黒狼将
雨はまだ止む気配を見せなかった。
冷たい雨粒が街道を叩き、深く刻まれた轍に溜まった泥水へ幾つもの波紋を作っている。
ヴァルディア兵と襲撃者たちは互いに武器を構えたまま睨み合っていたが、先ほどまでの激しい争いが嘘のように、誰も次の一撃を放とうとはしなかった。
張り詰めた空気の中心にいるのは、巨大な戦斧を片手に立つ大男だった。
黒い外套の下から覗く傷だらけの鎧。雨に濡れた灰色の髪と、獣を思わせる鋭い眼光。
向かい合っているだけで身体が勝手に強張る。
レオは喉を鳴らした。
この男が強いことくらい、剣の腕に自信がないレオにも分かる。先ほど数人の兵士を相手にした時でさえ、男には余裕があった。
それどころか、本気で戦っているようにも見えなかった。
「……坊主」
大男は戦斧を肩へ担ぎ直し、もう一度レオへ問い掛けた。
「今の言葉、誰に教わった」
レオはすぐには答えられなかった。
教わった覚えなどないからだ。
頭の中へ突然流れ込んできた、見たこともない道路や鉄の乗り物、巨大な倉庫。そして知らない誰かの声。
『物流が止まれば全部止まる』
その言葉だけが、妙にはっきりと頭へ焼き付いている。
「……分からない」
結局、正直にそう答えるしかなかった。
大男が僅かに眉を動かした、その時だった。
「若様、下がってくだされ」
ガイゼルがレオの前へ出た。
老騎士は剣を構えたまま大男から視線を外さず、低い声で続ける。
「その男は危険です。先ほどの動き、並の兵ではありません」
「そっちの老騎士も大概だろう」
大男は鼻で笑ったものの、その声に殺気はなかった。
そこでレオは改めて周囲を見た。
襲撃者たちは武器こそ構えているが、誰一人として倒れたヴァルディア兵へ刃を向けていない。
街道には何人もの兵士が転がっている。
腕を押さえて呻いている者もいれば、泥まみれになりながら起き上がろうとしている者もいたが、少なくともレオの見える範囲に死者はいなかった。
剣の腹で叩かれ、盾で押し倒され、武器を弾き飛ばされているだけだ。
襲撃者たちは最初から殺すつもりがなかった。
「……あんたたち、本当に野盗か?」
レオが尋ねると、大男の目が僅かに細くなった。
「何故そう思う」
「野盗なら、もっと好き勝手に襲うだろ。でも、あんたたちは違う」
レオは周囲へ視線を向けながら続ける。
「指示された通りに動いて、最初から荷車だけを狙った。それに誰も殺してない。どう見ても訓練された兵士の動きだ」
ヴァルディア兵の間から小さなどよめきが起こった。
言われて初めて気付いた者も多かったのだろう。
その隣で、ガイゼルは何も言わなかった。
ただ、大男の顔をじっと見ている。
「……お前」
やがて老騎士が低く呟いた。
大男は答えない。
ガイゼルの眉間へ深い皺が刻まれていく。
「その顔……いや、まさか……」
「ガイゼル?」
レオが声を掛けても反応しない。
雨の向こうにある過去の記憶を探るように、大男を見つめ続けていた。
そして突然、その目が大きく見開かれた。
「……黒狼」
その言葉を聞いた瞬間、大男の口元が僅かに歪む。
「ようやく気付いたか、老騎士」
ガイゼルの表情が一気に険しくなった。
「ダグラス・グランベル……!」
今度こそ、周囲の兵士たちが大きくざわめいた。
「ダグラスって……黒狼将か!?」
「三年前に死んだんじゃなかったのか?」
「ロディアの黒狼が、どうしてこんなところに……」
次々と飛び交う声を聞きながら、レオは改めて男を見る。
ダグラス・グランベル。
その名ならレオも知っていた。
かつてヴァルディア領の西方に存在した軍事国家、ロディア領。その中でも最強と恐れられていた将軍が、“黒狼将”ダグラスだった。
「三年前、北方戦線で一度だけ見た」
ガイゼルは剣を構えたまま言った。
「敵軍中央を数百の兵だけで突破し、そのまま本陣近くまで食い破った男だ。まさか生きていたとはな」
「覚えられているとは光栄だ」
ダグラスは面倒そうに答える。
レオはその後ろにいる襲撃者たちを見た。
改めて観察してみれば、確かに野盗には見えなかった。
装備は酷いものだった。
鎧は欠け、革紐で無理やり補修され、剣には錆が浮いている。中には軍靴すらなく、布を足へ巻き付けている者さえいた。
しかし立ち方が違う。
互いの距離を保ち、周囲を警戒し、誰一人として勝手な行動を取らない。
長い間、戦場で生きてきた兵士の姿だった。
「……この人たちも、ロディアの兵士なのか?」
レオが尋ねると、ダグラスは一度だけ頷いた。
「ああ」
ロディア領は三年前に滅びた。
周辺諸侯との戦争に敗れ、最後は複数の軍勢によって領都を包囲されたと聞いている。
戦いは凄惨を極め、城だけでなく街まで焼かれ、多くの住民が犠牲になった。
「黒狼隊まで生き残っていたとはな……」
ガイゼルが呟くと、ダグラスの目が少しだけ冷たくなった。
「簡単には死なん」
「死ぬ場所もなかったからな」
背後にいた男が乾いた笑いを漏らした。
誰も続かなかった。
雨音だけが街道を満たしていく。
ガイゼルはしばらく黙っていたが、やがて剣を僅かに下げた。
「何故、野盗などしている」
その問いにダグラスは顔色一つ変えなかった。
「負けたからだ」
あまりにも簡単な答えだった。
「国が滅びれば、軍もなくなる。軍がなくなれば給金も食料もない。昨日まで兵士だった人間が、翌日から食うために何かを奪えば賊と呼ばれる。ただそれだけだ」
誰も反論できなかった。
ダグラスは止まった補給車へ視線を向ける。
「食料を少し貰って消えるつもりだった。お前たちを殺すつもりはない」
「それでも野盗であることに変わりはない」
ガイゼルが言う。
「そうだな」
ダグラスはあっさり認めた。
開き直っているわけではなかった。
その横顔に浮かんでいたのは、怒りよりも疲労だった。
レオはダグラスたちを見回した。
皆、痩せている。
顔色も悪く、鎧の下から覗く服は擦り切れていた。
それでも彼らの目だけは死んでいない。
その姿を見た瞬間、また頭の奥に何かが浮かんだ。
『人が消えれば現場は回らない』
続いて、知らない景色が一瞬だけ見える。
忙しそうに人々が働く建物。
空いたままの机。
誰かが困った顔で紙を抱えている。
『辞めた人間は、簡単には戻ってこない』
「……まただ」
レオは小さく呟いた。
意味は分からない。
けれど、その感覚が目の前の男たちと妙に重なった。
「なあ」
レオが声を掛けると、ダグラスが視線を戻した。
「あんたたち、これからどこへ行くつもりなんだ?」
「行く場所なんざない」
ダグラスが答える。
すると後ろの兵士が肩を竦めた。
「冬まで生きてりゃ上出来だろ。どうせ最後は野垂れ死にだ」
冗談のような口調だった。
だが誰も笑わなかった。
レオは唇を噛む。
目の前にいるのは、自分たちの補給車を襲った敵だ。
間違いなく野盗でもある。
それでも同時に、居場所も役目も失った兵士たちだった。
「若様」
ガイゼルが低い声で呼ぶ。
「同情なされるな。この者たちは戦場を生き抜いた猛者です。こちらが隙を見せれば、いつ牙を剥くか分かりませぬ」
「言われなくても分かってる」
ダグラスは鼻で笑い、戦斧を肩へ戻した。
「食料は諦める。今日は引くぞ」
それだけ告げて踵を返そうとした。
「待て」
自分でも考えるより先に、レオの声が出ていた。
ダグラスが振り返り、ガイゼルも驚いた顔でこちらを見る。
レオは一度息を呑んだ。
何を言おうとしているのか、自分でも分かっていた。
だからこそ怖かった。
それでも、このまま行かせる方が間違っているように思えた。
「……俺たちに雇われる気はないか」
街道が静まり返った。
「若様!?」
ガイゼルの声が裏返る。
ヴァルディア兵だけでなく、黒狼隊の者たちまで目を丸くしていた。
ただ一人、ダグラスだけが無表情のままレオを見つめている。
「正気か、坊主」
「多分」
「多分で俺たちを雇うのか?」
「俺だって自分が何言ってるかくらい分かってるよ」
レオはそう返してから、拳を握った。
怖くないわけではない。
この男たちが裏切れば、自分たちは簡単に全滅するかもしれない。
だが、それ以上に分かっていることがある。
「ヴァルディアには人が足りないんだ。兵士も、護衛も、道を守る人間も全部足りない」
兄たちが死に、大勢の兵士を失った。
これから敵軍が迫ってくるというのに、百五十しか連れてこられないほど追い詰められている。
そんな自分たちの前に、行き場を失った歴戦の兵士がいる。
レオには、それをそのまま捨てる方が理解できなかった。
「だったら――」
レオはダグラスを真正面から見た。
「奪う側じゃなく、守る側になれ」
その言葉が雨音の中へ落ちた。
ダグラスの表情は変わらなかった。
しかし、その鋭い目だけがほんの僅かに揺れた。
黒狼将ダグラス・グランベルはこの時初めて、目の前にいる頼りなさそうな少年を、一人の人間として真正面から見つめた。
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