知らない人生
雨は夕方になっても止む気配を見せなかった。
灰色の空から降り続く冷たい雨が街道を叩き、深く刻まれた轍へ泥水を溜めている。ヴァルディア軍はそのぬかるんだ道をゆっくりと進み、車輪が泥を削る重たい音と、疲れ切った兵士たちの荒い息遣いだけが雨音の中へ混じっていた。
レオは馬上から前方を見つめていたが、意識の半分は別のところにあった。
少し前まで敵として向かい合っていた黒狼将ダグラス。
三年前に滅びたロディア領の将軍であり、今では行き場を失った兵士たちを率いていた男。
そして自分は、そんな相手へ「雇われる気はないか」と言った。
勢いだったのかもしれない。
あれが本当に正しかったのか、今になっても分からなかった。
「……本当に連れて行くおつもりですか」
隣を歩いていたガイゼルが低く問い掛ける。
レオが視線を向けると、その先には街道の端を進むダグラスたちの姿があった。
黒狼隊は武器を取り上げられていない。
ダグラスは巨大な戦斧を肩に担ぎ、その部下たちも剣や槍を持ったまま歩いている。
それでも逃げる様子はなく、互いに無駄口を叩くこともなく、ヴァルディア軍と一定の距離を保ちながら静かについてきていた。
「兵が足りないのは本当だ」
レオは前を向いたまま答えた。
「それは承知しております。しかし、あれは危険すぎます。もし敵へ回れば、今の我らでは止められませぬ」
「分かってる」
それはレオにも分かっていた。
だが同時に、今のヴァルディア軍だけでは戦えないということも嫌というほど理解していた。
兵は減り、指揮官も失い、士気も落ちている。
このままでは敵が来る前に崩れてしまう。
そんなことを考えていた、その時だった。
前方へ出ていた斥候が泥を蹴り上げながら戻ってくる。
「敵影! 前方にザルツ軍!」
その叫びだけで空気が一変した。
兵士たちの疲れた表情から一気に眠気が消え、剣や槍を握る手へ力が入る。
レオも反射的に顔を上げた。
街道の先、木々の隙間から赤い旗が見える。
狼を模した紋章。
間違いない。
ザルツ軍だった。
森の奥から次々と兵が姿を現し、街道を塞ぐように展開していく。
前列には盾兵、その後ろに槍兵と弓兵。左右には騎兵まで控えている。
数はざっと見ても二百を超えていた。
「……多いな」
レオが呟くと、ガイゼルの表情が険しくなる。
「若様、後退を。ここでまともにぶつかるべきではありませぬ」
だが、すぐに後方からも叫び声が上がった。
「後ろにも敵影!」
レオは振り向いた。
森の間から別働隊が姿を現し、街道を塞ごうとしている。
完全な待ち伏せだった。
逃げ道を塞ぎ、正面から叩くつもりなのだ。
やがて敵陣中央から、一騎の騎兵が前へ出てきた。
豪華な装飾の施された鎧を着た若い男だった。
年齢はレオより少し上程度だろう。
その男はヴァルディア軍を見渡すと、露骨に口元を歪めた。
「ヴァルディアの敗残兵どもか」
嘲笑を隠すつもりもない声だった。
「随分と無様になったものだな」
周囲のザルツ兵たちから笑い声が起こる。
男はさらに続けた。
「聞いたぞ。アルスは死に、セイルも帰らなかったそうじゃないか」
その瞬間、レオの手が無意識に強く手綱を握った。
「そして残ったのが、そのガキ一人とはな。いよいよ終わりだな、ヴァルディア」
兵士たちの顔に怒りが浮かぶ。
ガイゼルが剣へ手を掛けた、その時だった。
「道を空けろ」
低い声が響いた。
レオが振り向く。
ダグラスが黒狼隊の列から前へ出てきていた。
巨大な戦斧を肩に担ぎながらゆっくり進むその姿を見た途端、先ほどまで笑っていたザルツ兵たちの声が少しずつ消えていく。
「……誰だ、貴様」
若い騎兵が眉をひそめる。
ダグラスは答えなかった。
ただ数歩前へ出ただけだった。
それだけで近くにいた馬が怯えたように鼻を鳴らし、後ろへ下がる。
「坊主」
ダグラスがレオを見る。
「初陣なんだろう」
レオは何も答えられなかった。
その表情だけで分かったのだろう。
ダグラスは戦斧を握り直した。
「なら、よく見ておけ」
次の瞬間だった。
大男の姿が前へ飛び出した。
泥が大きく跳ね上がる。
巨体からは想像できない速度だった。
「なっ――」
ザルツ兵が声を上げるより先に、ダグラスの戦斧が横薙ぎに振るわれた。
轟音とともに盾が弾かれ、その後ろにいた兵士ごと数人が吹き飛ばされる。
「ぐあっ!」
「何だこいつ!?」
敵陣が一気に乱れた。
ダグラスは止まらない。
突き出された槍を斧の柄で叩き落とし、そのまま盾兵の懐へ潜り込んで肩から体当たりする。
盾ごと人が吹き飛ぶ。
さらに騎兵が横から斬り掛かってきたが、ダグラスは振り向きざまに戦斧の腹を馬の胸当てへ叩きつけ、騎手ごと地面へ転がした。
「化け物だ……!」
ザルツ兵たちの間に恐怖が広がっていく。
レオは目を見開いていた。
強い。
先ほど街道で見た時よりも、さらに凄まじい。
まるで巨大な岩が意思を持って敵陣へ突っ込んでいるようだった。
それでも、ダグラスは誰一人として斬り殺していなかった。
刃ではなく斧の腹や柄を使い、盾を砕き、槍を折り、兵士たちを叩き伏せていく。
相手を殺すのではなく、戦う気力だけを砕いている。
その時、後方から怒鳴り声が響いた。
「荷車が動かん!」
「後ろが詰まってるぞ!」
レオが振り向く。
街道後方では補給用の荷車が再び詰まり、兵士たちの移動まで妨げていた。
狭い街道に荷車が並び、雨でぬかるんだ地面に車輪を取られて動けなくなっている。
そのせいで、後方にいた弓兵が前へ出られず、槍兵も身動きが取れない。
「……まただ」
レオの胸がざわついた。
流れが止まっている。
その瞬間、頭の奥へ鋭い痛みが走った。
見知らぬ光景が脳裏へ流れ込んでくる。
巨大な建物の中に積み上げられた大量の箱。
狭い通路を走る奇妙な荷運びの機械。
忙しそうに動き回る人々。
『搬入口が詰まってます!』
『荷物を止めるな! 通路を空けろ!』
誰かの怒鳴り声が聞こえた。
レオは頭を押さえながら後方を見る。
荷車が道の中央へ集まりすぎている。
だから人も動けない。
なら……。
「荷車を端へ寄せろ!」
レオの声が響いた。
周囲の兵士たちが驚いたように振り向く。
「道の真ん中を空けろ! 全部一列に並べるな!」
「若様?」
「後ろの荷車から街道脇へ寄せろ! 弓兵と槍兵が通れる道を作れ!」
ガイゼルが一瞬だけ目を見開いた。
だが、すぐにレオの言葉の意味を理解したらしい。
「聞こえたか! 荷車を端へ寄せろ! 中央を空けるのだ!」
老騎士の怒号で兵士たちが一斉に動き始める。
何人かが泥へ足を取られながら荷車を押し、街道の端へ寄せていく。
一台。
二台。
少しずつ中央へ道ができた。
その瞬間、後方で待たされていた弓兵隊が一気に前へ出る。
「弓兵、前へ!」
ガイゼルの号令が飛ぶ。
「放て!」
無数の矢が雨の中を飛び、ザルツ軍の前列へ降り注いだ。
敵兵たちが慌てて盾を上げる。
その隙に槍兵たちも空いた道を抜けて前線へ流れ込んだ。
「押し返せ!」
ヴァルディア兵たちの怒号が響く。
それまで押されていた前線が少しずつ前へ進み始める。
レオはその光景を見ながら、胸の奥で何かが繋がっていく感覚を覚えた。
止まれば詰まる。
詰まれば動けなくなる。
だが、流れを作れば人も物も動き出す。
それは荷物だけではない。
兵も同じだった。
戦場そのものが、一つの大きな流れなのだ。
「若様!」
ガイゼルの叫び声が聞こえた。
レオが反射的に振り向く。
側面の森から一騎のザルツ騎兵が飛び出していた。
混乱に乗じて回り込んできたのだ。
騎兵は一直線にこちらへ向かってくる。
槍の穂先がレオの胸へ向けられていた。
避けなければ。
そう思った。
だが身体が動かなかった。
初めて自分へ向けられた本物の殺意に、頭の中が真っ白になった。
「っ!」
次の瞬間、胸へ強い衝撃が走った。
息が止まる。
身体が宙へ浮いたような感覚の後、レオは馬の背から投げ出された。
泥へ叩きつけられる。
「若様ぁぁっ!」
遠くでガイゼルが叫んでいた。
レオは何が起きたのか理解できなかった。
胸が熱い。
いや、焼けるように痛い。
震える手で触れると、指先が赤く染まった。
血だった。
雨に混じりながら、止めどなく溢れている。
息を吸おうとしても上手く入らない。
周囲では怒号が飛び交っている。
誰かが駆け寄ってくる音がした。
ダグラスの声も聞こえた気がする。
だが、何を言っているのか分からなかった。
視界が少しずつ暗くなっていく。
冷たい雨だけが、不自然なほどはっきりと頬へ当たっていた。
その時だった。
意識が沈みかけたレオの頭の奥で、今までよりも鮮明な光景が浮かび上がる。
高くそびえる建物。
夜でも昼のように明るい白い光。
耳障りな電子音。
そして、誰かが慌てて駆け寄ってくる。
『佐倉!』
聞いたことのないはずの名前だった。
それなのに、胸の奥が妙にざわついた。
『おい、佐倉! また倒れたのか!?』
誰かが自分の身体を抱き起こしている。
白い天井。
視界の端で点滅する光。
そして、遠ざかっていく声。
……佐倉。
それが誰なのか考えるより先に、レオの意識は深い闇の中へ沈んでいった。
もし少しでも「面白い」「続きが気になる」と思っていただけたら、
ブックマークやページ下部の☆を押して評価をお願い致します!
作者の励みになります!




