橋
雨が上がったのは、ヴァルディア軍が野営地を離れてしばらく経ってからだった。
空にはまだ分厚い灰色の雲が残っていたが、何日も降り続いていた雨が止んだだけでも、兵士たちにとってはありがたいことだった。
もっとも、街道の状態がすぐに良くなるわけではない。
地面には深い轍が刻まれ、泥水があちこちに溜まっている。負傷兵や補給物資を載せた荷車が通るたび、重たい車輪が泥へ沈み込み、馬たちは力を込めてそれを引かなければならなかった。
ザルツ軍を退けたとはいえ、ヴァルディア軍に勝者らしい余裕はなかった。
初陣で傷を負い、雨の中で戦い、そのまま十分な休息も取れずに帰路へついている。
兵士たちの顔には疲労が色濃く残っていた。
レオ自身も例外ではない。
胸にはまだ包帯が巻かれ、馬の揺れが傷へ響くたびに鈍い痛みが走る。
それでもレオは、馬上から隊列をじっと観察していた。
以前なら気にも留めなかったことが、今は妙にはっきりと見える。
先頭と後方の距離。
荷車ごとの速度。
馬の疲れ具合。
兵士たちの歩調。
残っている食料。
すべてが一つの流れとして頭の中へ入ってくる。
前世の自分なら、こういうものを毎日見ていた。
どこで詰まっているのか。
どこへ人を回せばいいのか。
何が止まれば、その先へどんな影響が出るのか。
そして今、その対象が荷物から軍隊へ変わっただけだった。
「若様」
隣へ馬を寄せてきたガイゼルが声を掛ける。
「前方で隊列が止まっております」
レオはすぐに顔を上げた。
街道の先に人だかりができている。
怒鳴り声も聞こえた。
「何があった?」
「橋が崩れているようです」
その言葉を聞いた瞬間、レオの表情が変わった。
「輜重は?」
「すでに橋の手前で止まっております」
やはり。
レオは小さく息を吐き、馬を前へ進めた。
やがて状況が見えてくる。
問題の橋は古い石造りのものだった。
増水した川の勢いに橋脚が耐え切れなかったのだろう。中央部分が大きく崩れ、濁流の中には崩落した石材がいくつも転がっていた。
橋の手前では、何台もの荷車が完全に立ち往生している。
負傷兵を乗せた荷車。
兵糧を積んだ荷車。
矢束や予備武器。
すべてが止まっていた。
その後ろにも兵士や馬が次々と詰まり始めている。
「迂回路は?」
レオが尋ねると、ガイゼルは首を振った。
「山側に細い道がございますが、人が通れる程度です。荷車を通すことは難しいでしょう」
それを聞いたレオは、崩れた橋を見つめた。
つまり、ここを通れなければ軍の大半は動けない。
その瞬間、前世の記憶が自然と蘇る。
事故で封鎖された高速道路。
動かなくなったトラック。
配送センターへ積み上がっていく荷物。
そして電話越しに聞いた何度もの声。
『配送が止まります!』
『別のルートを探してください!』
『このままだと後ろまで全部詰まります!』
完全に同じだった。
目の前にあるのは橋だ。
だが起きていることは、前世で何度も見た物流停止と何も変わらない。
このまま放置すれば、後方の荷車まで詰まる。
兵士たちは無駄に待機することになり、その間にも食料は減る。
馬は休める場所もなく消耗し、負傷兵の容体も悪くなる。
さらに敵が追撃してくれば、逃げることさえできない。
止まっている時間そのものが損失なのだ。
「橋を直す」
レオが言った。
周囲にいた兵士たちが振り向いた。
ガイゼルも少し驚いたように眉を寄せる。
「……今からですか?」
「ああ。最優先で直す」
すぐに兵士たちの間から戸惑った声が上がった。
「若様、まず野営地を作るべきでは?」
「敵が追ってくる可能性もあります!」
「全員かなり疲れております!」
どれも間違った意見ではなかった。
普通ならまず防御陣地を作り、休息を確保する。
橋の修理など、その後だろう。
だがレオは首を振った。
「ここで止まったまま敵が来た方が危険だ」
兵士たちが黙る。
「輜重が通れなければ兵も動けない。負傷者も運べない。撤退することになっても逃げられない」
レオは崩れた橋を指差した。
「今、この橋が俺たち全員の喉を塞いでる」
ガイゼルが僅かに目を細める。
レオはそのまま指示を続けた。
「動ける兵を集めろ。川岸の石と流木を使う。荷車からも使える木材を外せ」
「荷車を壊すのですか?」
兵士の一人が驚いたように声を上げる。
レオは迷わず頷いた。
「動けない荷車を守るために全員止まる方が損だ」
完全に壊す必要はない。
荷台の補強材や予備板を外し、仮橋の材料として使えばいい。
重要なのは、元通りの立派な橋を作ることではなかった。
一台ずつでも荷車が渡れればいい。
「縄も集めろ。流木を固定する。石材は土台に使う。完全に直さなくていい、まず流せ」
兵士たちはまだ戸惑っていた。
しかし、そこへ低い声が飛んでくる。
「俺たちも使え」
ダグラスだった。
黒狼隊を連れ、いつの間にか橋の近くまで来ていた。
レオは濁流を見て、それからダグラスを見る。
「あの川に入れるか?」
ガイゼルが思わず顔をしかめた。
「若様、無茶です! この増水では――」
だがダグラスは濁流を一度見ただけで口元を歪めた。
「面白ぇ」
そう言った次の瞬間には、戦斧を岸へ放り出し、そのまま川へ入っていた。
「お、おい!」
兵士たちがどよめく。
水は腰近くまであり、流れもかなり強い。
それでもダグラスは足を踏ん張り、川底に沈んでいた大きな石材へ手を掛けた。
そして普通なら数人がかりでも動かせないような石を、唸り声を上げながら持ち上げる。
「こいつをどこへ置く!」
「右側! 残った橋脚に寄せてくれ!」
レオが叫ぶ。
「分かった!」
ダグラスは笑いながら石を運んだ。
すると黒狼隊の者たちも次々と動き始める。
縄を運ぶ者。
木材を切る者。
川岸から石を集める者。
昨日まで野盗と呼ばれていた男たちが、誰よりも先に橋の修復へ加わっていった。
それを見ていたヴァルディア兵の一人が思わず呟く。
「……なんで、あいつらの方が働いてるんだよ」
ダグラスが聞きつけたらしく、川の中から振り返った。
「飯を食わせてもらったからな」
それだけ言う。
「なら、働く。それだけだ」
単純な言葉だった。
だが、不思議なほど重かった。
ヴァルディア兵たちは互いに顔を見合わせる。
やがて一人が黙って木材を持ち上げた。
それに続いて、もう一人。
少しずつヴァルディア兵も作業へ加わっていく。
レオはその光景を見ながら、胸の奥に何かが繋がっていくのを感じていた。
人を捨てなければ、人は働ける。
居場所があれば、その力を別の場所へ流すことができる。
物だけではない。
人もまた、止めてはいけないのだ。
橋の修復は予想以上の速さで進んだ。
崩れた石材を組み直して簡単な土台を作り、その上へ太い木材を並べ、縄で固定する。
もちろん元通りとは程遠い。
雨がもう一度強く降れば壊れるかもしれない。
それでも今必要なのは、何十年も使える橋ではない。
今日、荷車を通せる橋だった。
「まず負傷兵を渡す」
レオは完成しかけた橋を見ながら指示を出す。
「次に薬と食料。武器はその後だ。荷車は一台ずつ、間隔を空けろ」
ガイゼルが隣でその指示を聞いていた。
やがて小さく息を吐く。
「……普通の領主なら、橋よりも砦を守ることを考えるでしょうな」
レオは濁流を見つめたまま答えた。
「砦があっても、中に食料を運べなきゃ意味がない」
「……なるほど」
「道が死んだら、砦も村も孤立する」
ガイゼルはそれ以上何も言わなかった。
ただ以前とは違い、レオの言葉を最初から否定することはなくなっていた。
その時、後方から別の荷車の列が近づいてきた。
軍のものではない。
戦争を避けながら移動していた商隊だった。
橋が壊れていると知り、遠巻きに様子を窺っていたらしい。
商人たちは仮設の橋を作っている兵士たちを見て、驚いた顔をしていた。
「本当に直してるのか……」
「この戦時中に?」
普通なら放置されてもおかしくない。
軍にとって重要なのは戦うことであり、民間の商人が通れるかどうかなど後回しにされる。
だがレオには、それが間違いだと分かっていた。
商人が通れなくなれば、物が入ってこなくなる。
物が来なければ人も離れる。
そして人が離れれば、領地は痩せる。
「道を守れ」
レオは誰に聞かせるでもなく呟いた。
ガイゼルがこちらを見る。
「道が生きてる限り、物は来る。人も戻ってくる」
その時だった。
橋の上にいた兵士が大きく手を振った。
「通れます! 荷車一台なら通せます!」
空気が変わった。
すぐに負傷兵を乗せた最初の荷車が動き始める。
ゆっくりと仮設橋へ入り、軋む木材の上を慎重に進んでいく。
全員が固唾を呑んで見守る中、荷車は無事に向こう岸へ到達した。
「次!」
声が飛ぶ。
二台目が動き出す。
続いて兵糧。
薬。
矢束。
止まっていたものが、一つずつ流れ始める。
馬が歩き、人が進み、長く詰まっていた隊列が再び前へ伸びていく。
その光景を見ながら、レオはようやく小さく息を吐いた。
橋そのものは粗末だった。
だが、それでいい。
大切なのは立派なものを作ることではない。
必要なものが、必要な場所へ届き続けること。
そのための道を止めないこと。
レオは流れ始めた荷車の列を見つめながら、自分が作ろうとしている領地の姿を、初めて少しだけ想像していた。
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