かっていた。詩帆はla jetを出る時にあゆみが貸してくれたネックウォーマーの温もりが心に染み入った。そして車が走り出した時だった。詩帆が慌てて総一郎に話し掛けた。
「マスター!あのね!もう一ヶ所だけ…、行きたいところがあるのッ。」
「うん、いいよ。行こう。」
総一郎は優しく答えた。そこはあの公園だった。
「章、ここどこだか覚えてる?」
「あぁ。」
車からは章と詩帆だけが降りた。総一郎たちは駐車場で待つことにした。
「章、こっち。着いてきて。」
そう言うと詩帆は慣れた足取りで奥にある階段へと進み、ずいずいと上っていった。章も稜太が入っているリュックを抱えながら後に続いた。章が上り切ると、詩帆はすぐ脇の開けたスペースのベンチに座っていた。章もその隣りに座った。
「こんなとこ、あったんだ…。」
「でしょ?私も全然知らなかったんだよ。」
つまりそれは、稜太が詩帆をここに連れて来たのだということを章は悟った。当然2人は付き合っていたのだから、2人は自分の知らない時間を紡いでいたことは理解していたが、こうも具体的な場所に来ると、章は少し落ち着かなかった。
「星が…、きれいだな。」
「…うん。」
空に見える星は木枯らしで空気が澄み切っているせいか、いつもより多く、そしていつもよりキラキラ輝いて見えた。
今日だけで、詩帆は一生分の涙を流した。そのせいか、思い出の場所に訪れても、もう涙は出てこなかった。
「この星の数だけ、地球には人がいるのだろうか。」
ナレーターを真似たような口調で言った稜太の台詞を詩帆は思い出していた。
「人は星と違って、動けるし、話せるし、触れられるのに、どうしてこう上手くいかないのかねぇ…。」
あの日、そんなことを言っていた稜太を思い出す。稜太は、いったいどれだけ悩み続けていたのだろうか。どれだけ苦しみ続けていたのだろうか。
「そろそろ行こう、詩帆。」
章は立ち上がり、詩帆を促した。
駐車場に戻ると、あゆみと総一郎が車の外で待っていた。詩帆はそのまま自宅まで送ってもらった。その間、もう誰も喋ることはなかった。
詩帆の家の前に車が停まると、それに気付いた美帆と佳克が玄関の外まで出てきた。美帆は詩帆に歩み寄ると、後ろからそっと肩に手を乗せた。
「章、今日はありがとう。学校には、またちゃんと行くから。」
「うん…。」
美帆は詩帆の言葉に続いて3人に深々とお辞儀をした。そんな美帆に、車の傍で待っていたあゆみと総一郎は改まって会釈をすると、先に車に乗り込んだ。それから少し遅れて章も乗り込もうとした時、詩帆は美帆の手から離れ章のところに駆け寄った。そして章がお腹に抱えているリュックに両手を添え、そして優しくささやいた。
「バイバイ。稜太。」
3人が乗った車が動き出す。詩帆たちは見えなくなるまでその車を見送った。
とても長い1日だった。詩帆は言った。
「お母さん、また昔みたいに、明日庭で髪を切ってくれる…?」
そう言った詩帆の目は、今朝までのものとは違っていた。
「えぇ、わかったわ。」
そう言うと美帆は詩帆を力いっぱい抱きしめた。詩帆も同じく、美帆のことを強く抱きしめた。すると佳克も2人に歩み寄り、詩帆の頭をそっと優しく撫でた。




