第46話 夏鈴の事情
不意に玄関が開いて視線を向ける。
すると、そこには見覚えのある中年女性の姿があった。
驚く俺たちとは対照的に、女性の表情には明確な怒りが滲んでいる。
「こんなところにいたのね」
「お母さん……」
その一言で思い出す。
そう——この女性は夏鈴の母親。
あの頃、毎日のように車で迎えに来ていた人だった。
「友達の家に泊まり込みで勉強するっていうから外泊を許可してあげたのに、嘘まで吐いてなにをしてるのかと思えば……まさか男と一緒にいるなんてね」
友達の家に泊まり込みで勉強——?
「これは——」
「言い訳しても無駄よ。夏期講習をサボってたのも塾から連絡を受けてるし、友達に口裏を合わせてもらっていたのも家に行って確認済み。私の連絡を無視してる間、この辺りに住む人たちから猫まみれの再建をしようと作業してるのも聞いてるわ」
「…………」
言い訳の余地もなく俯く夏鈴。
母親は呆れた様子で溜め息を漏らした。
「今まで私の言う通り勉強をしてきて、逆らうような真似をすることはなかった。どうしてこんなことになったのか不思議に思ってたけど……ようやくわかったわ」
夏鈴に向けられていた母親の視線が俺に向く。
その瞳には思わず怯むほどの敵意が込められていた。
「つまり、その男が原因だったわけね」
「違う——りっくんのせいじゃない!」
「夏鈴は黙ってなさい!」
夏鈴は弾けるように顔を上げて否定する。
そんな夏鈴の言葉を一蹴して母親は続ける。
「当時は子供だから大目に見てたけど、まさか今になって夏鈴をたぶらかすなんて思わなかったわ。こんなことになるなら、猫まみれになんて預けるんじゃなかった」
母親は言葉の通り吐き捨てるように言い放つ。
その口ぶりから俺のことを覚えているのは明らかだった。
「期末テストの順位が大幅に落ちたのも夏期講習をサボったのも、友達の家で勉強すると嘘を吐いて外泊したのも、この男が原因。今にして思えば、花女を受験したいと言ったのも高校生になってから妙に色気づいたのも、全部彼が理由だったのね」
「だから違うの!」
今度は夏鈴も引かずに母親と対峙する。
「確かに花女を受験したのも、高校に入ってからお洒落に気を使い始めたのも、お母さんの言う通り……りっくんが理由。でも成績が落ちたのはあたしのせい。夏期講習をサボったのも嘘をついてお泊りをしたのも自分で決めたこと。りっくんのせいじゃない!」
夏鈴と母親の会話を聞いていて思うこと。
細かいことはわからないけど概ね事情は察している。
夏鈴の様子がおかしかった理由——それは母親だったんだろう。
だけど、唯一わからないのは夏鈴が変わった理由が俺だということ。
「なんと言おうと、この男が原因なのは間違いない。聞けば猫まみれを再建しようと言い出したのか彼らしいじゃない。どうせ人手欲しさに甘い言葉の一つや二つ掛けて夏鈴を誘惑したんでしょ。本当……これだから男なんて嫌いなのよ!」
母親は再び俺に厳しい視線を向ける。
その怒りは、俺だけじゃなく男性全体に向けられているように見えた。
「今後、夏鈴は猫まみれの再建活動には参加させない。あなたも二度と夏鈴に近づかないで。さぁ夏鈴、帰るわよ」
母親は夏鈴を連れ帰ろうと腕を掴む。
「いやっ―—!」
だけど、夏鈴はその手を振り払った。
「お母さんがなんて言おうと猫まみれの再建は続けるし、りっくんと一緒にいる」
「いい加減に言うことを聞きなさい。あなたは騙されてるの」
「そんなことない。りっくんはお父さんとは違う!」
夏鈴が俺を庇った瞬間だった。
母親は亀裂が入るように表情を歪ませた。
「なにが違うっていうの……男なんてみんなそう。最初は優しいふりをして近づいてくるくせに、こっちが心を許すと人が変わったように本性を現す。気に入らないことがあれば怒鳴って、酷い時には暴力だって振るう。夏鈴だって見てきたでしょ!」
「確かにそういう男の人もいると思う。みんながみんな、いい人ばかりじゃない……でもそれと同じように酷い人たちばかりでもない。本当に優しい男の人だっている。りっくんはあたしにとって大切な人。信頼できる男の人だって思ってる!」
「目を覚ましなさい。騙されてからじゃ遅いのよ!」
「あたしは騙されない。お母さんとは違う!」
「——!」
さすがに言いすぎだ——。
そう思うより早く、激高した母親が手を振り上げる。
考えるよりも先に身体が動いた瞬間、乾いた音が店内に響いた。
「……りっくん?」
夏鈴の驚く声が背中越しに聞こえる。
俺の目の前で、母親が手を押えながら驚愕の表情を浮かべていた。
「正直、事情の全ては理解していません。出しゃばってる自覚もあります。でも、お母さんが俺のせいだって言うのなら、叩く相手は夏鈴じゃなくて俺のはずです」
頬に感じる痛みを無視して続ける。
「お母さんの言うことはわかります。俺が夏鈴を猫まみれの再建に誘ったせいで勉強時間が減ったのは間違いない。成績が落ちたのなら、理由の一端は俺にあります。お母さんにしてみれば、俺が夏鈴をダメにしたと思うのも当然でしょう」
でも、思うんだ——。
「大切な人がいるから頑張れることもあると思うんです」
夏鈴と——いや、みんなと再会してからずっと思い続けていること。
俺が猫まみれの再建を続けられているのは三人がいてくれるから。もし一人で再建活動を始めていたら、とっくの昔に心が折れて諦めていたに違いない。
みんなが俺の心の支えになってくれている。
「お母さんの言う通り男が女性をダメにすることはあるし、恋愛で勉強が疎かになることもあるでしょう。でも、大切な人がいるから頑張れることもある。夏鈴が俺を大切だと言ってくれるなら、俺は夏鈴にとってそういう男でありたいと思ってます」
夏鈴だけじゃなく、みんなにとって頑張れる理由でありたい。
それが、三人を再建活動に巻き込んだ俺の責任。
悠香の一件以来そう思っている。
「あたしも……りっくんと同じ気持ち」
夏鈴は俺の横に並んで母親と向き合う。
「あたしが花女を受験したのは、りっくんに会うため。お母さんも知ってるでしょ? あの頃のあたしの学力じゃ、とてもじゃないけど花女は無理だった……それでも勉強を頑張れたのは、りっくんに会いたかったから。その一心で頑張って合格できた。りっくんがいて頑張れることはあっても、ダメになるなんてことは絶対にない」
「高校生にもなって青臭いことを言って……笑わせないで」
母親は呆れた様子で溜め息を吐く。
すると、なにを思ったのか不敵な笑みを浮かべた。
「だったら証明してみせなさい」
「証明……?」
「二学期の中間テストで学年三十位以内に入れば認めてあげる。大切な人がいることで頑張れるなら、一緒に勉強すればそのくらいはなんてことないでしょ?」
「学年三十位以内って、そんなの——」
夏鈴の前に手を伸ばして言葉を遮る。
その先を口にしたら全てが終わる。
「わかりました」
「りっくん——?」
「必ず三十位以内に入ってみせます」
「入ってみせます? まるで、あなたが三十位以内に入るように聞こえるけど?」
「もちろんです。夏鈴一人に頑張らせるつもりはありません。お母さんが提示した三十位以内に入れという目標は、二人で達成しないと証明にならないでしょう?」
「面白いじゃない」
母親は嘲笑するように鼻を鳴らす。
「私は夏鈴の成績が上がればそれでいい。あなたの成績に興味はないけど、言ったからには自分の言葉には責任を持ちなさいよ。無理だった時は覚悟しておくことね」
母親は『先に帰るわ』と言って猫まみれを後にする。
その後ろ姿を見送った直後、夏鈴は心配そうに俺の頬に手を添えた。
「りっくん、大丈夫!?」
「ああ。思ったほど痛くなかったから大丈夫」
「あたしのせいで……ごめんね」
「俺が勝手にしたことだから気にしなくていい。それよりも、改めて事情を説明してもらえるか? なんとなくは察してるけど、夏鈴の口から聞かせてほしい」
「うん。実はね——」
それから夏鈴は順を追って話してくれた。
ことの発端は一学期の期末テストの結果が散々だったこと。
中間テストに比べて大幅に学年順位が下がり、激怒した母親が夏休みに夏期講習を申し込んだものの、夏鈴は猫まみれの再建を優先したくてサボっていたらしい。
そんな折に海水浴旅行に誘われ、友達の家で勉強すると嘘を吐いた。
夏鈴とショッピングモールに水着を買いに行った際、喫茶店を出ようとした時に夏鈴が慌てて帰ったのは、偶然買い物に来ていた母親を見かけたからだった。
だけど旅行初日、塾から母親に連絡がありサボりが発覚。
翌朝、母親が早朝から友達の家に突撃して嘘がバレてしまった。
浜辺を散歩中に夏鈴がスマホを見て驚いていたのも、夜中に独りキャンプファイヤーの前でスマホを見つめていたのも、母親からの連絡が理由だったらしい。
「なるほどな……」
語られたのは概ね想像通りの内容だった。
「お母さんの気持ちもわかるんだ……あたしが花女を受けた理由はりっくんと会うためで、難関大学に進学したいわけじゃない。でも親からしたら、娘が花女に合格すれば期待して当然。今まで以上に教育熱心にさせた責任はあたしにある。それなのに全部黙って好き放題してさ……お母さんからしたら裏切られたって思うよね」
やっぱり夏鈴は優しいよなと思わされる。
この状況で母親の気持ちを汲めるんだから。
「そのあたりも踏まえて、俺にも責任はあるんだと思う」
「違うって。りっくんのせいにしたくて言ったんじゃないの!」
「いいんだ」
もどかしそうに否定する夏鈴をなだめる。
「お母さんに言った通り、俺が再建活動に誘ったことで勉強時間が減ったのは事実。それに期末テストの結果が悪かったのは、悠香の件があって勉強に身が入らなかったからだろ? それだってもとはと言えば俺のせいだし、旅行に行こうと背中を押したのも俺。気持ちは嬉しいけど、責任がないなんて口が裂けても言えないさ」
「それは、そうかもしれないけど……」
それでも夏鈴は頑なに俺のせいじゃないと言い張ったんだけど。
「夏鈴の力になりたいんだ。俺にも責任の一つくらい負わせてくれよ」
「もう……そんなカッコいいこと言われたら断れないじゃん」
渋々ながら俺の気持ちを受け入れてくれた。
「でも夏鈴、俺が言うのもなんだけど、嘘を吐いたのはよくなかったと思う。今後も猫まみれの再建を続けるなら、お母さんの理解は必要だ。成績をいくら上げたところで、信用してもらえなきゃ再建活動の参加を許可してもらえないだろ?」
「それは反省してる……りっくんに相談するべきだった」
「ああ。今後は俺にだけでも相談してほしい」
「うん。約束する」
夏鈴は『でも……』と続けて頭を抱える。
「さすがに学年三十位以内は厳しいよ……」
「ちなみに期末テストは何位だったんだ?」
「二百八十人中、百二十位くらい……」
夏鈴は自信なさそうに言葉を濁す
それでも県内トップの女子高で半分より上なのはさすが。
「ちなみにりっくんは?」
「うちも生徒巣は同じくらいで、中の下ってところかな」
高校のレベルが違うから順位だけで比較はできない。
だけど、ぶっちゃけ俺の方が厳しいだろうな。
「ごめんね……りっくんを巻き込んで」
「夏鈴が謝ることなんてないさ」
それでも夏鈴の表情は晴れない。
なんとかやる気を出してもらう方法はないかと考える。
「三十位以内には入れたら夏鈴のお願いを一つきいてやるから一緒に頑張ろう」
物で釣るようで悪いけど、少しでも前向きになってほしくて提案すると。
「なんでもきいてくれるの?」
「ああ。俺にできることなら」
「じゃあ……中間テスト後にある、花女の学園祭に来てほしい」
「花女の学園祭?」
「うん。一緒に周ってくれる?」
どんなお願いをされるかと身構えたけど。
「わかった。その時は二人で一緒に見て回ろう」
「……うん。約束だからね!」
学園祭に付き合うくらいでやる気を出してくれるなら安いもの。
いつものポジティブな夏鈴に戻ってくれたようでひと安心。
こうして夏鈴の誕生日の夜はふけていった。




