備蓄
秋の風は思った以上に早く冷たくなった。
ヴァルディア領へ吹き込む空気にはすでに冬の気配が混じり、朝晩ともなれば吐く息が白く見えるほど気温が下がっている。
街道沿いでは、それでも多くの人間が働いていた。
流民たちは壊れた側溝を掘り直し、放棄されていた畑の草を刈り、橋の周囲では冬の増水や凍結に備えた補強作業が続いている。
少し前まで人影すら少なかった場所に、今は槌の音や掛け声が響いていた。
人が増えれば、動かせる場所も増える。
止まりかけていたヴァルディア領は、確実に以前とは違う姿を見せ始めていた。
市場にも変化があった。
並ぶ商品の数はまだ多いとは言えないものの、以前のように空いた露店ばかりということはなくなっている。
小麦。
干し肉。
塩の詰まった樽。
燻製魚。
果実酒。
革製品。
鉄釘。
簡素な農具。
商人たちの声も少しずつ増え、市場へ来る領民の姿も目立つようになっていた。
まだ豊かではない。
むしろ周辺領と比べれば、ヴァルディアは今でも貧しい。
だが、死にかけていた街へ人と物が戻り始めている。
城壁の上からその様子を眺めながら、レオは小さく息を吐いた。
「少し戻ってきたな」
隣に立つガイゼルが静かに頷く。
「ええ。流民たちも思った以上によく働いております。街道の工事も予定より進んでおりますな」
「商人は?」
「以前より増えました。エルク殿が税を整理してから、通りやすくなったという話も広がっているようです」
悪くない。
レオがそう思ったところで、ガイゼルの表情が僅かに曇った。
「ただし……別の問題がございます」
レオは市場へ向けていた視線を動かさないまま答えた。
「食料だろ」
ガイゼルは少し驚いた後、頷いた。
「はい」
流民を受け入れれば人口は増える。
黒狼隊もいる。
街道工事に出る者も増えた。
それだけ食べる人間が増えたということでもある。
今はまだ秋だ。
収穫を終えたばかりの村もあり、市場には一定量の穀物が出回っている。
だが冬は違う。
雪が積もれば街道の状態は悪くなる。
山道は使えなくなり、商隊の数も減る。
そこへ戦まで重なれば、外から入ってくる食料は一気に細くなる。
レオは城下を見ながら静かに言った。
「備蓄を増やす」
ガイゼルが横を見る。
「今からですか?」
「ああ」
「まだ秋ですぞ」
「だから今なんだ」
レオは迷わなかった。
前世の記憶が自然と蘇る。
災害。
大雪。
交通規制。
事故。
物流停止。
昨日まで普通に店へ並んでいた物が、突然消える。
その瞬間、人は慌てる。
必要以上に買い込み、さらに品物が減り、値段が上がる。
誰かが得をする前に、多くの人間が困る。
この世界は前世よりさらに脆い。
街道一本が雪で止まるだけでも、村一つが孤立しかねない。
ならば、流れが動いている今のうちに蓄えるしかない。
城へ戻ると、レオはそのまま執務室へ向かった。
そこではエルクが相変わらず帳簿へ埋もれている。
「エルク」
呼ばれた文官が顔を上げる。
「何でしょう」
「周辺から余っている食料を買い集める」
エルクの羽ペンが止まった。
「……かなり金を使いますよ」
「分かってる」
「一気に買えば市場価格にも影響します」
「それも分かってる」
「今の財政状況でやるなら、他の支出を削る必要があります」
「それでもやる」
レオの返事に迷いはなかった。
エルクはしばらくこちらを見つめた後、僅かに口元を緩める。
「やっぱり変わってますね」
「またそれか」
「普通の領主なら、金が余れば兵を増やします」
エルクは肩を竦めた。
「武器を買う。傭兵を雇う。砦を強くする。食料を先に買い込む人はそう多くありません」
ガイゼルも腕を組みながら苦い顔をする。
「周囲から見れば、臆病だと思われるでしょうな」
「好きに言わせればいい」
レオはそう答えた。
実際、その日の夕方には噂が広がり始めていた。
市場へ来た商人たちが面白半分に話し、街道を通じて周辺へ伝わっていく。
「ヴァルディアが穀物を買い集めてるらしいぞ」
「戦でも始まるのか?」
「いや、まだ何もないらしい」
「じゃあ若い領主代理が怯えてるんじゃないか?」
酒場ではそんな話が笑い話になっていた。
商人たちも不思議そうな顔をする。
「今は収穫直後だぞ」
「冬はまだ先だろ」
「穀物なんて抱え込まず、金で持っていた方がいい」
多くの者にとって、それが普通の感覚だった。
今困っていないのなら、今使う必要はない。
冬の問題は冬になってから考える。
だがレオには、その考え方の危うさが分かっていた。
その夜、執務室の窓から暗くなった空を見上げながら、レオは小さく呟いた。
「止まる」
ガイゼルが振り返る。
「若様?」
「冬になれば道は止まる」
レオは地図へ視線を落とした。
「雪だけじゃない。寒くなれば商隊も減る。兵糧を狙う略奪も増える。戦が起きれば街道そのものが封鎖されることだってある」
机の上にはヴァルディア領と周辺地域を記した地図が広げられていた。
川。
橋。
山道。
街道。
今は繋がっている。
だが冬になれば、その幾つかは簡単に使えなくなる。
前世でも同じだった。
物は届いている時には、その価値を意識されない。
だが止まった瞬間、何でもないはずの一箱、一袋が急に命へ直結する。
「飢えは国を壊す」
レオが静かに言った。
ガイゼルは何も答えなかった。
その言葉には、妙に否定できない重さがあった。
「先を見過ぎる癖があるな、お前」
突然、部屋の隅から声がした。
見ると、いつ入ってきたのかバルドが壁際の椅子へ座り、酒瓶を片手にこちらを見ている。
「間違ってるか?」
レオが尋ねると、バルドは酒を一口飲んでから首を振った。
「いや。正しい」
そして窓の外へ視線を向ける。
「ただ、多くの領主はそこまで考えない。戦が来たら兵を集め、雪が降ったら薪を買い、食料が減ったら商人を呼ぶ」
「そして、その頃には高くなってる」
エルクが帳簿から顔を上げた。
「食料も薪も、足りなくなってから買えば当然値段が上がります。周辺領も同じ状況なら、そもそも売ってもらえません」
「だから今買う」
レオは頷いた。
流れがあるうちに運ぶ。
安いうちに確保する。
足りなくなる前に分散して持つ。
止まってからでは遅い。
それは前世で嫌というほど思い知らされたことだった。
「倉庫はどれくらい使える?」
レオが尋ねると、ガイゼルが答えた。
「城の北側に古い兵糧庫があります。ただし、長年使っていない区画も多く、全量を保管するには足りないでしょう」
「なら増やす」
ガイゼルの眉が上がった。
「今からですか?」
「ああ」
「冬まで、さほど時間はありませんぞ」
「だから急ぐ」
レオは地図から顔を上げる。
「雪はこっちの都合で待ってくれない」
その一言で部屋が静かになった。
しばらくしてエルクが小さく笑う。
「本当に、止まる前提で考えるんですね」
「止まる可能性があるなら、止まった後を考えるのは遅いだろ」
レオは当然のように答えた。
エルクは少し考えてから帳簿を引き寄せる。
「では、買い付ける量を決めましょう。ただし一か所から大量に買うのは避けます」
「何故だ?」
ガイゼルが尋ねる。
「価格が上がるからです。それと、そこから来る街道が止まったら終わる」
その答えに、レオはすぐ頷いた。
「分散するのか」
「はい。北と西、それから比較的戦の少ない南西方面の商人へ分けて頼みます」
エルクは紙へ数字を書き始めた。
「穀物だけでも駄目です。塩、干し肉、豆、保存の利く魚、それと冬場に不足しやすい薬草も少し確保した方がいいでしょう」
バルドが横から口を挟む。
「薪もだな」
「薪?」
「冬に食い物があっても、凍えて死んだら意味がない」
レオは少し考えてから頷いた。
「それも入れよう」
こうして話は次々と具体的になっていった。
食料を買うだけではない。
何をどれだけ。
どこから。
どの街道を通して。
どの倉庫へ置くのか。
そこまで考えて初めて、備蓄になる。
翌日から、ヴァルディア領では本格的な冬支度が始まった。
商人たちへ買い付けの話が回され、領内へ少しずつ物資が運び込まれる。
小麦。
大麦。
干し肉。
塩。
燻製魚。
豆。
薬草。
薪。
倉庫へ入りきらない分を置くため、新しい簡易倉庫の建設も始まった。
流民の中にいた大工たちが中心となり、黒狼隊の一部も木材運びを手伝っている。
街では相変わらず笑う者もいた。
「辺境の若造は冬眠でもする気らしい」
「まだ敵も来てないのに、倉庫ばかり建ててるぞ」
周辺領からも似たような声が聞こえてきた。
それでもレオは気にしなかった。
敵兵なら姿が見える。
数も数えられる。
戦場に出れば、どこから来るのかもある程度は分かる。
だが飢えは違う。
静かに広がる。
食料が減り、人が不安になり、値段が上がり、最後には奪い合いが始まる。
そして一度そこまで崩れれば、立て直すのは難しい。
だからこそ、止まる前に動く。
レオは新しく積み上がっていく穀物袋を見ながら、小さく息を吐いた。
本当に恐ろしいのは、剣を持った敵だけではない。
人と物の流れが止まり、その先で飢えた人間が生まれること。
それを知っているからこそ、レオは誰に笑われようとも、冬が来る前に備え始めていた。
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