目覚め
雨音が、一定の間隔で天幕を叩いていた。
静かで重たい音が途切れることなく続く中、レオはぼんやりと濡れた天幕の天井を見上げていた。
胸の傷はまだ熱を持っており、呼吸をするたびに鈍い痛みが走る。身体は鉛でも詰め込まれたように重かったが、それとは対照的に意識だけは妙にはっきりしていた。
いや、はっきりしているというよりも、頭の中へあまりにも多くの記憶が流れ込んできているせいで、眠ろうとしても眠れないと言った方が近かった。
ヴァルディア領で生まれ、三男として過ごしてきた十五年。
父グレインや兄アルス、セイルとの記憶。
城での日々。
剣の稽古。
そして、それとはまるで違う世界で佐倉玲央として生きた二十八年。
満員電車に揺られ、物流会社で働き、鳴り止まない電話へ追われ続け、最後には過労で倒れた男の人生。
本来なら交わるはずのない二つの記憶が頭の中で混ざり合い、レオはゆっくりと息を吐いた。
「……若様」
聞き慣れた声がして、レオは視線を動かした。
寝台のすぐそばにはガイゼルが座っており、その後ろには巨大な影が立っている。
ダグラスだった。
黒狼将は腕を組んだまま何も言わず、鋭い目でこちらを見ている。
レオは乾いた喉を何とか動かし、掠れた声で尋ねた。
「……戦は?」
その言葉を聞いたガイゼルは、ようやくまともに話せるまで回復したことへ安堵したのか、小さく息を吐いた。
「ザルツ軍は撤退しました。ダグラス殿が敵の前線を崩し、その隙にこちらも押し返しております」
レオは静かに目を閉じた。
生きている。
少なくとも負けてはいない。
今はそれだけでも十分だった。
「被害は?」
「死者十二。負傷者三十七です」
その数字を聞いた瞬間、レオの胸が僅かに重くなる。
百五十ほどしかいない部隊で、その損害は決して小さくない。
ヴァルディア領の状況を考えれば、あまりにも痛い損失だった。
「敵はどうだ?」
「こちらを探るために出ていた部隊だったようです。本軍はまだ後方におります」
つまり、あれで終わったわけではない。
むしろ本番はこれからだ。
レオは一度ゆっくりと息を吐き、それから続けて尋ねた。
「……食料は?」
その質問が意外だったのか、ガイゼルが僅かに目を瞬かせた。
「五日分ほどです」
少ない。
レオは聞いた瞬間にそう判断していた。
「矢は?」
「かなり減っております」
「馬は?」
「数頭が潰れました。それと、荷車も二台破損しております」
レオは黙り込んだ。
頭の中で、今聞いた情報が自然に繋がっていく。
兵は減っている。
負傷者も多い。
食料は五日。
矢も減った。
さらに馬を失い、荷車まで壊れている。
つまり、単純に戦力が落ちているだけではない。
運べる量そのものも減っている。
このまま戦い続ければ、敵に負ける前に部隊が動けなくなる。
その瞬間、頭の奥へ鋭い痛みが走った。
見たことのない光景が浮かぶ。
大量の荷物が積まれた倉庫。
慌ただしく走る人影。
道路を埋めるトラック。
そして飛び交う声。
『配送が止まります!』
『トラックが足りません!』
『代替便を回せ!』
レオは目を閉じた。
以前なら、それが何なのか分からなかった。
だが今は違う。
理解できる。
あれは物流だった。
人や物を必要な場所へ運び、その流れを止めないための仕組み。
前世の自分――佐倉玲央は、その流れを維持する仕事をしていた。
「若様?」
ガイゼルが不安そうに声を掛ける。
レオはゆっくりと目を開き、老騎士を見る。
「ガイゼル」
「はっ」
「ヴァルディア領には、今どれくらい人がいる?」
突然の質問に、ガイゼルは少しだけ考えてから答えた。
「正確ではありませんが、およそ一万二千ほどかと」
「その中で戦える兵は?」
「すぐに動かせる者で二千弱でしょう。ただし、農民から徴兵した者も含みます」
二千弱。
レオは静かに考えた。
人口一万二千。
決して大きな領地ではない。
その上、戦争が長く続き、すでに大勢の人間を失っている。
兄たちも死んだ。
兵士も減った。
農民まで徴兵されている。
戦えば戦うほど、畑から人が消える。
畑から人が消えれば、次の収穫が減る。
そして食料が減れば、さらに領地は弱くなる。
「街道は何本ある?」
「領内を大きく抜ける街道は一本です。そこから各村へ細い道が分かれております」
やはり、とレオは思った。
一本しかない。
つまり、その街道が塞がれれば、領内の大半の流れが止まる。
食料。
武器。
兵。
薬。
情報。
すべてだ。
頭の中で、前世の記憶が次々と繋がっていく。
高速道路。
配送センター。
倉庫。
流通網。
渋滞。
事故。
通行止め。
そして、何度も聞いた言葉。
『物流が止まれば全部止まる』
あの言葉の意味を、レオは今になってようやく理解した。
この世界は、自分が思っていたよりもずっと脆い。
街道は一本。
補給は外から運ぶしかない。
備蓄も十分ではない。
どれほど強い軍を持っていても、食料や武器が届かなければ戦えない。
どれほど優秀な将軍でも、兵が腹を空かせれば動かせない。
流れが止まれば、それだけで終わる。
「……若様?」
ガイゼルが戸惑ったようにこちらを見る。
レオは天幕の天井を見つめながら、静かに言った。
「この領地は、戦で滅びるんじゃない」
「……若様?」
「このままなら、流れが止まって滅びる」
天幕の中が静まり返った。
ガイゼルは意味を測りかねているようだったが、ダグラスだけは黙ったままレオを見ていた。
「食料が届かなくなる。物が止まる。人が減る。その状態で戦い続けたら、敵に城を落とされる前に領地そのものが終わる」
ガイゼルの顔には、まだ困惑が残っていた。
無理もない。
この世界では、戦は剣と兵の数で決まると考えるのが普通なのだろう。
強い兵を揃え、強い将軍を置き、敵より多くの軍を集めれば勝てる。
だがレオの頭の中には、佐倉玲央として生きた記憶がある。
物流は血流だ。
止まれば、どれほど大きな会社でも動けなくなる。
どれほど便利な社会でも、物が届かなければ機能しない。
それなら国だって同じだ。
「ようやく見えてきたか、坊主」
不意に、ダグラスが低く笑った。
レオはそちらを見る。
「お前、気付いてたのか?」
「戦場を歩いてりゃ嫌でも分かる」
黒狼将は腕を組んだまま答える。
「戦争なんざ、最後は腹が減った方が負ける」
あまりにも単純な言葉だった。
だが、それだけに重かった。
ダグラスは続ける。
「どれだけ強い兵でも、飯が無けりゃ動けん。矢が無けりゃ弓兵は戦えん。馬が死ねば荷物も運べん。そうなりゃ軍なんぞ終わりだ」
レオは静かに頷いた。
前世でも同じだった。
倉庫が止まる。
配送が遅れる。
商品が届かない。
店から物が消える。
一つの問題が、その先へ次々と広がっていく。
すべては繋がっている。
人も、物も、道も。
そして国も。
その時、天幕の外から荒い声が聞こえてきた。
「食料箱が足りねぇぞ!」
「負傷兵を先に回せ!」
「誰か水を運べ!」
「薬箱はどこだ!」
兵士たちの声だった。
レオは黙って耳を傾ける。
混乱している。
何がどこにあるのか分かっていない。
必要な物が必要な場所へ届いていない。
人も足りない。
役割も整理されていない。
その光景は、前世で毎日のように見ていた崩れかけた現場とあまりにも似ていた。
一人足りない。
荷物が足りない。
車両が足りない。
その穴を埋めるために誰かが無理をする。
そして誰かが倒れれば、さらに回らなくなる。
「……同じだ」
レオが小さく呟く。
そして寝台へ手をつき、ゆっくりと身体を起こそうとした。
その瞬間、胸へ鋭い痛みが走る。
「ぐっ……!」
「若様!?」
ガイゼルが慌てて身体を支えた。
「まだ動いてはなりませぬ!」
「分かってる……」
レオは苦しそうに息を吐いた。
本当なら休むべきだ。
佐倉玲央は、休まなかった結果として死んだ。
同じことを繰り返すつもりはない。
それでも今、何が起きているのかだけは把握しなければならなかった。
「今、整理しないと駄目だ」
ガイゼルが息を呑む。
レオは天幕の入口へ視線を向ける。
外ではまだ雨が降っている。
ぬかるんだ街道。
止まりかけた補給。
疲弊した兵士。
傷ついた者たち。
この小さな部隊だけで、すでにこれほど流れが滞っている。
なら領地全体ではどうなる。
このまま何も変えなければ、ヴァルディアはいずれ滅びる。
戦で負けるからではない。
戦う前に、回らなくなるからだ。
「必要なのは、強い兵だけじゃない」
レオが静かに呟く。
ガイゼルは少し考えてから尋ねた。
「……では、何が必要なのです?」
レオはすぐには答えなかった。
頭の中に、前世と今世の風景が重なる。
街道。
高速道路。
荷車。
トラック。
兵士。
社員。
倉庫。
兵糧庫。
何もかも違うように見える。
だが、仕組みは似ている。
「流れを止めない仕組みだ」
その言葉を口にした瞬間、頭の中で別々だった二つの人生が一本に繋がった気がした。
戦乱の世界で生きてきたレオ・ヴァルディア。
物流の世界で働き続け、最後には倒れた佐倉玲央。
その二人の経験が、今ここで重なっていく。
レオはゆっくりと拳を握った。
「道を守る」
小さな声だった。
それでも、そこには以前にはなかった確かな意志があった。
「人を集める。物を流す。一か所が止まっても、全部が止まらないようにする」
そして少しだけ息を整える。
「誰か一人が無理をし続けなくても回る、止まらない領地を作る」
雨音が天幕を叩き続けている。
ダグラスはしばらくレオを見つめていたが、やがて口元を僅かに歪めた。
「……面白ぇこと言う坊主だ」
ガイゼルはまだ完全には理解できていないようだった。
それでも、レオを見る目には以前とは僅かに違うものが浮かんでいた。
レオ自身にも、自分が何を始めようとしているのか、まだすべては見えていない。
だが一つだけ分かっている。
止まりかけたなら、繋ぎ直せばいい。
道も。
物も。
人も。
そして、この領地そのものも。
戦乱によって少しずつ崩れ続けている世界なら、その中に止まらない流れを作ればいい。
レオ・ヴァルディアはこの日初めて、自分が兄たちとは違う方法で戦えるかもしれないと思い始めていた。
もし少しでも「面白い」「続きが気になる」と思っていただけたら、
ブックマークやページ下部の☆を押して評価をお願い致します!
作者の励みになります!




