出陣
翌朝になっても、雨は止まなかった。
灰色の空を覆う分厚い雲から冷たい雨粒が絶え間なく降り続き、ヴァルディア城の石壁や城下へ続く石畳を重たく濡らしている。
城門前ではすでに出陣の準備が進められていたが、そこに普段の活気はなかった。
兵士たちは黙々と武具を確かめ、馬の腹帯を締め、補給用の荷車へ物資を積み込んでいるものの、誰も大声を上げようとはせず、冗談を飛ばす者もいない。
当然だった。
長兄アルスはすでに戦死し、次兄セイルも戦場から戻らなかった。そして領主であるグレインは重傷を負い、もう自ら剣を取ることさえできない。
ヴァルディア領は今まさに崖の縁に立たされていた。
「若様、馬を」
声を掛けられ、レオは顔を上げた。
そこにはガイゼルが立っており、一頭の黒毛の軍馬の手綱をこちらへ差し出していた。
レオはその馬を見た瞬間、僅かに息を詰める。
見覚えがあった。
長兄アルスが愛用していた馬だ。
何度も兄を乗せて城門をくぐり、何度も勝利とともに帰ってきた馬だった。
だが、その主はもういない。
「……俺でいいのか」
自分でも聞こえるかどうか分からないほど小さな声が漏れた。
ガイゼルは聞こえなかったふりをしたのか、それとも答える言葉を持たなかったのか、表情を変えないまま告げる。
「出陣準備は整っております」
その声はいつも通り落ち着いていた。
しかし長年そばにいたレオには、僅かに硬さが混じっていることが分かった。
ガイゼルでさえ不安なのだ。
そう思った瞬間、余計に胸の奥が冷えていく。
それでもレオは何も言わず、受け取った手綱を握って馬へ跨がった。
乗馬そのものは訓練で何度も経験している。だが、今日だけは何もかもが違って感じられた。
これから向かう先は訓練場ではない。
失敗しても教官が止めてくれる場所でもなければ、木剣を落としたところで笑って済ませられる場所でもない。
本物の戦場だ。
人が死に、自分も死ぬかもしれない場所。
兄たちが帰ってこなかった場所。
城門前には百五十ほどの兵士たちが並んでいた。
決して多い数ではない。
むしろ、かつてのヴァルディア軍を知る者からすれば、あまりにも少なかった。
ここへ至るまでの戦いで、兵を失いすぎていたのだ。
レオが前へ出ると、兵士たちの視線が一斉に集まってくる。
その目に露骨な侮蔑はなかった。
だが、不安は隠しようがなかった。
本当にこの若い三男坊に任せて大丈夫なのか。
そんな声が聞こえてくる気がした。
レオは思わず視線を逸らしたくなったが、昨日の父の言葉を思い出し、何とか前を向いた。
もう、お前しかおらん。
「……出るぞ」
出した声は自分でも情けなくなるほど掠れていた。
それでも命令は届いた。
ほどなくして重い城門がゆっくりと開き、冷たい雨風が城内へ吹き込んでくる。
こうしてヴァルディア軍は、重苦しい沈黙の中で進軍を始めた。
街道の状態は最悪だった。
降り続く雨のせいで地面は完全にぬかるみ、馬は一歩進むたびに深く泥へ脚を取られる。兵士たちも靴を泥まみれにしながら歩き、後方を進む補給用の荷車は、重たい車輪を軋ませながらどうにか前へ進んでいた。
だが、それも長くは続かなかった。
「押せ!」
「もっと後ろから支えろ!」
前方から怒鳴り声が聞こえ、行軍の列が止まった。
何事かとレオが馬を進めると、一台の荷車が深いぬかるみにはまり込み、完全に動けなくなっていた。
数人の兵士が後方から必死に押しているが、荷物を満載した車体は重く、車輪は泥の中で空回りするばかりだった。
その一台が止まったことで、後ろに続いていた荷車も兵士もすべて動けなくなり、街道の上には長い列ができている。
「早くしろ!」
「後ろが全部詰まってるぞ!」
次第に苛立った声が増えていく。
レオは馬上からその光景を眺めていた。
そして、なぜか妙な違和感を覚えた。
「……止まってる」
「は?」
隣にいたガイゼルが怪訝そうに見る。
レオは荷車から目を離さないまま呟いた。
「一台止まっただけなのに、後ろが全部止まってる」
「街道が狭いので当然でしょう」
ガイゼルはそう答えたが、レオの胸の奥では何かが引っ掛かっていた。
一台。
それだけなのに、全部が止まる。
その瞬間、頭の奥へ鋭い痛みが走った。
「っ……」
思わずこめかみを押さえる。
同時に、見たこともない景色が脳裏を駆け抜けた。
どこまでも続く灰色の道路。
その上を埋め尽くす、巨大な鉄の箱のような乗り物。
赤い光。
鳴り響く音。
そして、知らない誰かの焦った声。
『配送遅れてます!』
『トラックが止まって――』
レオは息を呑んだ。
何だ、今のは。
自分の記憶ではない。
少なくとも、この世界で見たものではなかった。
「若様?」
ガイゼルの声で現実へ引き戻される。
レオは頭を押さえたまま首を振った。
「……いや、何でもない」
そう答えた直後だった。
「敵だ!」
前方から鋭い叫び声が響いた。
一瞬で空気が変わる。
街道脇の森が大きく揺れ、次々と黒い影が飛び出してきた。
「野盗か!?」
兵士たちが慌てて剣を抜き、盾を構える。
だが、飛び出してきた者たちの動きは明らかに野盗のそれではなかった。
「前へ出るな! 荷車だけ止めろ!」
低い号令が響いた瞬間、敵は迷うことなく補給用の荷車へ向かってきた。
レオは目を見開く。
「補給を……?」
普通の野盗なら、金品や馬を狙うはずだ。
だが彼らは違っていた。
最初から補給車だけを狙い、ヴァルディア軍の行軍そのものを止めようとしている。
しかも、よく見れば兵士を殺そうとしていない。
剣を受け流し、盾で押し倒し、足を払って隊列を乱していくものの、倒れた相手へ止めを刺すことはなかった。
「右を塞げ!」
「荷車を抜かせるな!」
怒号が飛び交い、街道は一気に混乱へ陥った。
ただでさえ泥で足場が悪いうえに、荷車が詰まっているせいで兵士たちは満足に動けない。
その様子を見ているうちに、レオは次第に気付いていった。
これは偶然ではない。
相手は最初から、ここで混乱が起きると分かっていた。
やがて森の奥から、一人の大男が姿を現した。
黒い外套を羽織り、傷だらけの鎧を身に着け、片手には人間一人を真っ二つにできそうな巨大な戦斧を担いでいる。
それだけで周囲の空気が変わった。
「……なんだ、あれ」
近くの兵士が震えた声を漏らす。
灰色の髪。
獣のように鋭い目。
そして、何人もの戦場を潜り抜けてきた者だけが持つ圧倒的な威圧感。
レオは直感した。
こいつが頭だ。
「道を空けろ」
男が低く告げる。
大声でもない。
それなのに、その一言だけで敵の動きが一斉に揃った。
次の瞬間、大男は地面を蹴った。
泥が大きく跳ね上がる。
「速っ!」
誰かが声を上げるより先に、男の戦斧が振るわれた。
ヴァルディア兵の槍がまとめて弾き飛ばされ、構えていた兵士たちが泥の中へ転がる。
それでも男は追撃しなかった。
倒れた者たちには目もくれず、ただ一直線に荷車へ向かっていく。
「止めろ!」
ガイゼルが叫ぶ。
兵士たちが次々と前へ出たが、まるで歯が立たなかった。
槍を弾き、盾を叩き、兵士を吹き飛ばしながら進んでいく。
圧倒的だった。
それなのに、誰も死んでいない。
そのことが余計に異様だった。
レオは息を呑む。
今まで見た誰よりも強い。
少なくとも自分には、兄たちですらここまで圧倒的には見えなかった。
やがて大男は補給車の前へ辿り着き、戦斧をゆっくりと振り上げた。
その瞬間だった。
再び、頭の奥へ強い痛みが走った。
『物流が止まれば全部止まる』
知らない声。
巨大な倉庫。
積み上がる大量の荷物。
慌ただしく走る人々。
『配送を止めるな!』
レオは大きく息を呑んだ。
分からない。
なぜそんな景色を知っているのかも、誰の記憶なのかも。
けれど、一つだけ確信があった。
ここで荷車を止めてはいけない。
「荷車を捨てるな!」
叫び声が自分の口から飛び出していた。
兵士たちが一斉にレオを見る。
レオ自身が一番驚いていたが、もう止まれなかった。
「道を塞ぐな! 前の荷車を動かせ! 後ろは間隔を空けろ!」
「わ、若様?」
「荷車一台に全員集まるな! 人を分けろ! 止まったら後ろまで全部止まる!」
言いながら、自分でもなぜそんなことが分かるのか理解できていなかった。
けれど頭の中には、先ほど見た灰色の道路と長く続く鉄の箱の列が焼き付いている。
流れを止めてはいけない。
一か所に集中させてはいけない。
どこかが詰まれば、全部が死ぬ。
それだけは不思議なほどはっきりと分かった。
大男が初めてレオを見た。
鋭い獣のような目がこちらへ向けられる。
その視線とぶつかった瞬間、背筋を冷たいものが走った。
男はしばらく無言でレオを見つめた後、ゆっくりと口を開いた。
「……坊主」
低い声が、雨音の中でもはっきりと届く。
「今の言葉、誰に教わった」
レオは答えられなかった。
自分自身にも分からないからだ。
降り続ける雨の中、泥に沈む街道と止まりかけた荷車、怒号の飛び交う戦場の中心で、レオはただ男を見返していた。
そしてこの時、まだ本人は知らなかった。
剣も軍略も兄たちに及ばなかった三男坊の中に、ヴァルディア領の誰も持っていない知識が眠っていることを。
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