070 嘘
「どちらまで…。」
「昭和中央病院までお願いします。」
「…。」
「彼女が通学の途中で気分が悪くなってしまって…。持病があるので急いで病院に行きたいんです。」
「失礼ですけど…、お代の方は…。」
「あります、現金で。」
そう言うと章はスマホケースの内ポケットに入れてあったポチ袋を取り出し、そこから一万円札を差し出した。それは小百合がお守にと電車通学が始まった時から持たせていたものだった。
「分かりました、昭和中央病院ですね。もし途中で気分が悪くなったら早めに言ってくださいね。」
初めいぶかし気だったタクシーの運転手は、詩帆の容態を案じてなのかアクセルを強めに踏み走り出した。しかし詩帆の青ざめた顔は演技ではなかった。
そこは実際に来たのは初めてだったが、エントランスに車寄せのロータリーやタクシー乗り場まである大きな病院だった。2人は停車スペースでタクシーから降りると、まっすぐに受付に向かった。
「すみません、杉本稜太さんの病室はどこですか?今日救急で運ばれた患者さんです。」
「失礼ですが、個人情報の取り扱い上お答えすることはできかねます。」
「いや、絶対ここにいるし、僕たちのことは親も知っている仲なので大丈夫です。」
「いえ、そういうことではなくて…。」
「じゃあひと部屋ずつ探しまわっても構わないんですね?!」
「あの…、どうかお静かに…。」
「無理です!こっちは1分1秒も待てないんです。杉本稜太はどこですか?!どこにいるんですか?!早く教えてください!!」
受付の女性は完全にたじろいでしまっていた。すると奥から受付スタッフとも医療従事者とも異なる服装の女性が出てきた。耳にはインカムを装着していた。
「ただ今お調べ致しますので、取り急ぎ控え室までご案内致します。」
「いえ、ここで待ちます。」
そう答えると、章と女性は無言の睨み合いがしばらく続いた。
「承知しました。ではこのままお待ちください。」
そう言うと女性はキリッと踵を返してまた受付の奥へと引き下がっていった。詩帆はもう稜太の家を離れてからひと言も口を聞いていなかった。何かに怯えるように、章の後ろに隠れていた。すると思いの外早く先ほどの女性が戻ってきた。
「ご案内致します。」
そのひと言だけ言うと、女性はすっと2人の前を横切りそのまま通路を奥へと進んでいった。そして一般には使用されていないエレベーターに乗り込むと、女性は最上階のボタンを押した。
(やはり身内は別枠で、院長の息子ともなればVIP対応なのか?)
(いったいどこに行くの?稜太には何があったの…。稜太…、今あなたは無事なの?)
2人はそれぞれの思いを胸に抱え、無言の中次にエレベーターの扉が開くのをじっと待った。やがて最上階に到着した。
エレベーターを降りると、そこはもはや病院ではなくホテルのような空間だった。天井はオフホワイト、廊下の床と壁は焦茶色の木目調で統一されていて、床には両端を少し除いて絨毯が敷かれていた。女性はまた2人の前を歩いた。不安と緊張で何とかギリギリ平常心を保っている2人とは対照的に、その女性は淡々としていた。そして一番奥の部屋まで来ると、その扉の前で女性は立ち止まり、章たちの方に振り返った。
「こちらです。」
その女性は扉を開けるまではしてくれなかった。詩帆とアイコンタクトでGOサインを確認すると、章は3回ドアをノックし扉の取手に手を掛け、そしてゆっくりと横長の大きなスライドドアを引いた。
中からは物音などは一切聞こえなかった。奥の空間は教室ほどありそうだったが、手前にスライドドアと同じ幅の通路がしばらく続いていて、もう少し進まないと中の様子は確認できなかった。章たちは恐る恐る足を踏み入れた。
奥の大きな窓からは惜しみなく自然光が差し込み、白いカーテンがその光を幾分和らげていた。その陽だまりには安らぎさえ感じた。中はとにかく静かだった。本当に人がいるのか疑うほどだった。章はそのままゆっくりと足を進めると、やがて開けた空間を視界に捉えた。それと同時に、部屋の中央に足をこちら側に向けた状態でベッドに誰かが寝ているのがわかった。しかしよく見ると、首まで掛けられた布団の先には、別の白い布が顔の上に被さっていた。章は固まって動けなくなった。部屋のさらに奥にあるソファには洋子が座っていた。実海はいなかった。洋子は2人に気付くと、ゆっくりと立ち上がった。
「章君…、詩帆さん…。」
詩帆も章の隣りで固まっていた。
「稜太がね…、稜太が…、1人で逝ってしまったの…。」
すると洋子は泣き崩れ、再びソファに座り込んだ。
「1人で…。」
"あとはもう、明日俺の身体が行くだけだ。"
「逝く…。どこに?なんで…、どうやって…。だって俺は昨日、稜太と…、」
章と電話で話をする少し前、風呂も終え部屋着に着替えた稜太は洋子とリビングにいた。
「母さん、今日はありがとね。」
「えぇ、いいのよ。お父さんはあれからもうずっと帰って来ないし…。」
「うん。ずっと…、気になってたんだ、さすがに1ヶ月も連絡取らないでいるのも、悪いなって…。」
「稜太、お友だちは大事にしなさい。彼らはあなたのことを一生大切にしてくれるわ。」
「うん、ほんとだね。」
洋子は目線を移し、少し遠くを見ながら言った。
「私たちは、いったい何に囚われているのかしらね…。」
稜太はその洋子の言葉に思わず違和感を覚えた。
(何って、そんなん決まってんじゃん!!父さんだろ?!他に誰が、何があるってんだよ…!)
しかし稜太はそれを洋子に伝えることはなかった。稜太は言った。
「俺、この前餃子作ったらさ、長崎でのこといろいろ思い出しちゃってさ。」
「そうね、もう最近は全然行けてないわね。」
「うん。だから今度、母さんと2人で行きたいなって。父さんは…、きっともうここには帰ってこないだろうし、いつ行ってもバレないよ。」
稜太は少し意地悪っぽく笑って見せた。
「そうね。じゃあ、2人で行っちゃいましょうか。」
洋子もどこまで本気にしたかは分からないが、そんな稜太に乗っかるようにそう答えた。
「うん。約束だよ。絶対だよ。」
「ええ、わかったわ。」
2人は談笑を終えると、またいつものように薬を一錠、洋子から稜太に手渡した。
「この薬、もうひと月近く飲んでるけどちゃんと効いてるのかしら…。」
「うん。これの効果なのかは分からないけど…、でもだいぶぐっすり寝れてるよ。」
「そう…。」
そう言うと稜太は自分で用意していたペットボトルの水と一緒にそれを飲み込んだ。
「じゃあ、おやすみなさい。」
「えぇ。おやすみなさい。」
稜太が2階に行くのを見届けると洋子はリビングの灯りを消し、洋子も自室へと下がっていった。
「約束…、守れなくてごめんな…。」
"え…、何の約束だ?"
「いや、何でもない。じゃあな。」
稜太は電話を切ると涙を拭った。そして一呼吸おき、目の前の机の引き出しから透明な袋をひとつ取り出した。中には先ほど洋子から手渡された薬と同じ白い錠剤がたくさん入っていた。稜太はふっと少し笑うと、それをしばらく見つめていた。そしてゆっくりとチャックを開き、中身を全部自身の手のひらに取り出した。
(これでゆっくり眠れる。やっとみんな、楽になれる。)
稜太は慎重にゆっくりとそのすべてを口に含み、ペットボトルの水と一緒に勢いよく飲み込んだ。そして目の前に置いてあるノートを開いた。中には行よりも大きな字でランダムに何かが書かれてあった。稜太はそれを一切の躊躇もなく次々と破り捨てていった。そして何も書いていない真っさらなページだけになると、稜太は何かを書き始めた。やがて書き終えると、そのままベッドに向かい横になった。次第に強張った表情はみるみると和らいでいき、身体の力も抜けていった。目を閉じたまま上を見上げ、その表情からは一切の邪気も抜け落ちていった。稜太はそのまま一度深く呼吸をし、やがて、深い深い眠りへと落ちていった。
「薬は間違えれば毒になるから、必ず毎回目の前で飲ませるようにと主人に言われ、いつもそうしていたのに…、朝…、全然起きてこなくて…。血中濃度が…、もう…、異常な数値で…、胃袋から、大量の薬が出てきたの…。あれは市販では手に入らないから、いつも私が…、私が稜太に飲ませていたはずの薬なの…。私が…、私がちゃんと見届けていれば、稜太は今こんなところにいなかった…。今頃…、今頃は…、まだ…、」
詩帆は呼吸がおかしくなっていた。吸っても息が肺に入らない。詩帆はやがてふらつきながらひとりで部屋を出ていった。そして今来た廊下を反対方向に歩き始めるも、足元がふらつきまともに歩けなかった。やがてバランスを崩した詩帆は、壁に思いきり身体を打ち付け、その反動で床に勢いよく倒れ込んだ。詩帆はゆっくり起き上がろうとするが、腕にも力が入らずなかなか起き上がることができずにいた。やがて詩帆は床に這ったまま何かを発し始めた。
「嘘だ…。嘘だ…、嘘、こんなの嘘…。
…うそだぁーーーーーーーーーッ!!!」
詩帆はそのまま狂ったように激しく取り乱した。
「嘘だッ!あれは稜太じゃないッ!!稜太なはずがないッ!!稜太じゃないッ!!稜太じゃないッ!!!嘘だッ!嘘だッ!!うそだーーーッ!!!
あ"ぁーーーーーーーッ!!!」
その声はもはや一般病棟にまで聞こえるのではないかと思えるほどだった。この部屋まで案内した女性はインカムで何かを指示しながら詩帆に駆け寄ったが、詩帆はその女性を思い切り振り払い、女性はバランスを崩して壁に頭を打ち付けた。するとエレベーターからすぐに男性が2人降りて来て、慌てて詩帆に駆け寄ると二人掛かりで上から押さえつけた。詩帆は激しく抵抗した。
「おいッ!!やめろーーーーーッ!!!」
章も急いで詩帆に駆け寄ろうとするが、詩帆を押さえていた男性が1人章の止めに入った。入れ替わりで女性が詩帆を押さえ込むと、もう片方の男性が詩帆の制服の袖を捲り始めた。
「おい!!やめろ!!!何をするつもりだ!!!詩帆から離れろ!おい!!やめろ!!やめろーーーッ!!!」
章は叫び抵抗するが、壁に押さえつけられ詩帆に近寄ることができなかった。男性はそのまま尚も叫び続ける詩帆の腕に持っていたケースから一本の注射器を取り出し躊躇なくつき刺した。その中の透明な液体はみるみると詩帆の身体に消えていった。すると詩帆の呂律は徐々に回らなくなり、目の力も自分の意思に反し次第に衰えていった。やがてぐったりと力尽き、そのまま床に横たわった。
「詩帆ッ。詩帆!!詩帆ーーーーーーッ。」
章はようやく男から解き放たれるとまっすぐに詩帆に駆け寄った。そして何度も名前を呼び続けたが、詩帆が目を開けることはなかった。
今朝病院に着いたのはまだ二限の授業をやっている頃だったが、時はすでに夕方になっていた。章と詩帆は車の後部座席に座り、その車を先ほどの女性が運転していた。誰も何も話さなかった。詩帆は意識を回復していたが、その目にはもう生命が感じられなかった。やがてその車は詩帆の家の前まで来るとゆっくりと停車した。2人は力なく降りた。
「詩帆…!!」
女性がインターホンを押した僅かにすぐ後玄関の扉が開き、中から美帆と小百合が出てきた。
「章…、詩帆ちゃん…。今日はいったい何があったの…?2人で何をしていたの…?」
するとその女性が2人に歩み寄り、話し始めた。
「突然のご訪問を失礼致します。私は昭和中央病院 院長の秘書をしております篠山と申します。」
そう言うと一枚の名刺を差し出した。美帆も小百合も、スマホのGPSで2人が朝そこにいたのは把握していたが、その後音信が途絶えてしまっていた。
「この度、彼らのご友人である杉本稜太さんの訃報に際し、御息女が錯乱状態に陥ってしまったため、予期せぬ過失で御息女が加害者にならぬよう、医師の判断のもと鎮静剤を投与致しました。その後一定時間経過観察をしておりましたが、ショック症状含め特に変わった様子はありませんでしたので、こちらにお送りした次第です。万が一、今後何か気になる症状などがありましたら、そちらまでご連絡ください。では、私はこれで失礼致します。」
そう言うと、篠山はその場を後にした。章たちと初めて接した時から徹底して淡々としていた。
「…、訃報…?」
美帆はその後に言葉が続かなかった。今朝家を出て行った時とあまりにも様子が変わり果てた我が子を前に、ことの重大さはひしひしと伝わっていた。すると詩帆はよろよろと美帆に歩み寄り抱きついた。もう自身の力では立っていられないのか、あるいは無条件にすがる思いで美帆にしがみつくと、2人はそのまま地面に崩れ落ちた。すると詩帆がかすれる声で言った。
「…お母さん…。」
やがて詩帆はこれが今の本当の気持ちだと言わんばかりに張り裂けるような声でまるで幼い子どものように泣きじゃくった。
「おがぁさんッ!!おがあさぁんッ。わ"ぁーーーーぁぁぁ、稜太がぁ…!!りょうたが…、おかぁ…、さん…。」
詩帆はそのまま力尽き、美帆の腕の中で再び意識を失った。章は唇を強く噛み締め、ただその場に立ち尽くしていた。




