騎士の価値
雪は、それから数日経っても止まなかった。
ヴァルディア領の城壁はすっかり白く染まり、街道には深い轍だけが残っている。北へ向かう道はほとんど使えなくなり、山道も完全に雪へ埋もれていた。
周辺の小さな領地では食料不足が深刻になり、旅人からは略奪が起き始めたという噂まで届いている。
今年の冬は、例年より早く、そして厳しかった。
だが、そんな中でもヴァルディア領はまだ崩れていなかった。
市場では商店が細々と営業を続け、兵士には決められた量の配給が出ている。以前受け入れた流民たちも、雪かきや倉庫整理、荷運びといった仕事に加わりながら、最低限の食事を受け取っていた。
誰も余裕があるわけではない。
食料を好きなだけ食べられるわけでもなく、暖炉の薪も節約しなければならない。それでも、街にはまだ人の声があり、兵士も商人も流民も、それぞれの仕事を続けている。
それだけでも、リゼには異様な光景に見えた。
城内の廊下を歩きながら、彼女は何度も周囲へ目を向けていた。
人々の顔が、死んでいない。
それが不思議だった。
国が滅びてからの三ヶ月、リゼは多くの領地を渡り歩いてきた。
食料を求めて争う人々を見た。
配給を巡って兵士同士が殴り合う姿も見た。
城門前に集まった流民を、槍で追い払う兵士もいた。
領民が飢えている一方で、冬を越すための食料を自分たちだけで抱え込む貴族もいた。
それが、今の戦乱では珍しいことではなかった。
むしろ普通だった。
ところが、ヴァルディアは違う。
余裕があるわけではない。
混乱もある。
食料だって、春まで何の心配もなく食べられるほど残っているわけではない。
それでも、どこかが完全に崩れてしまったような空気がなかった。
「何をそんなに見てる」
後ろから聞こえた声に、リゼは足を止めた。
振り返ると、廊下の壁際にダグラスが立っている。
大柄な身体に黒い外套をまとった姿は、城内にいてもまるで野生の獣のようだった。
リゼは小さく息を吐く。
「……妙な領地だと思っていた」
ダグラスは面白そうに笑った。
「今さら気付いたか」
「お前も含めてな」
「俺?」
「そうだ」
リゼは真っ直ぐ彼を見る。
黒狼将ダグラス。
国を失った敗残兵を率い、一時は街道を襲っていた男だと聞いている。
本来なら、そのまま野盗として討たれるか、どこかの傭兵団へ身を売るような立場だったはずだ。
それが今では、ヴァルディアの兵として普通に城内を歩き、街道の警備まで任されている。
「どうして、ここにいる」
ダグラスは少し考えるような顔をした。
「飯が出るからだな」
あまりにもあっさりした答えだった。
リゼは眉をひそめる。
「それだけか」
「それが一番でかいだろ」
「誇りはないのか」
その瞬間、ダグラスの表情が少しだけ変わった。
怒ったわけではない。
むしろ、懐かしいものを見るように笑った。
「誇りで腹は膨れん」
リゼは何も言えなかった。
騎士として育った彼女は、幼い頃から何度も同じことを教え込まれてきた。
忠義を尽くせ。
名誉を守れ。
騎士として誇りを持て。
主君のためなら命を捨てろ。
それが正しいのだと信じていた。
だが、現実はどうだった。
国は滅びた。
仕えていた主も死んだ。
仲間もほとんどいなくなり、最後には食料すら手に入らなかった。
どれほど誇りを持っていても、食べなければ人は立っていられない。
ダグラスは静かに続けた。
「死んだら終わりだ」
先ほどまでの軽い調子ではなかった。
何度も戦場を越え、多くの仲間を失った者の声だった。
「俺も昔は、もっと面倒なこと考えてた。だが国がなくなって、腹減らした部下が目の前にいりゃ、そんなもんは後回しになる」
リゼは視線を落とした。
その言葉を否定することができなかった。
自分も同じところまで追い込まれていたからだ。
もしヴァルディアへ辿り着けず、この冬をさらに彷徨っていたらどうなっていたのか。
騎士の誇りを最後まで守れたのか。
今のリゼには、自信を持って答えることはできなかった。
その時、中庭の方から大きな怒鳴り声が聞こえた。
「ふざけるな!」
リゼとダグラスが同時にそちらを見る。
声は兵糧庫の方から聞こえていた。
「行くか」
ダグラスが壁から身体を起こす。
リゼも黙って後に続いた。
兵糧庫の前には、すでに何人もの兵士が集まっていた。
その中央で若い兵士が声を荒らげている。
「なんで流民にも同じように配るんです!」
「俺たちは兵士です! 戦になれば命を張るのは我々兵士です!」
周囲にいる兵士たちも険しい表情をしていた。
積極的に同意している者ばかりではない。
だが、誰も若い兵士を強く止めようともしていなかった。
皆、心のどこかで似た不満を抱えているのだろう。
冬が深まるにつれ、食料への不安は大きくなっている。
今は配給が出ている。
だが、あと何ヶ月この雪が続くか分からない。
そうなれば、ほんの少しの食料の差でも気になるのは当然だった。
兵糧庫の前には、レオとエルクもいた。
どうやら配給量の確認をしていたところへ、兵士たちが詰め寄ったらしい。
「若様」
若い兵士がレオを見る。
「兵士を優先すべきです」
レオはすぐには答えなかった。
「俺たちは戦うためにいるんです。もしザルツが攻めてきたら、城壁に立つのは俺たちでしょう」
「そうだな」
「だったら、流民と同じ扱いはおかしいです。戦えない者に配る分があるなら、兵に回すべきでしょう」
リゼは少し離れた場所から、そのやり取りを見ていた。
兵士の言い分は理解できる。
というより、以前のリゼなら同じ判断をしていただろう。
限られた食料しかないのなら、まず戦力を維持する。
兵士を優先し、その後で民へ回す。
国を守るためには当然のことだと教えられてきた。
だからレオも、多少の不満は出ても兵士側を優先するのだと思っていた。
しかし、レオは兵士を見ながら静かに尋ねた。
「今、流民が何してるか知ってる?」
兵士が少し戸惑う。
「……雪かきなどをしていることは知っています」
「それだけじゃないよ」
レオは兵糧庫の方へ目を向けた。
「倉庫の整理をしてる人もいるし、荷運びを手伝ってる人もいる。雪が少ない日は街道の補修にも出てもらってるし、馬の世話をしてる人だっている」
若い兵士は黙った。
「その人たちがやらなかったら、誰がやる?」
「それは……」
「兵士にやってもらうことになるだろう」
レオは責めるような言い方はしなかった。
ただ、確かめるように話している。
「でも兵士をずっと雪かきや荷運びに使ってたら、今度は巡回や警備に回せる人が減る。逆に流民の人たちがそういう仕事をしてくれてるから、兵士は兵士の仕事ができてるんだ」
周囲が少し静かになった。
レオは続ける。
「食事を減らして動けなくなったら、その仕事もできなくなる。それで兵士が代わりにやることになったら、結局こっちの負担が増えるだろう」
その説明を聞きながら、リゼは僅かに目を細めた。
この少年は、兵士と流民を別々に見ていない。
兵士が戦う。
流民が雪をかく。
誰かが荷を運び、別の誰かが食料を管理する。
役割は違っていても、その一つが止まれば別のところへ負担が回る。
レオは、それを全部繋げて考えている。
若い兵士は、それでも納得できない様子だった。
「ですが、兵士の方が重要でしょう」
その言葉に、レオは少し考えた。
「重要じゃないとは言ってないよ」
「なら……」
「でも、兵士だけいれば領地が残るわけでもないだろ」
若い兵士が口を閉じる。
レオは兵糧庫から城下の方へ視線を向けた。
「畑を耕す人がいなかったら、食料は作れない。荷を運ぶ人がいなかったら、作った物も届かない。鍛冶屋がいなかったら武器も農具も直せないし、大工がいなかったら家や倉庫も直らない」
そして、もう一度兵士を見る。
「兵士も必要だよ。でも、兵士だけが必要なわけじゃない」
その言葉に、リゼは僅かに息を止めた。
彼女が教えられてきた価値観とは大きく違っていた。
騎士は民より上にいる。
兵士は農民より価値がある。
国を守る者こそ優先されるべきだ。
そんな考えが、騎士社会では当たり前だった。
だがレオは違う。
立場ではなく、その人間が何をして領地を支えているのかを見ている。
若い兵士が悔しそうに拳を握った。
「でも、俺たちは命を懸けます」
「分かってる」
レオはすぐに答えた。
「だから兵士の食事を減らすつもりもないし、戦える状態は維持する。でも、それを理由に他の仕事をしてる人の食事を必要以上に減らしたら、結局どこかに無理が出る」
少し間を置き、レオは言葉を続けた。
「今のヴァルディアは、誰か一人だけで支えられるほど余裕がないんだ」
兵士たちは何も言わなかった。
完全に納得したわけではないだろう。
それでも、少なくとも反論する言葉はすぐには出てこなかった。
実際、今の城下では流民たちが多くの仕事を担っている。
以前は兵士や領民だけでやっていた荷運びや雪かきを手伝う者が増えたことで、それぞれの負担は確実に減っていた。
レオは集まった兵士たちを見ながら、最後に言った。
「俺も食料が余ってるなんて思ってないよ。だから配給量は毎日確認してるし、必要なら調整する。でも、どこかの人だけ切り捨てて楽になるやり方は、今はやらない」
声を荒らげたわけではなかった。
それでも、その言葉には迷いがなかった。
しばらくすると、若い兵士は視線を落とした。
「……分かりました」
完全に納得した声ではない。
だが、少なくとも今は従うと決めたらしい。
周囲にいた兵士たちも、それぞれ不満の残る表情をしながら散っていった。
レオはその背中を見送った後、少し疲れたように息を吐いた。
「エルク」
「はい」
「今の配給量、もう一回確認して。兵士も流民も減らしすぎない範囲で、春までどれくらい持つか知りたい」
エルクは手元の帳簿を開く。
「分かりました。ただし、これ以上人が増えればまた計算し直しです」
「それは……まあ、そうだな」
「若様が人を拾ってきますからね」
「俺が拾いに行ってるみたいに言うなよ」
少し離れたところでダグラスが笑った。
リゼは笑えなかった。
今のやり取りが、頭から離れなかったからだ。
兵士を一番にしない。
騎士や兵という身分だけを特別扱いしない。
だからといって兵士を軽んじているわけでもない。
必要な役割を、それぞれ必要なものとして見ている。
それが、リゼには理解しにくかった。
自分が今まで信じてきたものと、根本から違っている。
兵士が強ければ国を守れる。
騎士が命を懸ければ民を守れる。
そう信じてきた。
だが、実際には自分の国は滅びた。
精鋭の騎士はいた。
強い兵士もいた。
それでも食料がなくなり、街道が絶たれ、人が逃げ出し、最後には軍そのものが崩れた。
思い返せば、戦う者だけを見ていたのかもしれない。
その時、隣でダグラスが笑った。
「頭こんがらがってる顔してるな」
リゼは少し睨む。
「……顔に出ているか」
「思いっきりな」
「余計なお世話だ」
「まあ、分からんでもないがな」
ダグラスは兵糧庫の壁へ寄り掛かった。
「俺も最初は似たようなもんだった」
リゼが彼を見る。
「お前も?」
「ああ。あの坊主、兵士だから偉いとか、貴族だから偉いとか、そういうのあんまり気にしねぇからな」
「それで成り立つのか」
「今のところはな」
ダグラスは口元を歪める。
「変な奴だが、妙なところで筋は通ってる。飯食わせるなら働けと言うし、働かせるなら飯を食わせる。兵だから多く食わせるとか、流民だから減らすとか、最初から決めつけない」
リゼは黙ってレオを見る。
若い。
まだ十五歳だと聞いている。
剣の腕も特別強いわけではなく、騎士らしい威圧感があるわけでもない。
判断に迷うこともある。
分からないことがあれば、ガイゼルやエルクへ普通に尋ねている。
それなのに、人が集まってくる。
国を失った敗残兵がいる。
行き場を失った流民がいる。
仕える場所をなくした自分まで、今はここにいる。
以前のリゼなら、そんな者たちを弱者と呼んでいたかもしれない。
戦えない者。
守られる側の者。
あるいは、一度敗れた者。
だが、この領地では、そうした人間たちが役割を与えられ、それぞれの場所で働いている。
雪かきをしている老人がいる。
倉庫で荷を整理する女がいる。
壊れた建物を直す大工がいて、街道を補修する若者もいる。
一人では小さな力にしか見えなくても、それらが重なって今のヴァルディアを動かしていた。
もし、その全てがなくなればどうなるのか。
兵士だけが残っても、食べ物を作る者がいない。
騎士だけが残っても、壊れた道は直らない。
どれほど強い剣を持っていても、冬の雪を斬って食料を生み出すことはできない。
そんな当たり前のことを、自分は今まで本当に考えたことがあっただろうか。
「騎士の価値って、何だと思う?」
不意にリゼが尋ねた。
ダグラスが眉を上げる。
「俺に聞くのか?」
「他に誰がいる」
「騎士じゃねぇ俺に聞いてもしょうがねぇだろ」
「なら、お前にとって戦士の価値は何だ」
ダグラスは少しだけ考えた。
いつものように軽口を返すのかと思ったが、今回は違った。
「生き残って、必要な時に戦えることじゃねぇか」
「名誉は?」
「必要なら持っとけ。ただ、それで部下を飢えさせるくらいなら捨てる」
迷いのない答えだった。
リゼは視線を落とした。
騎士になった頃なら、そんな答えを聞けば鼻で笑っていただろう。
だが今は、笑うことができなかった。
国が滅びる瞬間を見た。
守るべき人間がいなくなった城で、最後まで騎士らしく死ぬことに何の意味があったのか。
もし生き残って、別の場所で誰かを守ることができるなら。
それもまた、騎士の役目なのではないか。
兵糧庫の前で、レオはまだエルクと帳簿を見ていた。
「この数字だと、もう少し減らした方がいい?」
「今はまだ必要ありません。先に市場への放出分を調整しましょう」
「分かった」
「あと、若様自身の食事も減らしてはいけません」
「俺の?」
「先週、夕食を半分残したでしょう」
「食欲なかっただけだよ」
「医師から体重を戻せと言われているはずですが」
「なんで知ってるんだよ」
「ガイゼル殿からです」
少し離れたところで聞いていたダグラスが吹き出した。
リゼも、ほんの僅かに口元を緩めた。
あれが本当に、自分が仕えることを決めた領主なのかと思うと、少し妙な気分になる。
威厳はない。
少なくとも、リゼが今まで見てきた領主たちのような威厳はなかった。
だが、自分の食事まで帳簿の話と同じように注意される十五歳の少年が、領地全体を必死に動かそうとしている。
その姿を見ていると、不思議と目を離すことができなかった。
「変な奴だろ」
ダグラスが言った。
リゼは少し考えてから頷く。
「ああ。かなりな」
「そのうち慣れる」
「慣れたくはないな」
「無理だ。俺もそう思ってた」
ダグラスは笑いながら中庭の方へ歩いていった。
リゼはその場に残り、もう一度レオを見る。
騎士とは何なのか。
自分がこれまで信じてきた答えは、まだ完全には消えていない。
忠義も、名誉も、誇りも、今でも大切なものだと思っている。
それらを全部捨てるつもりはなかった。
ただ、それだけでは人を守れないことを、リゼはすでに知ってしまった。
食料を運ぶ者がいるから兵は戦える。
道を直す者がいるから軍は進める。
畑を耕す者がいるから国は生きられる。
ならば騎士の価値も、自分がどれだけ誇り高く死ねるかではなく、その力で何を守れるかによって決まるのかもしれない。
まだ答えは出なかった。
それでも、昨日までとは少しだけ考え方が変わっている。
リゼは兵糧庫の前で人々と話すレオの背中を見ながら、初めてそう感じていた。
この少年は強い騎士でもなければ、優れた戦士でもない。
だが、本気でこの領地を生かそうとしている。
そして、そのためなら敗残兵でも流民でも、自分のように国を失った騎士でも、必要な場所を作ろうとしている。
ならば、自分の剣にもまだ使い道があるのかもしれない。
滅んだ国と共に終わるはずだった騎士としての人生を、ここでもう一度始められるのかもしれない。
そんな考えが胸に浮かんだことに、リゼ自身が一番驚いていた。
もし少しでも「面白い」「続きが気になる」と思っていただけたら、
ブックマークやページ下部の☆を押して評価をお願い致します!
作者の励みになります!




