折れた剣
雨が降っていた。
空を覆う灰色の雲から絶え間なく落ち続ける冷たい雨粒が、ヴァルディア城の石壁を静かに叩き、城下へ続く石畳を鈍く濡らしている。
中庭では普段なら兵士たちの怒号や剣戟の音が響いているはずだったが、今日は異様なほど静まり返っていた。
兵たちは皆俯き、使用人たちも互いに顔を見合わせようとはせず、重苦しい空気から逃げるように廊下を急ぎ足で通り過ぎていく。
誰かに事情を聞くまでもなかった。
その空気だけで十分だった。
ヴァルディア領は負けたのだ。
それも、取り返しのつかない形で。
「……若様」
低く掠れた声が聞こえ、レオ・ヴァルディアはゆっくりと顔を上げた。
石廊下の先に立っていたのは、全身を泥と血で汚した老騎士ガイゼル・ローガンだった。
ヴァルディア家の筆頭家臣であり、父グレインに長年仕え続けてきた忠臣。そして幼い頃からレオに剣術や礼儀を叩き込んできた教育係でもある。
普段のガイゼルは、どれほど危険な状況でも岩のように動じない男だった。
だが今日の姿は明らかに違っていた。
肩当ては砕け、頬には生々しい傷が走り、全身を覆う鎧には乾きかけた血がこびりついている。そして何より、その目にはいつもの鋭い光がなかった。
「帰ったのか、ガイゼル」
「……はい」
返ってきたのは短い一言だけだった。
それだけで胸の奥が嫌な音を立てる。
レオは無意識に唇を噛んだ。
「兄上は……?」
ガイゼルは答えなかった。
雨音だけが、静まり返った石廊下へ響き続ける。
やがてガイゼルはゆっくりと片膝をつき、顔を伏せた。
「セイル様は、第二軍を退かせるため殿を務められました」
その言葉を聞いた瞬間、レオの心臓が大きく脈打った。
嫌な予感はしていた。
それでも、聞きたくなかった。
「……遺体は?」
「確認できておりませぬ」
視界が僅かに揺れる。
次兄セイル。
明るく、人懐っこく、身分に関係なく誰にでも声を掛ける兄だった。兵士たちからも慕われ、長兄アルスが戦死した後には、崩れかけたヴァルディア軍を必死に支え続けてきた。
幼い頃、剣術訓練で何度負けても付き合ってくれたことを思い出す。
剣を取り落として泣きそうになったレオの頭を乱暴に撫でながら、
『お前、本当に剣は向いてないなぁ!』
そう笑っていた兄だった。
その兄が、戻ってこなかった。
戦場で殿を務め、そのまま帰らない。
それが何を意味するのか、レオにも分かっていた。
「……そうか」
ようやく口から出たのは、そんな掠れた声だけだった。
ガイゼルは顔を伏せたまま、さらに続ける。
「敵軍は国境砦を突破しております。現在もこちらへ向けて進軍中で、おそらく三日もあれば、この城へ到達するでしょう」
「父上は?」
「執務室におられます」
レオは一度目を閉じ、それから何も言わず歩き出した。
足がひどく重かった。
いつもなら数分もかからない執務室までの廊下が、今日は妙に長く感じられる。
逃げたいと思った。
今すぐ自室へ戻り、布団を被って、何も聞かなかったことにしたかった。
だが、それができないことくらいは分かっている。
やがて執務室の前へ辿り着くと、レオは扉の前で一度立ち止まり、深く息を吸ってから静かに扉を開いた。
室内には濃い薬草の匂いが漂っていた。
窓際の椅子に腰掛けていたのは、一人の男だった。
グレイン・ヴァルディア。
ヴァルディア辺境伯にして、かつて“鉄壁伯”と恐れられた猛将。
若い頃には数倍の敵軍を防ぎ切り、北方から侵攻してきた騎馬軍を壊滅させたとも言われる伝説の武人であり、レオにとっては誰よりも大きく、誰よりも恐ろしい父だった。
だが今、その姿にはかつての威圧感がほとんど残っていなかった。
右脚には分厚い包帯が巻かれ、椅子の傍らには杖が立て掛けられている。顔色は悪く、頬も以前より痩せて見えた。
先の戦いで受けた傷は、それほど深かった。
医師たちははっきりとは口にしなかったものの、城にいる誰もが理解していた。
グレイン・ヴァルディアは、もう二度と以前のように戦場へ立つことはできない。
「……来たか」
父が低い声で言った。
レオは小さく頷き、それから机の上に置かれている物へ視線を向けた。
そこには一本の折れた剣があった。
セイルの剣だった。
刃の途中から無残に折れ、残された刀身にはまだ乾ききっていない血がこびりついている。
それを見た瞬間、胸の奥を強く締め付けられた。
「兄上が……」
「ああ」
グレインは短く答えた。
それだけだった。
けれど、その声には押し殺しきれない感情が滲んでいた。
父は感情を表へ出さない男だった。
長兄アルスが戦死したと知らせが届いた時ですら、人前では涙一つ見せなかった。
だが今、椅子へ座り、折れた剣を見つめるその背中は、レオが知る父より何十年も老いてしまったように見えた。
しばらく誰も口を開かなかった。
部屋の外では、変わらず雨が降り続いている。
やがてグレインが、机の上へ広げられた地図を見つめたまま口を開いた。
「敵は三日でここへ来る」
地図には周辺の砦や村、街道が描かれ、その上にいくつもの赤い印が書き込まれていた。
すべて敵軍の進路だった。
「領境軍は壊滅した。援軍も期待できん。他領も自分たちの戦で手一杯だ」
淡々とした声だった。
だがその言葉の一つ一つから、隠しきれない疲労が伝わってくる。
長男アルスを失い、次男セイルも失った。
そして自分自身も戦場へ戻れない身体となった。
ヴァルディア領は今、崖の縁に立たされている。
「レオ」
「……はい」
名前を呼ばれ、レオは父を見る。
グレインはしばらく息子の顔を見つめた後、静かに告げた。
「お前が出ろ」
一瞬、その言葉の意味が分からなかった。
「……え?」
「兵を率いて国境へ向かえ」
「ま、待ってください!」
思わず声が裏返った。
「俺は……そんな、俺には……!」
無理だ。
そんなもの、無理に決まっている。
レオは兄たちほど剣を扱えるわけではない。兵を率いた経験もなく、戦場へ出たことさえほとんどない。
敵軍を前にして冷静に命令できる自信などあるはずがなかった。
何より、怖かった。
戦場へ行けば人を殺す。
そして、自分も殺されるかもしれない。
兄たちのように。
「アルス兄上なら……!」
思わず名前を出した瞬間、父の低い声がレオの言葉を断ち切った。
「死んだ」
レオの喉が詰まる。
「なら、セイル兄上だって……!」
「死んだ」
今度こそ何も言えなくなった。
グレインはゆっくりと顔を上げる。
その鋭い目の奥には、怒りではなく深い疲れと悲しみがあった。
「もう、お前しかおらん」
その言葉は、あまりにも重かった。
逃げ道を塞ぐように胸へ突き刺さる。
レオは拳を握り締めたものの、すぐに力が抜けた。
「……俺には無理です」
ようやく絞り出した声は情けないほど震えていた。
「兄上たちみたいにはできません。アルス兄上みたいに強くもないし、セイル兄上みたいに兵たちから慕われてもいない。俺が行ったところで……」
「分かっている」
グレインは静かに言った。
思いがけない返事に、レオは顔を上げる。
父は息子を見つめたまま続けた。
「お前は優しい」
それは褒め言葉として言われたわけではないことが分かった。
「剣を振れば相手のことを考え、命令を出そうとすれば部下の顔色を見る。決断する前に、誰かが傷つかない方法を探そうとする」
グレインは僅かに目を細めた。
「領主にも、武将にも向かん」
レオは俯いた。
自分でも分かっていた。
兄たちは凄かった。
アルスは何をやらせても完璧で、剣も軍略も政治も優れ、誰もが次期当主になると信じて疑わなかった。
セイルは兄とは違う形で人を惹きつけた。
陽気で、人懐っこく、兵士たちの輪の中へ平気で入り込んでは酒を酌み交わす。彼のためなら命を賭けると公言する兵士も少なくなかった。
だが自分には何もない。
剣術は並。
学問も並。
政治も軍略も、兄たちほど優れてはいない。
三男として生まれ、誰からも大きな期待を掛けられないまま育ってきた。
だからこそ、どこかで安心していたのかもしれない。
ヴァルディアを背負うのは兄たちで、自分ではないのだと。
「……ですが、それなら」
「それでも行け」
グレインはそう言うと、机へ手をついて立ち上がろうとした。
「父上?」
次の瞬間、右脚から力が抜けた。
身体が大きく傾く。
「父上!」
レオは反射的に駆け寄り、倒れかけた父の身体を支えた。
腕へ伝わってきた重さに驚く。
昔の父なら、レオが両手で押したところで微動だにしなかったはずだ。
だが今は違った。
震える右脚。
杖がなければ立つこともできない身体。
荒い呼吸。
猛将グレイン・ヴァルディアは、もう戦えない。
その現実を、レオは初めて自分の腕で理解した。
グレインは苦しそうに息を吐きながら、それでも息子の肩から手を離した。
そしてゆっくりと椅子へ腰を下ろす。
「ワシは……もう戦えん」
それは敗北を認める言葉だった。
鉄壁伯と呼ばれ、何十年も国境を守り続けてきた父が、自ら戦えないと認めた。
レオは何も言えなかった。
グレインは再び机の上に置かれた折れた剣へ視線を向けた。
アルスを失い、セイルを失い、そして自分の脚も失ったようなものだ。
それでも領地は残っている。
城には兵がいて、使用人がいて、城下には何千という人間が暮らしている。
その全てを置いて逃げることなど、領主にはできない。
「……ヴァルディアを終わらせるな」
低い声だった。
それは命令というより、父から息子へ託された最後の願いのように聞こえた。
レオは拳を握り締めた。
怖い。
逃げたい。
戦場なんて行きたくない。
剣を握って敵と向き合う自分など、想像しただけで足が震える。
けれど、兄たちはもういない。
父も戦えない。
ここで自分まで逃げれば、ヴァルディア領を守る者は誰もいなくなる。
長い沈黙の後、レオは震える息を吐き出した。
「……分かりました」
掠れた声だった。
それでも、今度は目を逸らさなかった。
グレインは息子の顔をしばらく見つめ、それから静かに頷く。
「明朝、出陣しろ」
その一言で、全てが決まった。
レオは一礼して執務室を後にした。
廊下へ出ると、冷たい空気が頬を撫でた。
外では相変わらず雨が降り続けている。
やがて夜になり、城の多くの明かりが消えた頃、レオは一人で城壁の上へ立っていた。
遠くで雷が鳴り、暗雲の向こう側が一瞬だけ白く光る。
城壁の先には広大な領地が広がり、そのさらに向こうには国境がある。
そして今、その国境を越えて敵軍がこちらへ向かっている。
明日、自分はそこへ行かなければならない。
人を殺し、人が死ぬ場所へ。
兄たちが帰ってこなかった場所へ。
腰に提げた剣へ手を置くと、震えが指先まで伝わってきた。
兄たちは、この震えを感じたことがあったのだろうか。
アルスも。
セイルも。
本当は怖かったのだろうか。
それとも、自分だけがこんなにも弱いのだろうか。
レオは濡れた城下を見下ろしながら、震える手を強く握り締めた。
そして誰にも聞こえないほど小さな声で呟く。
「……なんで俺なんだよ」
答える者はいなかった。
灰色の空から降り続ける雨だけが、これから戦場へ向かう少年の肩を静かに濡らしていた。
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