敗残兵
雨が止んだのは、翌日の昼を少し過ぎた頃だった。
灰色の雲はまだ空の大半を覆っていたものの、何日も続いていた雨がようやく途切れたことで、ヴァルディア軍の野営地には久しぶりに静かな空気が戻っていた。
濡れた地面の上では兵士たちが焚き火を起こし、泥にまみれた鎧や衣服を乾かしている。少し離れた場所では、壊れた荷車の車輪を外して修理する者や、傷んだ弓弦を張り直す者の姿もあった。
戦いの後としては穏やかな光景だった。
それでも、野営地全体を包む空気は決して軽くない。
原因は一つだった。
野営地の端、崩れた石壁の近くに集まっている黒狼将ダグラスと、その配下たちである。
彼らは武器を取り上げられていなかった。
ダグラスは相変わらず巨大な戦斧を傍らへ置き、黒狼隊の兵士たちもそれぞれ剣や槍を手元に残している。
そのため、周囲にいるヴァルディア兵たちは露骨なほど警戒していた。
「あんな連中、本当に信用するのかよ」
「少し前まで俺たちの荷車を襲ってた奴らだぞ」
「黒狼隊なんだろ? 寝てる間に斬られたら終わりじゃねぇか」
誰も大声では言わないものの、不満は隠されていなかった。
当然だった。
つい先日まで敵として武器を向け合っていた相手なのだ。
しかも、ただの野盗ではない。
かつてロディア領最強と恐れられ、戦場で数々の軍を打ち破った黒狼隊。
ヴァルディア兵たちが恐れるのも無理はなかった。
そんな視線を向けられているにもかかわらず、ダグラスたちは何も言わなかった。
特にダグラスは、崩れた石壁へ背を預けて腕を組み、まるで自分へ向けられる警戒など気にもしていないような顔で座っている。
レオは少し離れた場所から、その様子を見つめていた。
胸へ受けた槍傷はまだ完全には塞がっていない。
包帯の下では傷口が熱を持ち、深く息を吸うたびに鈍い痛みが走る。立っているだけでも身体は重く、本来ならまだ寝台で休んでいるべき状態だった。
それでも、今は動かなければならないと思っていた。
「若様」
隣に立っていたガイゼルが低い声で呼ぶ。
「本気で、あの者たちを正式に雇うおつもりですか?」
レオは返事をせず、黒狼隊の兵士たちを見た。
皆、痩せていた。
鎧は傷だらけで、革紐や布を使って何度も補修されている。靴すらまともな物を履いていない者もいた。
それでも姿勢だけは崩れていなかった。
国を失い、軍を失い、生きるために野盗へ落ちてもなお、身体には兵士として染み付いたものが残っている。
「兵たちは納得しません」
ガイゼルが続けた。
「それに、この者たちが裏切らぬ保証もございませぬ」
「分かってる」
レオは小さく答えた。
その瞬間、前世の記憶が頭をよぎる。
疲れ切った社員。
次々に辞めていった後輩。
一人減るたびに残った人間へ仕事が押し付けられ、さらに誰かが壊れていった現場。
『人が足りません』
何度聞いたか分からない言葉だった。
それでも会社は、人が辞めるたびに代わりを探せばいいと考えていた。
実際には、そんな簡単な話ではなかった。
人間が一人消えれば、その人間が覚えていた仕事も、経験も、積み重ねも一緒に消える。
壊れた人間は簡単には戻ってこない。
そして今のヴァルディア領も、まったく同じだった。
「ガイゼル」
「はっ」
「今のヴァルディア領に、一番足りないものは何だと思う?」
老騎士は少し考えてから答えた。
「……兵でしょうか」
レオは首を振った。
「違う」
「では?」
「人だ」
ガイゼルが僅かに眉を寄せる。
レオは黒狼隊から視線を外さないまま続けた。
「兵も足りない。農民も足りない。職人も、商人も、荷物を運ぶ人間も全部足りない」
戦争が長く続きすぎた。
兵士が死ぬ。
農民が徴兵される。
村が焼かれ、人が逃げる。
商人は危険な土地を避け、職人も仕事のある場所へ移っていく。
この世界は、戦うたびに人を減らしていた。
「だから、もう捨てない」
その言葉にガイゼルが黙った。
ちょうどその時だった。
「ふざけるな!」
野営地中央から大きな怒鳴り声が響いた。
レオが振り向く。
声を上げていたのは、まだ十代後半ほどに見える若い兵士だった。
その兵士は黒狼隊を指差しながら、顔を怒りで赤くしている。
「何で野盗なんか仲間にするんだ!」
周囲の兵士たちも次々に声を上げた。
「そうだ!」
「俺たちは襲われたんだぞ!」
「昨日まで敵だった連中を信用しろっていうのか!」
野営地の空気が一気に荒れる。
それでも黒狼隊の者たちは言い返さなかった。
怒鳴られても、睨まれても、ただ黙って受け止めている。
ダグラスだけが小さく鼻で笑った。
「……まあ、当然だな」
その声には怒りすらなかった。
しかし若い兵士は、それを嘲笑と受け取ったらしい。
「何がおかしい!」
ダグラスがゆっくり立ち上がる。
それだけで周囲が静まり返った。
巨大な身体。
傷だらけの鎧。
そして、幾つもの戦場を生き抜いてきた男だけが持つ圧力。
怒鳴っていた兵士の顔が僅かに引きつる。
ダグラスが一歩踏み出した、その時だった。
「やめろ」
レオの声が響いた。
ダグラスが足を止める。
レオは胸の痛みに耐えながら、ゆっくり兵士たちの前へ歩いていった。
一歩進むたびに傷口が軋む。
それでも止まらなかった。
やがて若い兵士の前へ立つと、レオはその顔を真正面から見る。
「お前の言っていることは正しい」
若い兵士が目を見開いた。
「……え?」
「怖いのも、信用できないのも当然だ」
レオは静かに続ける。
「こいつらは俺たちを襲った。食料を奪おうとした。それは事実だ」
黒狼隊の者たちは黙っている。
「でも今のヴァルディアには、人を捨てる余裕がない」
兵士たちの間から小さなざわめきが広がった。
レオはダグラスたちを見る。
「こいつらは負けた」
その声は穏やかだった。
「国を失って、家を失って、仕事も給金もなくなった。それでも生きるために、奪うしかなかった」
そこで一度、レオは息を整えた。
胸の奥が痛む。
だが次の言葉だけは、どうしても言わなければならなかった。
「俺たちだって、負ければ同じだ」
野営地が静まり返る。
誰も反論できなかった。
ヴァルディア領もまた、滅亡の一歩手前まで追い詰められている。
城が落ちれば。
領地が奪われれば。
今ここにいる兵士たちも、家族も、同じように行き場を失う。
「だから雇う」
レオは続けた。
「強いからだけじゃない」
そしてダグラスを見た。
「死なせるのが惜しいんだ」
その瞬間、黒狼隊の空気が僅かに変わった。
何人かが驚いたようにレオを見る。
敵として恐れられることには慣れていても、惜しいと言われたことなどなかったのだろう。
「戦える人間を捨てるな。働ける人間を捨てるな。そんなことを続けていたら、最後には国そのものから人がいなくなる」
レオの頭の中には、前世の会社が浮かんでいた。
誰かが辞める。
残った人間へ負担が集中する。
その誰かが倒れる。
さらに現場が苦しくなる。
同じことを繰り返した先に、まともな組織など残らない。
国だって同じだった。
その時、レオはふと別のことを思い出した。
「ガイゼル、補給の残りは?」
「……全員で五日分ほどです」
答えながら、ガイゼルの顔がさらに険しくなる。
「黒狼隊まで加えれば、当然さらに減ります」
「そうだな」
レオはあっさり頷いた。
人が増えれば食料の消費も増える。
それくらいは分かっている。
だからこそ。
「黒狼隊へ飯を配ってくれ」
一瞬、誰も反応できなかった。
「……若様?」
ガイゼルが聞き返す。
周囲の兵士たちも目を見開いている。
レオはもう一度言った。
「先に食わせろ」
今度は明確に聞こえた。
「なっ……!」
「待ってください、若様!」
当然の反応だった。
ただでさえ少ない食料を、つい昨日まで敵だった者へ渡そうというのだから。
それでもレオは譲らなかった。
「腹を空かせた人間はまともに動けない」
そして一度言葉を切る。
「限界まで追い込んだ人間は、最後には壊れる」
その言葉だけは妙に重かった。
実際にそれを経験しているからだ。
佐倉玲央は、止まれない現場で働き続けた末に倒れた。
だから知っている。
人間は使えば使うほど動く道具ではない。
壊れれば終わる。
「食わせて、休ませて、それから働いてもらう」
レオは黒狼隊を見る。
「それが一番いい」
誰もすぐには賛成しなかった。
それでもガイゼルはしばらく黙った後、深く息を吐いた。
「……配給を」
その一言で兵士たちが動き始めた。
やがて運ばれてきたのは、硬い黒パンと薄い野菜のスープ、それに小さな干し肉だった。
決して豪華な食事ではない。
だが、その食事を差し出されても黒狼隊の者たちはすぐには手を伸ばさなかった。
本当に自分たちが食べていいのか分からないのだろう。
長い沈黙が続く。
やがてダグラスが無言で黒パンを一つ手に取った。
しばらくそれを眺め、それからレオを見る。
「……馬鹿な坊主だ」
小さく笑った声は、以前より少しだけ柔らかかった。
ダグラスがパンを口へ運ぶと、それを合図にしたように黒狼隊の者たちも少しずつ食事へ手を伸ばしていった。
誰もが夢でも見ているような顔をしていた。
レオはその様子を静かに見つめる。
前世では、物の流れを止めないことばかり考えていた。
だが今は少し違う。
物を動かすのも、道を作るのも、国を守るのも最後は人間なのだ。
ならば何より先に止めてはいけないのは、人の流れなのかもしれない。
国を失った者を捨てず、もう一度居場所を与える。
その積み重ねが、いつかヴァルディアを変えていく。
この時のレオはまだ知らなかった。
自分が差し出した一枚の黒パンを、黒狼隊の者たちが何年経っても忘れないことを。
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