第37話 二人きりの夜
「ここが俺のうち」
「お、お邪魔します……」
夏鈴を自宅のマンションに連れ帰ったのは二十一時過ぎ。
玄関のカギを開けて中へ入り、リビングのソファーに並んで座る。
「散らかってて悪いな」
「ううん。気にしないで」
「「…………」」
「な、なにか飲むか?」
「だ、大丈夫。お構いなく」
「「…………」」
お互いに緊張しているからだろう。
会話が続かず一言交わす度に無言の時が流れる。
放っておけずに連れてきてしまったけど……冷静になるとヤバい。
部屋に二人切り、肩が触れる距離に薄着の夏鈴がいて、事を起こそうと思えばすぐにでも押し倒せてしまう状況。都合よくソファーは広めの三人掛け。
一瞬、夏鈴を押し倒している自分を想像して我に返る。
ダメだ——冷静になれ!
男的には女の子に『家に泊めて』と言われた時点で色々アリだと思うけど、女の子が必ずしもその気だとは限らず、お巡りさんのお世話になった先人は数知れず。
据え膳食わぬは男の端なんていうくせに、いただいた挙句に社会的な死を迎えた悲惨すぎる体験談なんて、スマホで検索すれば腐るほど出てくるから恐ろしい。
でも夏鈴と俺の間柄ならワンチャン……。
いやいや、だから冷静になれって!
「そうだ。お風呂に入ろう!」
「えっ——」
このとめどなく溢れる煩悩を収めるには頭から冷や水を浴びるに限る。
汗と一緒に下心までお風呂の排水溝に流してしまえばいい。
そう思って言ったんだけど。
「そ、そうだよね……汗臭いままじゃアレだもんね」
夏鈴は耳まで真っ赤にしてモジモジし出す。
「あ、いや——違う。そういう意味じゃなくて!」
そういう意味って、どういう意味だよ。
「とにかくお風呂に入ろう。夏鈴、先に入ってくれ」
「そんな、家主を差し置いて先になんては入れない」
お互いに冷静じゃない状態で譲り合う俺たち。
いつまでも経っても決まりそうにない。
「じゃあ、先に入ってくるよ」
「うん……いってらっしゃい」
俺はリビングを後にし、着替えを持って脱衣所へ。
身体を洗っているうちにお湯を張ろうとスイッチを押しておく。
服を脱いでお風呂場に入ると、さすがに冷や水というわけにはいかないけど温めのお湯を頭からかぶり、身体を洗ってから湯船に浸かる。
ひと息吐くと、頭に浮かんだのは駅で見た夏鈴の顔。
まるで叱られた子供のような表情で帰りたくないと呟いた。
「なにかあったのは間違いないよな……」
今にして思えば、旅行の話が出た時から夏鈴の様子はおかしかった。
楽しいことには前のめりの夏鈴が旅行を渋り、二日目の朝は届いたメッセージを見た瞬間に表情を歪め、夜中に独りキャンプファイヤーの前でスマホを見つめていた。たぶん夏鈴が家に帰ろうとしない理由と関係があるんだろう。
だけど……俺にはそれを聞き出す術がない。
夏鈴を傷つけず、気を使わせず、言いにくいことを打ち明けてもらえるほど口は上手くない。今の俺にできることは夏鈴の傍にいてやることくらいだった。
「お待たせ」
「あ……お帰り」
お風呂から出ると夏鈴は持っていたスマホをソファーに置いて立ち上がる。
「夏鈴もお風呂に入ってきな」
「うん。それで、ちょっとお願いがあるんだけど……」
「どうかしたのか?」
「できれば服を借りたいなって」
服——?
「洋服と下着は余分に持ってきたから替えがあるんだけど、部屋着はなくて。旅行中に着てたやつは汗かいちゃったから、お風呂の後に切る服がないんだよね」
「少しサイズが大きいけど大丈夫か?」
「うん。着られれば大丈夫」
俺は自分のTシャツとハーフパンツをタオルと一緒に渡す。
「じゃあ、お風呂借りるね……」
「ああ。ゆっくり入ってくるといい」
パタパタとスリッパの音を響かせながらリビングを後にする夏鈴。
後ろ姿を見送った後、俺はソファーに浅く座り背もたれに寄り掛かる。
すると、夏鈴がテーブルに置き忘れたスマホが目に留まった。
この中に夏鈴の様子がおかしい理由がある。
「……ダメだ。それだけは」
思わず手が伸びかけたけど、ぎりぎりのところで踏みとどまる。
スマホを覗けば、確かに夏鈴の事情を知ることができるかもしれない。
でもバレたら夏鈴の信頼を失うし、仮にバレないとしても一生罪悪感に苛まれる。俺はもう二度と、夏鈴に対して罪悪感を覚えるような真似はしたくない。
そもそもロックが掛かっていて見られないはず。
どれくらい葛藤していたんだろう。
「お風呂、ありがと」
戻ってきた夏鈴の声で我に返った。
「ああ。湯加減は大丈夫だった——!?」
そう返事をしながら振り返った瞬間、目を疑う。
なぜなら夏鈴がTシャツだけしか着ていなかったから。
まだ濡れている長い金髪に、お風呂上りでほのかに赤く染まった頬。
俺のTシャツに身を包む姿は、男なら誰しも一度は想像したことのある彼シャツの部屋着バージョン。それだけでも最高なのに、なぜか下を履いていない。
男物のTシャツだからお尻まで隠れているけどギリギリすぎる。
「すっぴんだから、あんまり見ないで……」
夏鈴は手を顔の前に掲げて恥ずかしそうに隠す。
いやいや、充分綺麗だから気にする必要なんてない。
「ていうか、なんで下を履いてないんだよ!」
「なんでって、男の子ってこういうの好きでしょ?」
「いや、それは——」
好きだよ。大好きだけどさ!
「さすがに目のやり場に困るっていうか……」
「丈が長いから意外と見えないよ。ていうか、見られたくないならこんな格好しないよ。りっくんになら見られてもいいし、泊めてくれるお礼ってことにしていて」
これ以上に男が喜ぶお礼なんて存在しないだろ。
さすが男心を理解しているだけあって期待を裏切らない夏鈴。
色々心配していたから、いつもの夏鈴らしくて安心するけど別の意味で安心できない。なんだろう……ある意味、滞りなく準備が整っている気がする。
やっぱりワンチャンあるんじゃないの?
「でも、ちょっと恥ずかしいから電気暗くしていい?」
「あ、ああ……」
夏鈴はリモコンで常夜灯に切り替えると隣に腰を下ろす。
瞬間、夏鈴から石鹸とシャンプーの香りが漂ってきて煩悩が揺さぶられた。とても同じ物を使ったとは思えない甘い香りが男の本能と股間に直撃する感覚。
それだけならまだ耐えられたんだけど。
「夏鈴さん……ちょっと近すぎませんか?」
思わず敬語で尋ねたのは、やっぱり緊張しているからだろう。
「そう? そんなことないんじゃない?」
いや、そんなことないわけがない。
ソファーの左端に座っている俺の隣に座っている夏鈴。
夏鈴の右側には一人分のスペースが空いている。
「「…………」」
オレンジ色の穏やかな灯りに包まれたムードのあるリビング。
すぐ隣には濡れた髪と紅潮した頬と唇と、俺のTシャツに身を包んだ夏鈴。
お互いの体温を感じるほどに密着しながら、静寂に包まれた空間にお互いの息遣いが響く。
すると、夏鈴は俺の手に自分の手を重ねて握ってきた。
この状況で我慢できる男なんていないだろ。
「夏鈴——」
我を忘れて夏鈴の肩を掴む。
夏鈴と見つめ合った瞬間だった。
あの表情が頭をよぎって我に返った。
「……りっくん?」
「も、もういい時間だし寝るか!」
俺は立ち上がって一歩下がる。
「旅行で遊び疲れたし、今日は早めに寝よう」
「……うん。そうだね」
「俺は父さんの部屋で寝るから、夏鈴は俺のベッドを使ってくれ」
「そんな、悪いよ。あたしはこのソファーで寝るから大丈夫」
「いやいや、それじゃゆっくり休めないだろ」
だけど夏鈴は譲らない。
「……わかった。なにか掛ける物を持ってくるよ」
自室のクローゼットからタオルケットを出してリビングへ。
「じゃあ、おやすみ」
「うん……おやすみなさい」
それを夏鈴に渡して自分の部屋に戻った。




